新しい言葉は何処にあるか  日本語の未来


 言語は文化の表象である。或る時代の、或る民族の言葉は、それ自らまた、その時代の、その民族の文明を表象して居る。
 ところで今日の日本の文化が、どんな日本語によつて表象されてるかは、あへて此処に説く迄もない。およそ日本歴史を通じて、今日ほど文化が猥雑混乱を極めて居る時代はなく、したがつてまた今日ほど、言語が支離滅裂を極めて居る時代もない。実に今の日本語には、固有の大和言葉と支那の漢語と、欧州語脈と日本語脈と、翻訳漢語と国粋語と、輸入洋語と新造語と、江戸町人語系と幕末士族語系と、あらゆる種々の語脈、文法、単語が不規則無秩序に混乱して、文法の統一さへも出来かねるやうな有様である。言はば現代の日本文化は、でたらめに掻き廻した沼のやうなものである。あらゆる沈澱物が混沌と渦を巻いて動いて居る。何がその中に有るのか無いのか、まるきり目当もつかないやうな現状である。
 かうした過渡期の現状に於て、日本語の統一問題など考へるのは、明白に言つて早計にすぎると思はれる。文部当局者などが、教科書のことで苦心してゐる悩みは解るが、実際問題としての統一は、むしろ現状に於て不可能である。時代の経過さへ待つて居れば、波動は自然に沈静して、水は清明に澄むであらう。その時初めて、自然の整理と統一とが出来、新しき日本語の文法が成立する。一方でまた或る文学者等は、国語の潔癖を愛することから、現代俗語のでたらめな言葉使ひや、特に流行語の無茶苦茶な脱線ぶりを嫌厭し、事毎に眉をひそめて擯斥してゐるが、これもまた時代の自然に逆らふ反動である。文化上にも言語上にも、今日既に「純粋の日本」といふものは無くなつてる。一旦既に掻き廻された泥の水は、その渦巻が静まるまで、初めの清明に返すことは不可能である。
 今日に於ては、実に何事の未来も予測されない。前途は虚妄の懐疑に充ちてる。しかしながらただ、僕等はその狂乱する渦巻の底を通じて、何等か或る一つのフィギュアにまで、次第に形作つて行くところの「意味」を予感し、近い未来の日本文化に対する、漠然とした暗示を直覚されるのである。そしてこの意味深い直覚を、私は現代の流行語、特に若い人々の創造する流行語の中に後見して居る。
 今の若い人々、特に例へば女学生などの使ふ流行語ほど、文法的に調子外れで、言葉の正しい格に合はず、意味がちぐはぐに錯乱して居り、法則を無視したでたらめ千万のものはない。例へば、
 「断然好きだわ。」
 「モチよ。」
 「失礼しつちまふわね。」
 「なつとらんたらない。」
 「チャッカリしてるわねえ。」
等々の言葉を見よ。これほどでたらめの日本語はないであらう。しかも現代の女学生や娘たちが、好んでかうした言葉を使ふのは、何等かそこに、彼等を魅力するものがあるからである。そして思ふにその魅力は、主として言葉の発音、調子の面白さに存して居るのだ。
 「好くつてよ。」
 「好いわねえ。」
 「頂戴な。」
 「待つててよ。」
 「ねえ。あなた。」
 「憎らしいつたら無いわ。」
 かうした言葉は、今では格別珍しくもなく、現代日本娘の一般的な日常語になつてゐる。そしてひとしくその本質上に、音楽的なメリハリをもち、軽快で歯ぎれの好い都合的な節奏を響かせてゐる。都会、特に東京の娘たちが、近代日本でかうした「彼等自身の言語」を発明したことは自然であつた。そしてこの娘言葉の系統は、今日男の青年にまで伝染し、且つ益々そのアクセントの節奏が強くなつて来た。「断然好き」といふやうな言葉になると、全く文法の規約を無視して、発音の強い抑揚だけで意味が出て来る。(断然はnoの否定にかかる言葉で、肯定に用ゐるべきではない。尤も流行語の面白さは、かうしたデタラメにするナンセンスのユーモアにもある。)
 今日の若い男女の間に、この種の言葉が次第に流行して来てゐるのは、現代日本の文化と国語とが、現に何を強く欲情して居るかを語るのである。元来日本語といふものは、そもそも発生の上古からして、一体に抑揚がすくなく、平板的で韻律に欠乏した国語であつた。そのため昔の詩人たちは、ロ語以外の韻文語として、別に文章語といふものを構成した。文章語としての日本語は、仏蘭西語に類した優美な言葉だと言はれて居る。だがそのために、日常語の方は等閑にされ、藝術的にも文法的にも、少しも整理されない素朴野生のままで放置された。漸く明治の中期に至つてから、初めてこれが文学上に使用され、今漸く少し、その藝術的品位に入りかかつてゐる時なのである。
 一方で日本の文化は、明治以来益々世界的になり、インタナショナルに向つて傾向して居る。昔から「言あげせぬ国」と言はれた日本人も、今では必要に迫られて科学を学び、論理学を学び、大いに理窟や議論をするやうになつて来た。昔の日本人は沈黙を尊び、饒舌にしやべることを賤しんだ。すべての感情は心に隠して、言葉の表現に出さないのを高貴とした。然るに今の日本人は、必要から演説をしなければならなくなつた。そして日常合話に於ても、感情を自由に表現しなければならなくなつた。特に年の若い人たちは、さうした時代性の特色を、彼自身の情操の中に強く持つて来た。然るに従来の日本語は、この点で全く時代の情操と一致しない。韻律的節奏のない日本語は、思ひを内に隠す沈黙の腹藝には適して居ても、しやべることの表情には殆んど通してゐないのである。
 そこで時代の若い情操は、日本語についてこの点を最も強く不満してゐる。如何にもして日本語を、今少し表情的に、今少し視覚的に、そして要するに今少し音楽的にしたいといふのが、今の時代の女学生や青年やの熱望である。そしてこの欲情の赴くところ、彼等一流の大胆と無邪気さとで、乱暴にも文法を無視し、語義を逆転させ、単に発音の抑揚的快感だけで、上述のやうな女学生語や流行語やを生み出したのである。そして思ふにこの傾向は、今後益々甚だしく、学生から社会一般に及ぶであらう。そして今後の日本語は、いよいよ救ひがたく滅茶苦茶のものになるであらう。
 今日のローマ字論者は、何よりも第一に、日本語を「耳で聴いて解る言葉」に統一しようと熱意してゐる。実利主義的に考へれば、彼等の主張は当然すぎるほど当然である。しかしこの場合には、今日我々の言葉の中から、漢語が殆んど迫ひ出されて、純大和言葉の系統だけが残される。然るに日本語の強い抑揚部分は、たいてい漢語の方に存するので、それを除いた日本語は、概して平板単調のものになるであらう。特に軍隊は困るであらう。なぜなら日本の軍隊は、多くの軍用術語に漢語を使用し、普通に家と言ふべき所を、故意に家屋と言ひ、橋といふべき所を、故意に橋梁と言つてるからである。甚だしきは近頃までも、物干場のことをブッカンジョーと言はせて居た。「ものほしば」と言へばアクセントがなく、言語に軍隊的の緊張した精神が無いからである。支那の古韻である漢語には、どこか士気を鼓舞する緊張性があり、独逸語と同じく、軍隊用語として最もよく通してゐる。
 ローマ字論の認識不足は、言語の発育に於ける動機が、実用でなくして感情にあることの忘却である。如何なる民衆の言語も、決して単なる実利主義によつて生れはしない。言語は常に民衆の意志、慾望等を表象し、感情の表現が先に立つて生れるのである。今日の日本の民衆が、未だ漢語調のヒロイックな情操を持つてる限り、にはかにローマ字を採用するわけに行かないだらう。


 今日の日本語の中で、いちばん非音韻的で、いちばん非表情的な言葉は、政府の教科書に採用してゐる「標準語」である。この標準語といふのは、日本語の中からあらゆる感情要素と特殊要素を捨象して、純没個性的、無表情の概念ばかりで作つた言葉である。したがつてそれは普遍的であり、全国のどの地方にも、どの階級の人間にも、公式的にひとしく皆使用される便宜がある。だが「花子さん。明日は散歩に行きませう。」などといふ言葉を、現実の生活で実際に使つてゐる娘や女学生は、どこの地方にも一人だつて居ないのである。
 標準語を除く以外は、すべて皆その地方人が生活してゐる、地方人の生活感情をよく現はして居る、特に大阪、京都の関西語と、東京地方の都会語とは、事実上に於ける日本の二大標準語を代表してゐる。この二つの地方語中で、どつちか一つを決定し、未来の標準語に選べと言へば、私は躊躇なく関西弁の方を取るであらう。その理由は、東京語に比較して、大阪語等の方が音楽的で、耳に快く響き、且つその故にまた、感情を豊富に表現し得るからである。そして現代日本の若き文化情操は、ひとへにまたその種の言葉を欲求してゐるのである。
 関西人、特に大阪人といふものは、しやべる為に生れて来たやうな人間である。汽車の中でも居間の中でも、彼等は絶えずべらべらとしやべり通しである。この点彼等は全く西洋人によく似て居る。彼等には「沈黙の文化」がなく、初めから「饒舌の文化」だけが存在した。したがつて彼等の言語は、主として聴覚本位に発達し、円転滑脱、リズムの流麗を極めて居る。私はかつてエンタツ、アチャコの漫才を聴き、おそらく大阪弁だけが、現代日本に於ける唯一の音楽的言語であり、したがつてまた、詩の韻文に耐へ得る言語だといふことを痛感した。落語でさへも、大阪の落語は全く聴覚本位であり、しやべることそれ自身に魅力をもつてる。之れに反して東京の落語は、ストーリイの内容に意味を持つてゐる。即ち東京の落語は「頭」で聴き、大阪の落語は「耳」で聴くやうに出来てる。前者は文学に近く、後者は音楽に近いのである。
 あらゆる方面の意味に於て、今や日本文化の中心は、次第に東京から離れつつ、関西大阪の方に移つて行つてる。

 要するに日本語は、今日一大変化への過程的過渡期にある。「沈黙から饒舌へ」文化がそれを欲情し、国語がそれを表象して居る。「先づ音楽をあたへよ!」青年がそれを熱望し、言葉がまたそれを求めて居る。それからして破壊が生じ、革命が起り、伝統の日本語は滅茶苦茶に荒されてしまふだらう。私はかつて或る場末の珈琲店で、蓄音機の鳴らす唄を聴いて驚いた。
「愛して頂戴な。ねえ、あなた。」
「あら、チャッカリしてるわねえ。」
「私この頃憂鬱よ。何だか、何だか、変なのよ。」
 これは驚くべき日本語だ。だがそれよりも、かうした言語を生む現代日本文化の猥雑と乱暴さについて、私は全く驚いてしまつた。しかし少し聴いてる中に、さうした俗謡の言葉の中に、私はまた不思議な強い魅力を感じて来た。確かに、此処には何かの新しく溌剌とした力があり、正に勃然として動いてる者が感じられる。それは破壊と革命の底にうごめいてゐるところの、新しき建設への力強い意向である。詩人がそれを発見し、その意向の上に文化の潮流を導く時、すべてはもつと力強く幅の広いものになるであらう。現に既に或る詩人(西条八十氏など)は、無意識的にもせよ、かうした時代の生きた言葉を巧みに捕へて、大衆のための俗謡小唄を作つてゐる。詩人は常に敏感であり、文化の潮流の先に立つてゐる。時代は詩人によつて導かれつつ、新しい建設を遂げるであらう。

 斎藤茂吉氏は、「改造」所載の随筆中で、菊池寛氏小説中の女の言葉「ねえ、楽しいわ」を引例し、美しい日本語も有つたものだと言つて驚いてる。流石に一流の歌人である。

 文中ローマ字に関する私見は、後にその誤解と謬点を発見したので、他日改めて論説する。