西脇順三郎氏の詩論


感覚脱落症といふ病菊がある。身燈の他の部分では、普通の感覚を持つて居ながら、皮膚の或る、鮎だけ、
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観礁彰藤漁礁墜郎琉がk丁度この感覚脱落者である・評論家としでの西脇虎は・
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稀に見る聴明者であり、ポオに似た犀利の頭脳を所有してゐる。それで居て詩の本質に関する或る一新では、
全く不思議なほど解らない−といふょりも無感覚−なのである。この意味で西脇といふ人は、極めて神秘
的な存在である。
 前に自分は、西脇氏の詩論集「純粋な篤」を批評し、近頃最も内容に富んだ詩論であると賞頒したが、同時
にまたそれがヂレツタントの詩論であることを指摘した。此虞でその理由をさらに詳説しょう0西脇氏は詩の
本質を説明して、幕に映つた幻燈の檜にたとへた。幕と燈火との焦鮎距離で、ピントがょく合つた時は散文で
ぁり、それが合はない時のぼけた映蓋は、即ち詩だといふのである0(この論文は古く讃んだのセ、記憶にま
ちがひが有るかも知れない。)また詩とは何ぞやといふ廃問に答へて、葛篭還まで解つてゐて、残りの−がど
ぅしても解らない不思議な無轟敷だといふ。そしてもつと面白いのは、百合や童やの衣を愛し、自然の美を好
む人が詩人なのではなく、さうした言葉の中に、実のイメーヂを感ずる人が詩人だと言ふ○つまり言へば、ボ
ードレエルは動物の猫を愛したのでなく、猫と言ふ言葉のイメーヂを愛したのである。反封に「荏が好きだ
わ」と言ふ女学生は、決して必ずしも筏を歌ふ詩人でないのだ。
西脇氏のかうした詩論は、すべて私にポオの思想を聯想させる0ポオといふ不思議な詩人は、いつも人生を
かうした紳澄論で解澤して居た。そこでポオに深く感嘆してゐる私は、西脇氏のかうした詩論にまた感嘆する0
だが或る最も本質的な一つの鮎で、私はポオを理解し得るやうには、西脇氏を理解し得ない0と言ふのは、ポ
ォの場合には、それがすべて逆説であり、紳澄論的な秘密な意味を、思想の奥に隠して居るのに、西脇氏の詩
論の場合は、その坪澄論的反語の意味が、よく解らないからである0勿論上述のやうな西脇氏説は、形態上で
の詩論として、正官にまちがひない詣であるが、西脇氏の場合は、これがしばしば詩の文学的本質、即ち詩的
J∫J 詩人の使命

表現の動機として居るポエヂイ論の本質にまで及んで来るので、私にとつて理辞され得ない1と言ふょりも
承諾され得ない1ソフイスト流の奇説になつて来るのである。
西脇氏にょれば、詩とは観念聯合の順位敷的常識に反対して、精神錆乱的の飛躍をすることである。つまり
成るべく顆想のない二つの言葉を、命題の主鮮と賓辟に置いた文章が詩なのである。そこで「純粋」の次に
「理性」を表象したものは散文であり、「純粋」の封語に「篤」を表象したものが詩だといふことになる。
 この西脇説は、詩の方法論的形態論として確かに正しい0正しいといふょりも常識であり、何人も反封する
理由を知らない0詩の精神が「非日常的な飛躍」であり、22ガ4的常識への叛逆と破壊であることは、私自
身でさへが常に所説してゐることであり、西脇氏と私とは、この鮎で全く完全に一致して居る。しかしながら
西脇氏は、かうした「常識への薮逆」や、「非日常性への飛躍」やが、詩人にとつて何故に欲情されるかとい
ふことの意志の本質問題について知らないのである0もつと詳しく説明すれば、人生に於て、詩が欲求される
ことの必然性と、詩を歌はねばならない生活の悲哀や苦悶(それがポエヂイの本質である)を知らないのであ
る0なぜなら西脇氏は、詩的楕紳の本質を以て、上述の如き形態の中に轟きるとし、すぺてのりリシズムを排
斥して、詩を一種の「純粋修靡寧」と見るからである。
 ポオと西脇氏は、この鮎に於て大いに違つてゐる○ポオは〓刀に於て、詩を科挙的教理で鮮澤しながら、一
方で「リヂア」のやうな小説を書き、且つ主張して、眞の詩的精神はりリシズムの外にないと言つてゐる。
ハポオの抒情詩は、たいてい皆リヂア的の神秘樽愛詩である0)ポオの場合には反語がある。だが西脇氏の場合
には反語がないのだ0西脇氏は私の詩を批評して、「青猫」や「月に吠える」などのやうに、22ガS的な奇
抜の飛躍表象があるから面白いので、それが私の詩の償値の一切であると言つた。その意味は、詩からその歌
 はうとする心の欲求、即ち生活感情を一切抹殺してしまつて、畢にレトリックとしての形態だけを、興味の封
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 それ故に西脇氏にとつて、詩の文畢償値は全く興味(知性の鑑賞)にしか過ぎないのである。然るに私等の
詩人にとつて、詩の深く魂を魅力する所以の償値は、心緒の琴線にそれが解れて、センチメントやエクスタシ
イやの感情そのものを動かす所にある。私等にとつて、詩の面白さは決して畢なる「興味」ではない。すくな
くとも私等は、科挙の珍らしい賓験を見たり、不思議な見世物や軽業やを見たりするやうな面白さ、即ち「興
味」で詩を讃むのではない。況んやまた、そんな知性的なレトリックを楽しむ為に、詩を遊戯的に書いてゐる
のではない。
 詩と散文との直別を、幻燈の映童に誓へる西脇氏は、その形態上の別を以て、直ちにポエヂイの本質と断定
する。しかしながら人生に於ける詩精神は、畢にさうした形態論で、簡単に定義づけられるものではない。筏
ゃ自然を愛する人が、決して必ずしも詩人でなく、さうした語のイメーヂを愛する人が、本官の詩人であると
いふ氏の説は、ポエムを形態上の表現で見る限り正常である。しかし花といふ語のイメーヂを愛する人は、花
といふ言葉の表象に、詩人の人生に於て主観してゐるところの、心の或る情感を寄せてるのである。主観の生
活情操と関係なくして、畢に言葉や文筆の面白さから、子供が美しい切抜細工をするやうにして、クロスワー
ド的に言語を玩弄して楽しむやうな人であつたら、私等の意味に於て、決して本官の詩人ではない。それは
「言葉の遊戯者」であり、心に眞のポエヂイを持たないところの、遊びのための技蜃家、即ち所謂ヂレツタン
トなのである。そして西脇氏の詩論が、正にその「ヂレツタントの詩論」である。
 前に自分は、西脇氏を感覚脱落者にたとへた。身健の他のすべての部分は、敏感すぎるほどに敏感であり、
聴明すぎるほどに聴明なのだが、ただ或る一つの部分だけが、全く無感覚に脱落して居るのだ。そしてこの脱
落した部分が、即ち氏の場合に於ける「生活」なのである。つまり西脇氏は、生活を持たないところの詩人な
〃J 詩人の使命
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のだ0そこでこの話人には、文拳の形態やレトリγクに関する限り、何でもよく犀利に鰐るのだが、一度文畢
の内容問題、即ち文寧する精神の本質に解れてくると、まるで理解がないといふ以上に、無神経な感覚脱落者
になるのである○そこで氏の文学論には、モラルもなく、人生もなく、意志もなく、ヒユーマニチイもなく、
すべての文学する精神を虚脱された形態ばかりが、鮮剖董の上の死燈のやうに提出されてゐる。しかも美学者
である西脇氏は、その「物質」に過ぎない死膿を、さも生命あるもののやうに取扱ひ、死化粧した女のやうに
美しく眺めてゐるのだ0これは美挙のメスを手にするところの、不思議なアブノーマルな外科瞥である。
 だが果して、こんな人間が賓在するだらうか↑ 胃袋も、肝臓も、意志も、情緒も、魂もなくつて、知性の
頭脳ばかりで生きてる人間、しかもそれで詩を論じ詩を作つてゐる人間、そんな不思議な表象は、アブノーマ
ルである以上に、影のない人間の馬眞みたいだ0ボオル・グァレリイは、テスト氏といふ架茎人物に自己を託
して、透明椅子人間のやうな人を措いてる0それは何事にも感動を持ち得ないほど、知性の冷徹した聴明非情
の人物である0所で一燈、詩人ヴァレリイ氏の「夢」はどこにあるのだ。彼の場合で言へば、彼の夢とポエヂ
イとは、幾枚も幾枚も重ね合はした厚い椅子1椅子はいくら厚く重ねても透明である1を通して、奇妙に
複雑に曲折する光線のスぺクトラムと、その美しく数理的な夢のイマヂネーションに存するのだ。ヴァレリイ
の主知的詩寧は、いかにも俳蘭西人的であり、そして俳蘭西人でなければ、到底理解することの出来ない詩美
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である。
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西脇氏の詩論や思ふにこのグァレリイを租適して居る。氏はおそらく、自分を椅子人間のテスト氏に表象
し、影のない人間の夢を考へて居るのだらう。彿蘭西人といふ人間は、元来皆テスト氏のやうな人間である。
彼等は民族性の本質からして、椅子のやうな冷徹な叡智と、数理的美学に準じたサンチマンの趣味を持つてゐ
る0グァレリイのテスト氏は、現代併蘭西人のデカダンな表象である。だが現代の日本に、そんな健蘭西人が
昏るだらうか− そもそもこの文化蜃生勅の猥雑文草と新澄詩的椎魅の出費朋にある日本の辞世に、二十世紀
の俳蘭西文化を表象するやうなテスト氏が、夢の破片の中にだつて有り得るだらうか。況んやグァレリイ的壬
知主義の詩論など、日本では理解されない以上に不思議であり、夢を論ずる以上にナンセンスである。
 此虞に於てか西脇氏の詩論は、自己の生活する現賓環境と関係なく、単にその外国語寧的イメーヂの観念上
で、超自然の眞茎圏内に揚つてしまふ。即ち言へば、それは時間客間にも関係なく、因果の法則とも絶縁して、
単に論者自身だけの頭脳1骨によつて囲まれた一つの物理的スぺ−ス ーによつて構成された、一の非賓在
的な自己イリュージョンに過ぎないのである。しかもこの自己錯覚的なイリュージョンで、現代日本の詩を論
じ、賓に存在しない虚像の物で、賓に現貴してゐる世界を観念づけようとするところに、西脇詩論のあらゆる
夢魔と荒唐無稽さが生み出される。そしてこの西脇詩論の荒唐無稽さは、かつて自らシュル・レアリズムと構
したところの、日本の所謂主知主義詩論とその一汲の詩人たちとの、全系統に関して指摘される。彼等の所謂
「超現賓汲」は、彼等の詩論が時峯と因果を超越して、自己の現茸環境から遊離した非賓在的なものであり、
錯覚的自己イリュージョンであつたと言ふ意味に於て、正しく皮肉にも「超現資汲」なのであつた。
 すべての文学は、自己の生活環境の反映であり、現賓の生活情操を離れて文畢は存在し得ない。そして環境
を作るものは、言ふ迄もなくその牡合文化情操である。今日現代の日本に於て、彿蘭西詩壇のイデアやヴィジ
ョンを再現しょうと試みるのは、馬車に乗つて天峯旗行を思ふょり馬鹿げて居る。もしその種の観念が有り得
るとすれば、それは外国語寧的イメーヂの眞重囲で、「頭脳」の内部にのみ有り得るところの、葺在性なき架
杢な観念にすぎないのである。しかもその「架室」を以て「現賓」を論ずる時、此虞に西脇氏的ヂレツタント
の詩論が蜃生する。
 資に日本の詩壇は、過去に長くこのヂレツタントの詩論を繰返して来た。畢に西脇氏ばかりではない0かつ
Jj∫ 詩人の使命

ての所謂「象徴汲」も、所謂「浪漫渡」も、所謂「立膿汲」「未来渡」「表現汲」も、それから伶「民衆渡」や
「人道汲」でさへ、すべて西洋詩壇の流行を迫つた直諾であり、日本の文化に賓在しない架杢のものを、語学
的観念に於て幻影した幽塞だつた。そしてそれ故に、日本の「詩」と構する文学は、過去に於て皆ヂレツタン
トとダンヂイズムの文学だつた。それは民衆の生活とも関係なく、文化の現茸とも交渉なく、畢に詩人自身の
頭脳内でのみ構想されて居たところの、杢中浮遊の風船玉文畢だつた。過去の日本に於て、異に文化的現資性
を持つた本物の詩は、子規や餓幹によつて新しく改革されたところの、歌と俳句の俸統詩にすぎなかつた。
 しかしながらこの傾向は、最近西脇氏とその一汲(詩・現賓一波。シュル・レアリスト一浪を指すのであ
る。)に至つて、最悪の極端まで指導された。日本の詩と詩壇とは、最近に至つてヂレツタンチズムのあらゆ
る病癖を暴露した。そしてこの慈しき潮流への指導者が、賓に西脇順三郎氏であつたのである。私が西脇氏に
封して、人物としての深い興味と尊敬とを持つてゐながら、氏の詩論を反撃弾劾せねばならない理由が、全く
資にこの一事に存して居る。私が西脇氏を尊敬するのは、頭脳のポオ的飛躍とグァレリイ的冷徹とを認めるか
らだ。資際すくなくとも日本の詩壇で、過去に氏ほどの理性的聴明さを持つた詩人は一人も無かつた。日本の
詩壇に思想らしい思想が生れ、詩論らしい詩論が生れたのは、全く賓に西脇氏以後であり、それ以前は春山行
夫君の所謂「無詩挙暗黒時代」があつたのみである。
 私が西脇氏に興味をもつのは、氏が自らヴァレリイの椅子人間を以つて自侍しぞ居り、地上に映つてる自分
の影を、自分で殺教しょうとすることの、一つの痛ましく悲壮な人格分離の復讐戦を、自己の宿命の中で戦ひ
傷ついて居るからである。私はあへて断定して、西脇氏を一人の宿命的ニヒリストだと言ひ、悲惨な血まみれ
た戦士だと言ふ。そしてこの事質は、何よりもよく氏の作品(詩) に賓澄されて居るのである。詩人の精神分
▲析▲嬰は、彼の希」勝誇h筒が何を語り、何を烈しく悩み訴へてゐるかを、地獄の照魔権現にl照して表由する。詩人と
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L脇−青郷草津如何なる単身掛算計む柊も属し茫ゐないし、透明人山間のチスー氏にも.似合づでゐない。


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却つて傷ついた魂を内に悩んで、悲しみを自ら忘却しょうとして居るのだ。そしてその故に、希膿の明朗な蜜
にあこがれ、情緒や意志の悩みを逃れて、モラルや生活やの無い虚杢の世界、即ち氷のやうに冷徹した知性の
眞杢圏に住みたいのである。
 さればこそ西脇氏は、一つの 「逆説的人物」である。畢に人物ばかりではない。その思想と詩論とが、すべ
て一貫して皆逆説なのだ。しかも氏の悲劇は、その自ら逆説家である事資を、自ら恵み隠して居るといふ宿命
にある。氏はその著書「純粋な篤」の中で自ら言つてる。すぺてこの書に書いてる詩論は、寧枚で講義するこ
ととちがつて居る。生徒に学校で敦へる時は、普通の常識通りに解説し、この書とはちがつた思想で、普通の
通りに詩を説いてると。(大意)。即ち知るべし。氏は自らその詩論が奇説であり、普遍的一般性の物でないと
いふことを、自ら心に自認して居るのである。所で眞理は、それ自ら普遍的一般性の物でなければならない。
特貌的、濁断的の思想は眞理でなく、初めから正論たり得る可能がない。故に西脇氏の場合は、自らそれが普
遍的の正論でないといふこと、眞理で無いといふことを自覚して知つて居ながら、故意に奇説を唱へることの
興味によつて、詩論のための詩論を弄してゐるのである。昔ギリシァのソフイスト等は、世人を驚かすことの
街寧興味と、ロヂツタの駒を用ゐて将棋することの面白さとで、自ら心に信じないやうな奇説を唱へた。そこ
で彼等は「詭持論者」と命名された。詭将論者は逆説家でない。逆説家とは、自ら心に信ずることを、耕讃論
的反語によつて言ふ人を云ふ。詭持家はこれに反し、自ら信仰さへもしないことを、畢に奇説のために奇説す
る人を言ふのである。そこで西脇氏の場合は、まさしく詭粁論者に属してゐる。前に私は、氏の詩論を「ヂレ
ツタントの詩論」と呼んだが、此虞に放てまた「ソフイストの詩論」と命名する。ソフイストの詩論は、ソク
ラテス的正義の詩論にょつて、官然反撃されねばならないのである。
Jjア 詩人の使命

 私は西脇氏を親愛する。だが私の良心と純正詩論は、断じて氏のソフイスト的詩論を許容できない。なぜな
ら我等の日本詩壇は、かうした無良心のソフイスト的奇説によつて壊乱され、現に伶今日に及ぶまでも、正論
が詭将に座され、ギリシァ末期の世相のやうに、詩壇的不義がはびこつてゐるからである。
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