徒然草について


 徒然草については、既に多くの先輩が見識を叙べてゐるし、最近また佐藤春夫君も、頗る独創に富んだ卓見
を書いてゐるので、僕等如きものの言を挿む余地はないやうに思はれるが、従来の批判の多くは一面的に偏して、
全局からの綜合的妥当性を欠いてるやうにも思はれるので、いささか愚見を述べて識者の教を待つことにした。

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 徒然草は枕草子と共に、日本随筆文寧の攣璧と解せられてる。しかしこれは日本風に随筆と言ふょりも、思
想的要素が多いことで西洋のエッセイに近く、エッセイと言ふょりは、その断章的な形式からアフオリズムに
近い文孝である。古来この書ほど多くの人々に廣く謹まれ、日本文孝史上に特挽の地位を占めてるものはない。
そしてこれには、十分の理由が考へられるのである。
 徒然革の中には、作者念好の主観を中心とした、種々雑多の問題が含まれてる。これを大別すれば、自然観、
人生観、鹿世観、女性観、家庭観、政令覿、心理親等であり、殆んど一切のトピックを網羅してゐる。しかし
    チ ヤ
この苔の主題となつてるものは、やはり出家遁世の思想であり、さすがに作者が借侶であることを思はせる。
徒然革二石鹸章、その大半の章ほ人生の無常を説き、出家求道の急を説き敦へてゐる。


  蟻の如く集まりて、東西に急ぎ、南北に走る。高きあり、卑しきあり、老いたるあり、若きあり、行く
 虞あり、締る家あり、夕に寝ねて、朝に起く。営む所何事ぞや。生を食り、利を求めて、止む時なし。身
 を養ひて何事かを待つ。期する所ただ老と死とにあり。その来ること速にして、念々の問に止まらず。こ
  れを待つ間、何の楽しみかあらむ。惑へる者はこれを恐れず、名利に溺れて、先途の近き事を願みねばな
  り。おろかなる人は又これを悲しぷ。常任ならむ事を思ひて、攣化の理を知らねほなり。


といふ絶好の美しい散文諸を始めとして、欝中の至るところに、作者は人生の無常を説き、「大事を息ひ立た
む人は、去り難く心に懸らむ事の本意を遽げずして、さながら捨つぺきなり。」と出家求道の火急な大事を説
きすすめて居る。しかし兼好の思想は、普通の彿家のそれのやうに、厭離一切世間苦の非人間的超越を説くの
でなく、反射に極めて人間的妄執に充ちたものであり、人生への強い愛着から出教したものである。そして此
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 粂好の人生観は、しかし要するに、彼の時代に於ける趣味性を基準として、美的生活のイデーを高揚したも
のである。「人は如何にして生くぺきか」といふヒューマニズムの捉案は、乗好の解答に於て美的生活をする
ことだつた。そして美的生活とは、無常を知つて物慾を忘れ、悟淡として風韻を楽しみ、自然を愛してこれと
親しみ、情痴に凝れず、情痴を忘れず、人事に執せず、人事を離れず、すぺてに君子人の中庸を得て、人生を
洒脱に清遊することなのであり、これがまた資に、人間の人間らしき生活として思惟されたのだ。
 それ故に彼は、女についても、酒についても、社交についても、常に「楽しんで津せず」の君子的清遊を説
いてる。そこで一方では、色好まざらむ男ほ、玉の盃底なきが如しと言つて、人生の詩趣や情味を理解しない
木石漢の愚を嘲りながら、他の一方の季では、色慾の怖るぺく憐しむべきことを説教しでゐる。そして一方で
酒の箸悪を説き、酔漢の醜態を見て堰吐の唾を吐きかけながら、一方でほ漫酌低唱の楽しみを説き、男は下戸
ならぬこそよけれとさへ言つてゐる。つまり彼の思想は、極めてギリシア的健康を本質してゐる中庸論であり、
ギリシア人を「人間的」といふ意味に於て、極めて人間的なものなのである。その意味で徒然革は、作者の主
観的なドキュメントであると共に、一方また讃者の教養壱を条ねたヒューマン二丁キストブックでもある。室
町時代から江戸時代を経て、この事が多くの人々に愛讃されたのは、一にはこのテキストブックとしての需要
性があつた為に相違ない。
 社交に於ても、彼は常に清遊を説き、「さしたる事なくして、人の許行くはよからぬ事なり。用ありて行き
たりとも、その事果てなばとく辟るぺし。」と戒めて居る。しかし心のよく合つた親友同士が、離れがたく長
閑に語り合ふのは、またこの上もなく欒しいものだと言つてる。要するに乗好といふ人間は、本質的に自由と
孤濁を愛する個人主義の詩人であつた。彼の最も尊んだのは、個人の自由と言ふことであり、彼の最も偲んだ
j∫ア 無からの抗争


 徒然革は枕草子と共に、日本随筆文撃の鸞璧と構せられてる。しかしこれは日本風に随筆と言ふょりも、思
想的要素が多いことで西洋のエッセイに近く、エッセイと言ふょりは、その断章的な形式からアフオリズムに
近い文筆である。古来この書ほど多くの人々に廣く讃まれ、日本文拳史上に特殊の地位を占めてるものはない。
そしてこれには、十分の理由が考へられるのである。
 徒然革の中には、作者粂好の主観を中心とした、種々雑多の問題が含まれてる。これを大別すれば、自然観、
人生観、虞世覿、女性覿、家庭観、紅合観、心理観等であり、殆んど一切のトピックを網羅してゐる。しかし
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この香の主題となつてるものは、やはり出家遁世の思想であり、さすがに作者が僧侶であることを思はせる。
徒然草二宮徐孝、その大半の章は人生の無常を説き、出家求道の急を説き教へてゐる。

  麟の如く集まりて、東西に急ぎ、南北に走る。高きあり、卑しきあり、老いたるあり、若きあり、行く
 虞あり、締る衆あり、夕に寝ねて、朝に起く。営む所何事ぞや。生を食り、利を求めて、止む時なし。身
 を養ひて何事かを待つ。期する所ただ老と死とにあり。その来ること速にして、念々の聞に止まらず。こ
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 り。おろかなる人は又これを悲しぷ。常住ならむ事を思ひて、攣他の理を知らねぼなり。


といふ絶好の美しい散文詣を始めとして、簾中の至るところに、作者は人生の無常を説き、「大事を思ひ立た
む人は、去り難く心に懸らむ事の本意を遽げずして、さながら捨つぺきなり。」と出家求道の火急な大事を挽
きすすめて居る。しかし余好の思想は、普通の俳家のそれのやうに、厭離一切世間苦の非人問的超.堵を説くの
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ことだつた。そして美的生活とは、無常を知つて物慾を忘れ、情淡として風韻を楽しみ、自然を愛しでこれと
親しみ、情痴に溺れず、情痴を忘れず、人事に執せず、人事を離れず、すぺてに君子人の中庸を得て、人生を
洒脱に清遊することなのであり、これがまた箕に、人間の人間らしき生活として思惟されたのだ。
 それ故に彼は、女についても、酒についても、社交についても、常に「柴しんで捜せず」の君子的清遊を説
いてる。そこで一方では、色好まざらむ男は、玉の盃底なきが如しと言つて、人生の詩趣や情味を理解しない
木石漢の愚を嘲りながら、他の一方の牽では、色慾の怖るぺく憐しむぺきことを説教してゐる0そして一方で
酒の零悪を説き、酔漢の醜態を見て嘔吐の唾を吐きかけながら、一方では浅酌低唱の楽しみを説き、男は下戸
ならぬこそよけれとさへ言つてゐる。つまり彼の思想は、極めてギリシア的健康を本質してゐる中庸論であり、
ギリシア人を「人間的」といふ意味に於て、極めて人間的なものなのである。その意味で徒然革は、作者の主
観的なドキュメントであると共に、一方また讃者の教養著を兼ねたヒューマンニアキストブックでもある。室
町時代から江戸時代を経て、この事が多くの人々に愛讃されたのは、一にはこのテキストブックとしての需要
性があつた為に相違ない。
 社交に於ても、彼は常に清遊を説き、「さしたる事なくして、人の許行くはよからぬ事なり。用ありて行き
たりとも、その事果てなばとく鰐るぺし。」と戒めて居る。しかし心のよく合つた親友同士が、離れがたく長
閑に語り合ふのは、またこの上もなく楽しいものだと言つてる。要するに乗好といふ人間は、本質的に自由と
孤濁を愛する個人主義の詩人であつた。彼の最も尊んだのは、個人の自由と言ふことであり、彼の最も偲んだ
J∫ア 無からの抗争

のは、自由を束縛することの一切だつた0かかる詩人的気質の官然から、彼は家庭生活を香定し、生殖を膿み、β
 声
子孫の攣与ることを望み、とりわけ女の執着深い愛慾のきづなを嫌つた。彼ほ女人の心理を鋭敏に鮮剖して

  女の性は皆ひがめり0人我の相深く、食欲甚だしく、物の理を知らず。唯迷ひの方に心も早く移り、言
 葉も巧みに、苦しからぬ事をも、問ふ時は言はず0用意あるかと見れば、又あさましきまで間はず語りに
 言ひ出す○深くたほかり飾れることは、男の智慧にもまさるかと思へば、その後より現はるるを知らず.

と痛烈に罵倒して屠る0そして「もし賢女あらば、それも物疎く凄まじかりなむ。」と、賢愚一切の女人を綜
楕して非難してゐる○しかし彼は、決して女嫌ひの侶貿者ではない。反対に彼は、極めて女が好きな男で、色
道の楽しみをさへ嬉しさうに説いてるのである0そこで彼の結論ほ、「ただ迷ひを主として彼に従ふ時、やさ
しくも面白くも覚ゆぺしごといふ智者の清遊的達観に到達してくる。だが家庭生活については、もつと徹底
的に香定の態度を示してゐる。

  妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ0(中略)いかなる女なりとも、明暮添ひ見むには、いと心
  づきなく、暗かりなむ。

と言ひ切つてる0しかし彼は、必ずしも結婚そのもの、轡愛そのものを香定するのではない。そこで粂好の理
想は、「よそながら時々通ひ住まむこそ、年月経ても準えぬ仲らひともならめ。あからさまに充て、泊り居な
 どせむは1めプらしかりぬぺし0」と、近代的モダーンな別居生活を主張してゐる。男女相互の間屯もし幹
彗軍_考♯許すならは、今丘の武●に放ても、これに集る措♯生活はないヤあらう.すくなくとも僕等のや
づに、払槻と自由を強く愛するト傾向の人にとつてほ。
 要するに乗好の思想は、その詩人的な気質から出費して居り、橿めて自由主義的でエゴイスチックである.
その意味に於て、彼は気質上のアナアキストに廃して居る。しかし病的に歪んだものではなく、人間性の最も
ノーマルな自然に印し、且つ明徹な知性によつて管理されてるものであり、古来の日本文畢中、最も健康世に
富んだものの一である。その鮎から批判して、徒然革を一の「良識文寧」とも批評し得る。そしでもし、単に
その限りに於て言へば、この日本の代表的エッセイストは、西洋のパスカルでもなく、ニイチエでもなく、直
ちにモンテー1一ユと封比され得る。だがモンテーニュの良識と、条好の良識との間には、いかにまた大きな距
離的隔紹があることだらう。一方はあくまで赦交人的、正義覿的の虞世を数へ、一方はあくまで憶遁的、濁善
人的の威せを敦へる。この両者の相違こそ、とりも直さず西洋と東洋との、モラルに関するヒユーマニチイの
異別を語るものに外ならない。