詩人の生活


 詩人の生活について、三好達治君が「都」に書いた悲壮な一文は、まことに同感に耐へないことであつた。詩人の貧乏は世界の通り相場とは言ひながら、月十五円の収入とは余りに悲惨である。三好君も言ふ通り、僕等はあへて金のことを問題にするのではないが、詩の文藝価値を安く踏みつけ、詩に対して正常な報酬さへ支払つてくれないところの、日本の文壇とジャーナリストの非礼節を怒るのである。三好君の記事によれば、最近漸く文壇に出たばかりの、しかも何等秀れた才能のない一青年作家の小説に対し、某雑誌社は、三好君の詩に払う稿料以上に、ずつと多額を払つたといふことである。かうした待遇の差別は、単に稿料の件ばかりでなく、詩そのものに対する文壇の侮辱的観念を実証して居る。ひとり三好君ばかりでなく、詩人全体に対して同様のことが行はれて居る。僕等の文学とその作者とは、日本の文壇で小説等の下に位置され、常に忍びがたく卑陋視されて居るのである。
 前にも書いたやうに、詩は雑誌の埋草として、コマ絵代りに扱はれて居り、創作欄にさへ入ることが出来ないのである。そして詩が「創作」扱ひにされないといふことは、とりも直さず詩が「文学以外のもの」即ち雑文やゴシップ記事と同一種目に見られてることを証左する。すべての雑誌の広告は、小説とその作家の名を堂々と大活字で並べて、詩とその作家の名を余白に小さく、ゴシップ記事などと一緒に掲載する。「中央公論」の五十年記念号には、多くの小説執筆者の名が初号活字で大々的に広告され、久しぶりで詩を書いた高村光太郎氏の名が、端の方に小さく六号活字で出されて居た。これは詩壇の大家高村光太郎氏に対する侮辱ではない。僕等の文学全体に対する侮辱なのである。
 三好君も書いてる通り、詩人が一篇の詩を作る苦心は容易ぢやない。普通の場合、詩人は十年かかつて一冊の詩集を出してる。比較的多作の人と雖も、三年に一筋の割でしか書けないのである。それほど詩といふものは、稀にしか浮んで来ない貴重品である。その上詩人が一篇の詩を書くのは、作家が百枚五十枚の小説を書くのと同じ苦心を要するのである。十行の詩の原稿料が、百枚の小説の原稿料より安かつたら、僕等の仕事は間職に合はず、正常な報酬が取れないのである。況んや詩一篇の原稿料が、小説大家級に払ふ一枚分の稿料でしか無かつたとしたら? 詩人よ。むしろタダで書いてやれ。(中野重治君は、詩一行につき五円を要求しろと言つてる。正当なことである。)
 日本で詩がこんなに冷遇されて居るといふことは、つまり日本の文壇全体が卑俗主義で、詩の精神たる高貴な文学性を欠いてるからである。日本の文壇といふものは、全く不思議な特殊文壇であつて、詩もエッセイも評論もなく、一つただ小説(文学中での最も卑俗なもの)だけが独占してゐる。日本で「文学」といふ言葉、「創作」といふ言葉は、それ自ら小説を意味して居り、文学と小説とが、日本語ではシノニムになつてるのである。しかもその小説といふのが、また日本的に特殊な小説であつて、日常茶飯の身辺記事を叙したやうな、極めて卑近な茶話的漫談文学なのである。ジイドとか、フローベルとか、ツルゲネフとかいふ西洋の小説にみる高邁な詩的精神や人生哲学は、決して日本の小説には見られない。稀にさうした作品が現れても、文壇は黙殺するか許殺するかしてしまふので、その種の作家は永久に文壇的水面に浮び出せない。つまり日本では、卑俗主義の文筆と卑近主義の文士だけが栄えるのである。日本で小説が繁盛するのも、小説が文学中での最も卑俗主義なものであるからである。しかもまたその小説が、世界に類なき卑俗主義のものなのである。
 かうした日本の文壇で、詩やエッセイのやうな高貴な山頂文学が孤立するのは当然である。詩はもちろんのこと、エッセイの如きものも、外国では文壇の一等席に地位して居り、小説よりも一段上位に尊敬されて居るのである。然るに日本の文壇では、これがやはり三等席の雑文扱ひにしかされてない。のみならずまた、日本のエッセイであるところの「随筆」そのものが、世界に類なく卑俗主義の文学なのである。今の日本で文壇的に好評されてる随筆といふものは、小説よりも一段また卑俗の調子で、日常茶飯の記事を書いた漫談的身辺文学なのである。世界の何処を見たつて、こんな奇妙な文学が流行してゐる文壇はない。外国のエッセイといふものは、本質的に皆高邁な哲学や詩的精神を持つて居るのだ。日本でも昔の「枕草子」や「徒然草」には、やはり高貴な詩精神が本質して居た。所が今の日本ではその「高邁な精神」が禁物なのだ。詩や哲学やのむづかしいことはすべて除いて、日常茶飯の身辺記事を、極めて卑俗な調子で話しするほど好く、且つそれが「文学」の一切なのである。
 かうした卑俗主義の専横してる文壇で、詩人の生活する孤独さと寂蓼さを考へて見よ。物質上の不遇は忍ぶとするも、この精神上の不遇には忍び得ない。そこで今日僕等詩人の為すべきことは、詩を作るよりも先づ文明を作ることの努力にある。すべての詩の本源する所は、今日の日本の文明と文化にあるのだ。この文化を改造しない中は、永久に日本の文学は駄目であり、詩人の浮びあがる瀬はないのである。僕には三好君の怒りと悲しみがよく解る。そして一般に、詩人の生活の孤独さがよく解る。だが単にその悲劇を詠嘆するだけでは愚痴にすぎない。僕等の敵は、単に文壇やジャーナリストにあるのでなく、現代日本文化の本源してゐる所に存するのである。
 詩人といふ存在は、今日の日本に於て全く一つの特殊現象である。実際のことを露骨に言つて、今日僕等の作つてる詩といふ文学は、藝術として極めて粗雑なものであり、一の発生期的な試作品にすぎないのである。もし藝術品としての純粋価値から論ずるならば、昔の古典詩である和歌俳句の方が、たしかに僕等の新体詩よりも完成して居る。それにもかかはらず僕等が存在するのは、今日の日本に於て、発生期的未開状態にある新文明を、正しく指導するところの文化使命を負ふからである。この文化使命を自覚しない限り、日本に於ける詩人の存在はナンセンスである。むしろボノオ博士の忠告する通り、伝統を無視した詩など書かずに、日本の国粋詩である和歌俳句を作つてるに如かずである。
 詩人が文壇から冷遇され、物質的に窮乏し、精神的には孤独を強ひられ、しかも自ら顧みて自己の藝術にさへも懐疑を抱き(これがいちばん苦しいことだ)あらゆる受難者の悲劇を一身に背負ひ込みながら、しかも尚よく忍んで生きてゐるは、現代日本文化の指導者を以て自任するところの高邁な殉教的使命を感じて居るからである。そもそもまた詩人でなければ、だれが今日の文学と文化とを、過渡期発生期の混沌から指導するか。明治文学のロマンチシズムは、当時の新体詩人によつて指導された。現代文壇の卑俗主義を啓蒙して、正しく新しい文学への道を指示するものは、僕等今日の詩人の任務である。詩人よ、常に戦へ。作品に、エッセイに、評論に、文学のあらゆる表現を自由に使用し、そして現代日本の文壇と、ジャーナリズムと、及び文明の本源してゐる一切の者と戦へ。その戦闘意識を持たない限り、日本に於ける「詩人」といふ存在はナンセンスであり、そして「詩人の生活」は、単なるミゼラブルの悲劇以外の何物でもない。