詩について 1

          室生犀星のこと。詩の野轡性のこと。


 西脇順三郎氏は、詩論集「純粋な篤」の中で詳の本質を論じ、詩とは葛篭¢まで定義が出来て、残りの⊥
が何うしても鮮らないものだと言つてる。つまり言へば、1を9で割つた算術の答が詩になるので、どこまで
行つでも完全の満足した割算が出来ないところに、詩とは何ぞや? といふ千古のスフィンクス的庚問が残る
のである。費際「詩」といふ文孝の賓鰹ほど、常識的に解りきつたやうに思はれでゐて、そのくせだれにも鮮
らない不可恩義のものはない。これはたしかに文孝の神髄に虚してゐる。僕の欝著「詩の原理」なども、やは
り選選¢まで考へたところで、最後の1を未解決に戎したことを告白する。おそらくこの最後の1は、永久の
神秘として残しておく方が好いのだらう。詩が割り切れる敷の文拳になつてしまつたら、詩の本質するロマン
チックのイメーヂが滑えてしまふ。つまり未解決に残された紳秘の1が、詩の本質になるわけである。

「蓋ニ∝重い蒜竺禁に驚「禁ユ犀星雲薫芸應酬の丈を「時空に番い言。者爪中に「担癖
の料理」といふ一節があり、次のやうなことを書いてる。
「僕はもう詩人といふ言葉にとうに飽きてしまつてゐるのだ。何と詩人といふ言葉が無気力でくそ面白くない、
ぱかぼかしい代名詞になつてることか。日く君は詩人であるからどうのかうのと、いかにも詩人らしい見方で
jア夕 日本への●同辟

あるとか、詩人出の小説家であるとかないとか何と忌はしい璽ロがのさばり出してゐることか。(中略)若い
ご婦人に立汲な食堂か何かで封ひ合せに坐つたと思ひたまへ。そして彼女はすこし上眼をするやうな恭羞の情
をあらはしながら、感慨に堪へないものの如く、『まあ詩をおかきになるといふお心持ちは何て美しいんでせ
う○そしてょくお書きになれた時は何てほがらかなお心持でございませう。あたし想像享つし上げるだけでも
お羨ましうございますわ0』と衆たら、一たい先刻から食べた牡蠣の料理やセリイ酒の始末はどうなると思ふ。
そして紳よ助け給へと腹の中で呼ばぎるを得ないのだご
 詩人と呼ばれて牡礪の料理を吐き出すのほあにただ室生君のみならんやだβ僕も昨年田舎に辟つて、久々に
郷里の成る伽研店へ寄つたところ、女給が蔭の方で僕を指さし「あの人詩人よ」「あら素敵だわねえ」と噴い
てるのをきいて早々に逃げ出したことがある0貰際「詩」といふ言葉の中には、さうした甘つたるいものや、
少女文革めいたものや、鼻もちのならない気障なものが資質してゐるのだ。別の言葉で言へば、諸の特質には
ダンヂイズムとセンチメンタリズムとが賓有するのだ。高級と低級との相違はあるが、とにかく諸といふ文学
は、何時でもチョッキの胸にバラの花を挿し、マドロスパイプを伊達にくはへ、気取つた調子で「あな実はし
の愛の女帝よ」といふやうなスタイルを持つ文筆なのだ0身なりや服装について言ふのではない。文学の表現
上にかうした「気取り」やダンヂイズムや、それから甘たるいセンチメンタリズムやが本質するのだ。もしこ
れを気障だと言へばボードレエルも気障であるし、コクトオやラムポオやも東膵である。もしこれを「甘い」
と言へば、ハイネも、ゲエアも、キーツも、パイロンも、すぺての轡愛詩人は皆甘いのである0
 そこで初めて、室生君の「詩に告別する」理由がわかつて来る。小説家としてのレアリズムに老達して衆た
室生君は、彼自身の中に存在してゐるすぺての打たるいもの、詩人的のものを排撃しなければならないのだ。
最近の登生君ほ、人生の賓頼を出来るだけ冷酷にレアールに、歪めて頭刀貰書かうと意志してゐる。そこで役
           カー カノ.  与ポ意識』畑細浦[畑淵
だが近頃出版された彼の小説集をよんで驚いたことには、「紳かをんなか」でも「チンドン世界」でも「赫々の
へど」でも、すべての小説を通じて彼が伺依然として昔ながらの詩人であり、しかも「愛の詩集」の純情的詩
人であることだつた。彼は歪んだ人生の題を書いてる。しかし何んな一人の人間をも、何んな一つの人生をも
偲んで居ない。存在するすべてに封して純情溢るるばかりの愛を以ていとほしんで居る。つまり室生君一流の
心境によつて、すぺてを「いぢらしく、いぢらしく、いぢらしく」眺めて居るのである。
 普、室生君が初めて小説家として文壇に出た時、人々は定評して「感覚演の作家」と構した。しかし「性に
眼覚める頃」等の作を通じて、僕が受け取つたものは、「愛の詩集」のモチーグであり、「抒情小曲集」のエス
プリだつた。即ち詩壇で純情汲の詩人と呼ほれた定評は、そつくりまた小説家としての室生犀星に通應さるぺ
きものであつた。ただ攣化したものは、詩と小説に於ける文学の形式にしかすぎなかつた。所で最近の室生君
は、文季の形式の中から詩の魂溜物を一掃して、完全のレアリズムに到達して居る。文字に表現する限りに於
て、抒情詩的のムードを完全に抹殺して居る。しかも文撃そのものの心境するところは、益ヒ深く抒情詩的に
なつて衆て居るのだ。彼はその庭木や、盆栽や、陶器やなどの自然に対すると同じやうに、彼の心の中の或る
悲しみと悦び(一種の佗びしをり)を、人間生活の賓相から見附け出して来て、これを喝特の仕方で愛撫し、
感傷し、いとほしがつて居るのである。


 都新聞の自由寄稿欄で、某変名氏が大鹿阜のことを書いてる。その文中で、詩の本質する精神は野轡性であ
り、秩序や法則に射する不窺の渡逆心だと言つてるのは面白かつた。詩といふ文筆は、一面では顎律や椅調の
厳重な法則があり、自由に反したメカ1一ズムの文孝であり、且つ非常にデリケートな感覚と神経を内容し、美
∫β∫ 日本への周顕

的修酢の洗練を慈した費族趣味の文学である0だがそれにもかかはらず、詩の本質するエスプリは野攣性で、
粗野の荒々しい非文北的のものを資質して居る。ダンヂイズムとパdハリズムと、繊細な文化神経と粗野でナ
イーグな魂とが、詩の構成では二律反則の矛盾をしてゐるのである。この両面の要東の中で、どつちか一つが
快けては詩人になれない。故芥川龍之介君が、あれほど詩人になることをイデアしながら、結局眞の詩が書け
なかつたハ芥川君の作つた小曲詩や俳句の顆は、文学的修鮮の技巧と洗練で完成しながら、詩としての魂に映
乏して居た。) のは、要するにその性格が文化人としての理智性にすぎ、秩序や法則の外に飛躍する原始人の
野轡性が無かつた馬である。反封に室生犀星君などが詩人として成功したのは、彼の性格に瀦貸してゐる粗野
の原始的野轡性に原因する。ハイネやヱルレーヌのやうな詩人にも、かうしたブリミチープの野攣性が非常に
多いやうに思はれる。しかし野攣性ばかりで詩が書けないことは、故岩野泡鳴氏の例でょく解る。泡鳴氏は賓
にナイーヴな野攣性をもつた作家で、この鮎ヱルレーヌにも比較すべき詩人であつたが、文化梢紳のデリケー
トな趣味や神経に秋乏して居た。その鳥詩に宰術的の香気がなく、詩人として高い地位に登れなかつた。要す
るに詩のエスプリは野轡性で、詩の気質するものは奉衛的貴族趣味である。
 多くの小説家等は、かうした詩のエスプリを忘れて、修靡の美挙的見地からのみ、趣味の形態に悔して見る
やうである。したがつて 「詩」といふ文学が、彼等に於てややもすれほ修鮮的ダンヂイズムの一形式に考へら
れる。即ち美新案旬を弄し、洒落れた言葉を使ひ、気取つた言ひ姻しをし、むやみに凝つて書いた文孝の一形
態を、詩の本質である如く誤解されがちである。谷崎潤一郎氏なども、普青年時代に書いた初期の作品中には、
自ら「詩」を意識して書いたやうな小説がある。苧ついふのは盛んに華魔の文字を使ひ、気取つたダンディ風
の言ひ廻しをして居るが、僕等には何等詩の本質的なエスプリを感じさせなかつた。それょりも却つて普通に
散文意識で香いた作品中に、眞の構押しでゐるポエデイを感じさせるものが多かつた。
著作る気持は、充電した纂の中で、イオンが中和悪を破ら>邑レて不安の頂新に盛り上つ畑潤ヨ
ものである。この一瞬間、詩人の心は丸裸になつて暴れ出してくる。そしてあらゆるナイーグなもの、無拘束
のもの、デタラメのもの、原始的野攣性のものが甥出してくる。これをもし放任しておけほ、奉衝以外の動物
的鳴硫になる外はない。そこで詩は韻律の形式を約束したり、肇術的香気の美を強要したりすることで、補紳
の破滅しょうとする危楼の調和を計るのである。つまり言へば詩の形式や美的修鮮は、野轡他の非塾衝的脱出
を押へる為に、ミユーゼが詩人に課すところの足カセ(楽しき足カセ)である。詩の本成するものは自由不凍
のせ界に逸走しょうとする楕紳の餓飢である。その本願のパッションが心に高潮しない場合に、詩の形態する
美的表現ばかりを文撃しょうとするならば、決してその作品は詩にならない。原則として最も美しい抒情詩を
かく男は、野獣のやうな面魂をもつた人間である。