蕪村に帰れ   蕪村論の註解として


 文学者の名声的評価なんて言ふものは、必ずしも実力に比例するものではなく、多くはその時代の環境的な運、不運によるのである。例へば浪漫主義が繁盛して、社会意識や人道意識の文学が栄えた時代は、ヂューマやユーゴーのやうな文学者が喝采され、文壇の王座に大御所然として威張つて居た。反対にボードレエルのやうな孤独の詩人は、当時に於て全く評償の外に閑却され、文壇からも大衆からも、殆んど顧みられないやうな有様だつた。然るに最近、欧州大戦以後になつてからは、ボードレエルの評価が山上的絶頂に到達して、遙かに速くユーゴーやヂューマをしのいで居る。かつてはユーゴーの名声に恋恋し、一言御座なりの讃辞をもらつて、無上の光栄のやうに嬉しがつてゐたボードレエルが、地下にもし今日の世評を知つたら、自らその意外に驚くことだらう。
 それ故プラグマチズムの哲学などでは、「真理の価値は実用によつて決定する」と言つてる。此処で実用といふ意味は、もちろん通俗の常識が意味するやうな、卑近な功利性を言ふのではないが、或る時代の社会や文化情操が要求するところの、需要と供給との経済学的関係を指してるのである。つまり今日の欧州でボードレエルが騒がれるのは、大戦後の虚無的、絶望的になつてる社会の文化情操が、ボードレエルの文学を需要してゐるから(実用してゐるから)である。何時の時代に於ても、社会がそれを需要してゐるものは、常に高く価値づけられ、その反対のものは、たとへ実質的に秀れた文学でも、その時代には安く買はれる。まことにプラグマチズムが言ふ通り、藝術の価値もまた一つの相場であり、経済学と同じ原則によつて支配される。
 それ故藝術家の生涯では、かうした運命の幸不幸を免かれない。その人の天質してゐる性向や才能やが、偶然にもその生きてる時代と一致した藝術家は、実力以上に高く買はれて幸運だが、逆にその時代と一致しない藝術家は、すくなくとも生存中に於て不遇である。そして私はこの実例を、芭蕉と蕉村とに就いて言つてるのである。
 芭蕉と蕪村とは、共に実力に於て竝立する第一流の俳人だつた。しかもその文学的名声の評価に於て、両者の間にはあまり隔絶する距離がありすぎた。芭蕉の名声は、既にその生前に於て高く、死後に於ても神仙に近く絶頂に祀られて居た。之に反して蕪村は、生前殆んど閑却され、死後に於ても長い間埋葬されて居た。明治になつて以来、漸く初めてその古墳が態見され、一時芭蕉と竝び評されたが、それも瞬時の流行であり、今日の一般的定評では、芭蕉よりも遙か低く、一茶よりも尚下位の段級に、末技的な写生主義の俳人として見られて居る。最近私が一書「郷愁の詩人・与謝蕪村」を著し、蕪村のために大いに弁ずるところがあつたのも、畢竟この人の不遇について、藝術批判家としての義憤を感じたからであつた。
 プラグマチズムが言ふ通り、価値は実用によつて決定する。江戸時代に於て芭蕉が高く買はれたのは、芭蕉の枯淡趣味や、閑寂趣味や、とりわけ老年心境へのあこがれやが、当時の社会情操たる文化と一致したからである。もちろん蕉門末派のエピゴーネン等は、芭蕉の本質的詩精神を忘却して、これを月竝俳句に卑俗化してしまつたけれども、その江戸末期の文化がまた、さうした卑俗的俳句を要求し、需要して居るやうな時代であった。そして丁度この悪しき時代に、不幸にもまた蕪村が生れたのであつた。蕉村は自ら自任して、芭蕉の詩精神を正統に継承するものと宣言した。しかしその時代の江戸文化は、もはや芭蕉の高邁な詩精神など、少しも要求しては居なかつたのだ。時代の要求して居たものは、江戸座や美濃派の駄洒落俳句と、朝顔に釣瓶とられてもらひ水式の下司俳句であつた。かうした社会環境の中に生れて、独り周囲から超越し、

 陽炎や名も知らぬ虫の白き飛ぶ
 愁ひつつ丘に登れば花茨
 鮒鮓や彦根の城に雲かかる

など高貴でロマンチックな句を作つた蕉村が、無理解以上に白眼視され、孤独を強ひられたことは当然である。
 つまり言へば蕪村は、需要のない供給をした詩人であつた。そして此処に、彼の文学的評価を決定された、すベての宿命的な不運があつた。
 過去の江戸時代に於て、蕪村の代表的俳句として人口に膾炙して居た作は、

  負けまじき角力を寝物語かな
                                                                  j
であつた。これは、加賀千代女等の所謂月竝俳句が得意とする「身に沁みる風や障子に指の跡」式な人情句であり、蕪村俳句中の最も卑俗的な駄作である。しかもそれが蕪村一代の名句として定評され、漸く纔かにこの一句によつて、蕪村の名が俳壇に知られて居たのである。以て江戸末期の俳人等が如何に卑俗的に低落し、真の詩的情操やリリシズムやを失つて居たかを知ると共に、蕪村の時代的孤独さと寂蓼さを察すべきである。
 かうした蕪村の不遇に対し、憤然立つて筆を取り、一方で卑俗的俳句を徹底的に痛罵し尽すと共に、一方で蕪村の価値を山頂的に高く絶賞した正義の人は、実に明治の俳人正岡子規であつた。子規は常に正義を愛し、悪に対して無限の憤りをもつて戦つて居た。子規はまことに一代の義人であり、日本のバイロンを以て目すべき英雄風貌の詩人であつた。しかし彼の文藝批判は、その義憤の感情にのみ強く曳かれて、時にしばしば知性の明徹な瞳を欠いてゐた。特に蕪村に関しては、彼がその不遇に義憤したことの度に準じて、一層その知性の認識を混迷させた。例へば彼は、蕪村と芭蕉との比較論に於て、前者の本質が「趣味」と「写生」とにあり、後者の特色が「観念」と「理窟」とにあると言つた。そして趣味は観念よりも純粋であり、写生は理窟よりも純藝術的である故に、蕪村の方が芭蕉よりも優ると言つた。
 かうした子規の言が、爾後の俳壇に於て蕪村を誤らしたことは非常である。子規は蕪村を引きあげるつもりで言つた。しかしこの評言は、結局ヒイキの引き倒しであり、逆に却つて蕪村の価値を、甚だ卑小のものに換へてしまつた。なぜなら蕪村が、単に「趣味の詩人」であり、技巧的な「写生の詩人」であるといふことは、結局蕪村が真の生活やリリシズムを持たないところの、単なる遊戯的、末技的のヂレツタントであるといふことを、自ら論証したものに外ならないから。しかも子規のこの批判は、爾後の俳人等によつて神聖的に伝承された。蕪村と言へば、すぐ人々は絵画的写生主義の俳人を考へた。絵画的とか、写生的とか言ふことは、文学の表現に於ける一のテクニカルの特色にすぎないのである。蕉村について、単にそのレトリックの方面から、写生主義のテクニシアンと評するのは差支へない。しかしそれだけが全部であり、本質に何等の詩精神もなくリリックもないところの、単なる技巧一点張りの俳人であるとすれば、蕪村の価値は到底末流の下々でしかない。そして実にこの定評の故に、今日蕪村の価値が軽蔑され、一茶よりも一層下に、末派の技巧俳人として見られてゐるのだ。
 かかる蕪村の不遇を見る時、自分はまた憤然として子規の憤りを新たに感じた。蕪村は決して単なる写生主義のテクニシアンではない。およそ文学藝術といふものは、単なる技巧上の上手だけでは、決して人を感動させるものでは無い。特に況んや詩の如きは、本質に切実した主観の燃廃があることで、初めて読者を魅力するのである。蕪村がもし単なる技巧上手の俳人だつたら、今日までも長く残つて、僕等を魅惑することはない筈である。しかしながら蕪村俳句の真精神については、私の近著(郷愁の詩人・与謝蕪村)に詳説したので、此処には煩瑣を嫌つて沈黙する。ただ改めてまた言ひたいのは、今日に於てこそ蕪村の価値が、正しく再認識されねばならないと言ふことである。そもそも子規によつて一度価値の山頂に祀りあげられた与謝蕪村が、その後に於て何故にまた評価を下位に失落したか? 我等の考ふべき問題は此処にあるのだ。
 三度プラグマチズムを借用しよう。価値は実用によつて決定する。明治時代に蕪村の評価が高かつたのは、丁度その時代の若々しい青春文化が、蕪村の詩情するロマンチックな趣味性や青年性のポエヂイやと、偶然に符節して居たからである。子規一派の俳人等は、この点に就いて意識上の認識を持たなかつた、が、実際のことを言へば、彼等も無意識にそれを直覚して居たのである。子規は「万葉集」への復活を主張して居た。「万葉集」の本質する奈良朝文化は、建国日本の大陸的な青春文化で、すべてに於て明治日本の文化的イデアを代表して居た。子規もまたかうした時代に生活し、時代の輿論を表現したところの詩人であつた。所でまた蕪村の俳句が、その大陸的青春性やロマネスクに富んでる点で、本質的に「万葉集」のボエヂイと通ずるのである。一方で「万葉に帰れ」と叫んだ子規が、一方で蕪村に帰れと竝唱したことは当然だつた。つまり言へば子規は、蕪村の中に「万葉集」と通ずるところの、近代的青春牲の文学を見、その故にまた蕪村を強く愛したのである。ただ不幸にして、彼はその最も重大な一視点を、蕪村論の認識から見落して居た。
 然るにその後、大正中期に入つてからは、日本の文化が明治の進取性と冒険性を無くしてしまつた。それは丁度過去に於て、奈良朝文化が平安朝文化となり、大陸的開放から島国的閉鎖となつたやうな事情であつた。そこで文壇もまた、浪漫主義から自然主義に発達し、すべての進取的のもの、青年的のもの、理念的のもの、情熱的なものを排撃した。大正期に於ける自然主義の文学は、日本に於て正に「老年性の文学」を表象して居た。そこではすべての枯淡的のもの、閑寂趣味的のもの、低徊趣味的のものが悦ばれた。そしてこの時代の情操が、文壇に於ては身辺連小説や心境小説となつて表象され、歌壇に於ては古典的アララギ派の歌となつて表象された。
 所で俳句もまた、当然かうした時代の潮流から、独立に孤立するわけに行かなかつた。かつて明治時代に於て、蕪村を高く担ぎあげた俳人等は、今やその反動として、事々にアンチ蕪村論を提出し、その青春性の詩情の故に、蕪村を毛嫌ひして来たのであつた。そこで彼等の新しき神殿に代つたものは、閑寂枯淡の老年趣味を代表する芭蕉であつた。芭蕉について言へば、芭蕉は本来情熱的のヒューマニストで、蕪村以上にさへ純真のリリシズムをもつた詩人であつた。芭蕉は決して情操の枯焼した老年性の俳人ではない。しかし趣味性について見れば、芭蕉はたしかに「老」の閑寂趣味をイデアして居た。そして当時の俳壇と俳人等は、芭蕉についてこの趣味性の方面だけを見たのである。(江戸末期に於ける蕉門亜流の俳人等が、やはりその見方で芭蕉を学んだ。それは蕉門俳句をヂレッタンチズムに堕落させた。)
 かくて心境小説と、アララギ派の歌と、芭蕉亜流の月竝俳句と、すべて「老年性の文学」を代表する文学が、大正期に於て三角形の各頂点を形成して居た。そしてまたこの三つの文学が、それぞれの部門に於て、文学相場の最上な価値表を支持して居た。なぜなら時代の文化情操が、さうした文学を需要して居り、そして価値は需要の実用性によつて決定するから。
 今や新しく、再度また「価値の顛倒」の時代が来た。自然主義は既に廃り、文壇には浪漫主義や行動主義が叫ばれて居る。そして我々の時代の文化は、至る所で「明治に帰れ」を欲情して居る。俳句もまたこの時潮の中で、当然「蕪村に帰れ」を叫ばなければならないのである。自分が小著「郷愁の詩人・与謝蕪村」をあらはし、一門外漢の分を以てあへて俳論を書いた所以も、畢竟この新しき時代の先駆として、日本文学の一部門に「価値の顛倒」を呼びかけたのに外ならない。耳ありて聴くものはこれを聴くべしである。