日本文藝の新思潮





      文壇について


 一昨年から昨年へかけて、文壇は急角度のカーブを切つて廻転して居る。つまり一口に言へば、日本文壇の
ルネサンスが気運して居るのである。
 近来の文壇で言はれてることは、ヒューマニズムの問題、モラリチイの問題、インテリジェンスの問題、等々である。所でこんな問題は、本来文藝の出発する第一原理の公式に属するもので、言はば幾何学の公理と同
じく、文学の根拠する常識(証明を待たずして自明のもの)である筈である。然るにその公理たる常識が、最
近に於て新しく議論されて居るといふことは、つまり今迄の日本文学が、公理を持たない幾何学であり、何等
哲学の根拠を有しないところの、空中楼閣的の物であつたことを実証する。過去に様々のイズムで呼ばれた日
本文学 ― 浪漫派、自然派、人道派、プロレタリア派など ― が、すべて皆この空中楼閣の幻像であつたこと
が、最近になつて漸く人々の批判に解つて来た。例へば近時の文壇では、ニヒリズムといふことや、デカダン
スといふことや、レアリズムといふことやが、新たにやかましく議論されて居るけれども、本来ならばこの種
の議事は、既に早く、自然主義の時代に解決ずみとなつてるわけである。しかもそれが今日の批判問題となつ
てるのは、過去の自然主義といふものが、この種の公理 ― それが自然主義の第一原理である所のもの ― を、
すべて無批判に通過してしまひ、哲学の根柢なき土壌の上に、架空に建設された文学であつたことを実証する。
僕は、今でもそれを覚えてゐる。当時の自然主義の文壇に於て、いかに此等の言葉が憐れつぽく、無邪気な中
学生的椎態で言はれたかを。例へばデカダンといふ言葉は、当時の常識語で放蕩者、乱行者、飲酒家、刹那的
享楽主義者等を意味した。そこで甚だしきは、永井荷風や吉井勇氏等の一味でさへが、デカダンの典型人と考
へられた。
 人道主義と言はれたのも、日本に於ては同様に中学生的稚態の文学だつた。彼等の標語したモラルといふ言
葉、ヒユーマニチイといふ言葉が、如何に子供つぽく、女学生的感傷の通俗修身語にすぎなかつたかは、此所
にあへて詳説する迄もないであらう。しかしながらとにかく、さういふ文学だけはあつた。何等の哲学をも根
抵に所有しないで、単にモラルやヒユーマニズムやを標語とし、その標語によつて無邪気に感激し、昂奮して
ゐるところの、杢中楼閣的の文学だけがあつた。
 マルキシズムと栴しプロレタリア文筆と構したものも、同棲ご多分にもれない文畢だつた。彼等は最初から、
拳術と政治との切線で錯覚して居た0ハイネが鉄骨主義者でありながら、〓刀に於て敬愛詩人であつたといふ
こと0アンドレ●ジイドや支那の魯迅が、現に共産主義に投じながら、文孝上に於て肇術至上主義者であると
いふこと0その鮮りきつた何でもない普通のことが、日本のプロ作家には理解されず、軒Pて自家矛盾のやう
に恩はれた0つまり彼等は1政治と文蓼、行動と表現との本質的劃線について、中学生程度の批判常識を軟い
で居たのだ○そして弟敢にも、マルクスの経済拳で垂術を論じたりしたのである。しかしながらとにかく、プ
単にさうしたヒューマニズムや正義観念によつて秤つてゐるところの、一種特別な文筆があつた0
ペ畑dヨ碩
 かうした過去一切の文挙が、今や新たに再批判され、本質的に清算される時が爽たのだ0今にして始めて、
漸く人々が知つたことは、すぺての文学塾術の出餞根接が、作者の個性的な生活から必然せねばならないと言
ふことだつた。所でまた、生活とは何だらうか。過去の自然主義の時代に於て、この生活といふ言葉は、皮相
にも日常の身遽生活、即ち食つたり、寝たり、働いたりすることと考へられた。そこでかうした身逢記事を書
かない文孝、即ち例へば僕等の抒情詩の如きは、昔時の批判で「生活を遊離する文寧」として非難された○し
かし今では、一般の常識が進歩して来た。生活といふ観念は、文畢上に於ては一つのモラル(倫理観)を意味
するのである。それ故にまた、必然にそれはヒユーマニチイの命題に辟属して来る。最近の文壇常識は、漸く
此所まで認識を回蹄して来た。そしてしかも、これがすべての近代西洋文孝の出教した、最初の振り出しであ
ったのである。即ちこの意味に於て、今や日本の文壇思潮が、水平線上に近づいて爽たのである。
 かうしたルネサンスの文壇思潮を、最近最もよく鋭敏に捉へたイズムは、保田輿重郎、亀井勝一郎、及び神
保光太郎、伊東静雄等の諸氏によつて旗親された「日本浪費汲」の一渡である0何よりも著しいのは、この人
人が皆青年であり、詩人であるといふことである0そしてこの事資は、彼等が時代の「解説者」でなくして、
時代のムードを情感するところの、気分的な「感覚者」であることを註解する0つまり言へば、彼等は新時代
を評論耕澄するところの思想家ではなく、輿論に先立つて新時代を胸糞し、青年の撥刺たる若さと情熱とで、
ゃがて来る春の前に、夜明けの篤のりリシズムを、撃良く唄ふ「詩人」を使命してゐるのである0賓際にまた、
今日インテリジェンスを持つてる多くの青年は、たしかに彼等の抒情詩によつて指導されてる0それはたしか
に、或る人々の非弊する如く、彼等の文孝には経験的の内容がなく、その意味での生活性が稀薄である0だが
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かうした非難は、彼等が「若すぎる」といふことの非難にひとしい0若すぎることは紋鮎である。しかし著す
ぎる精神のみが、よく時代の黎明に立つて先髄し、抒情詩を歌ふことができるのである。今日の杜合のモラル
は、或る官為としての具饅的観念、即ち指導性の内容を求めるのではない○なぜならさうした内容は、賃際今
日のやうな時代に於ては、何人にも把握することが困耗だから0人々は無限の闇黒の中に彷捜して、カなく絶
筆の谷間をさまよつて居る0何よりも人々の欲情するのは、何研かに、漠然と、腕ろげながらも、新時代の光
明がさしてることを、知覚に暗示してもらひたいのだ0つまり今日の時代が、文畢に要求してゐるものは、人
の魂を若がへらすところのりリシズムであり、希望を呼ほうとするところの「熱意」である。まことに今日の
辞書に於ては、モラルといふ墓が熱意を意味する0文筆業者として小説家が、職業に熱心であるといふ意味
の熱意ではなく、ヒユニニチイの嘗窺を掲げて、抒情詩を呼びあげるところの熱意である。日本浪費汲に対
する非難は、それが単なる慧であり、熱意の文寧にすぎないと言ふのであるが、今の時代の文撃としては、
それで眈に充分すぎるものなのである。
 琴翠を横線に持たない茎学は、奈只に於三色過性を映如してゐる0即ちそれは卑俗な身遽羞丁であり、江戸
町人の戯作者茎畢にすぎないのである0白樺漁の人道主義や、マルキシズムのプロ文筆やは、かつてかうした
文壇に反抗し、茎学の貴族性と高邁性希主張した0しかしながら彼等もまた、本質に於ての哲学を持たなかつ
た0そしてこの無知の故に、却つて文拳の本義を誤り、通俗道徳のヒロイズムや、政治的功利主義の概念化に
よつて、逆に文拳の償値と高邁性を低落させた0今や来らうとしてゐる新時代は、すぺ三切の過去を清算し、
文撃の正に有るぺき最初の母岩を、世紀の土壌に磯掘しょうと雲脚してゐるQ印ち言へば、日本に初めて、眞
の「蓼術のための垂術」の正しい主張が、漸く認識づけられて爽たのである。「奉術のための蜃鵡]といふこ
とは、過去の日本でヂレツタンチズムを意味して居た0それはど過去の日本には、眞の「肇術のための撃衝」
■▼巨
                                        …ペ`当ヨ一点一一一芸一
謂馴椚那射針とは、すぺての蒜的功利碗に反澄d決七何物の樺…づ勺ヨ“JZヨョ
威にも屈従しないところの、峯循の濁立王圃を建設し、墾術のためにのみあるところの、詩人の正義を紹叫す
ることのイズムである。そして詩人の正義ハ蛮術の正義)とは、人間性の濁立を強調して、すぺての生活者が
雷名すべき、モラルの理念を高邁に掲げるところの精神に外ならない。まことに肇術至上主義とは、一切の卑
俗的功利観を超越した、ヒユーマニチイの最も純潔高邁な精神である。
 最近の我が文壇は、漸くその背寧を摸索しながら、次第に奉衝の根捜すべき最初の杜岩に掘り官ててゐる。
今や漸く、日本に初めて、黍衝のための正しい垂術が理念されてる。この意味に於て、現代は正に日本文壇の
ルネサンスである。しかもこの潮流は、最近一二年前からして、恐るぺき急カーブをもつて切られた。新しい
文壇は、すぺてに於てコペルニクス的輪廻をしてゐるのである。
      詩壇について


 文壇と同じく、詳頓もまたこの最近一二年衆、詩の新しい建設と認識に向つて、ルネサンスヘの急カーブを
切つて錮推して爽た。
 日本の詩壇の特異性は、過去に全く文壇と交渉なく、世外に孤立して居ることであつた。芥川寵之介は、こ
れを「名著の孤立」と将した。或はたしかに、苧ついふ事情があつたか知れない。賓際日本の文壇は、詩人の
立場から見て卑俗にすぎた。詩人の自尊心は、彼等の戯作者的小説家や文壇的俗物共と、席を共にすることを
自ら恥ぢ、昂然として濁り超越して居つたのである。なぜなら僕等の詩人群は、始めから欧洲の詩を規範とし
て、粥洋文準の高邁なエスプリを俸来して居た。自ら準じてゲーテに擬し、パイロンに此し、或はラムポオ、
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マラルメの徒に準じ、西洋詩人の高邁な志士的風貌を以て任ずるものが、いやしくも戯作者的卑俗壬義の日本
の文士や文壇人やと、いかにして同席列座することを忍び得んや。
かうした詩人の気位と自尊心が、その孤立を以て自ら「名著」と考へたわは、一面まことに普然のことであ
つた0然るに二カから観察すれば、此所にまた日本詩人の生活的無内容が暴露されてた。なぜなら彼等の詩人
たちは、畢にゲーテやラムポオやを、その貴族的のポーズに於で挙び、西洋詩のエスプリを、その率術的香気
や風貌の上でのみ1ポーズとして気取つたにすぎなかつたから0つまり言へば日本の詩人は、本質的に皆文筆
上のヂレツタントであつたのであるP彼等は西洋詩人の衣冠束帯をつけたところの、デク人形の貴族主義者に
すぎなかつた0そこには何の生活内容もなく−何の本津的の自我主張もなく、何の文北的の批判精神もなく、
単に舶来紙の香気と…ゾチックとを、無意味に街ふところの香術があつた。文壇が彼等を敬遠し、大衆が彼
等を白眼祓し、識者がその赤シャツ的気障を笑つて、皆が鼻をひつかけて通つたのは首然である。最近の詩壇
は、漸くこの鮎の意を自費して爽た0何よりも肝心の常識は、詩人も主た大家や文壇人と同じく、今日現代の
日本に放て、質社台の中に頭境してゐるところの、一個の生活者であるぺきであり、それ故にまた必然に文化
の批判者でなければならないといふ自覚である○過去の日本の詩人は自己の現賓する文化や環境から撃止して、
虚妄にも西洋詩の霞を食ひ、全くインテリの批判椅紳を持たないで生活して居た。そして址脅からも文壇から
も、一種の仙人として迂遠された0しかも詩人の自尊心は、その章任の所在を民衆に課し、或ほ文壇の無知に
辞し、倍として自ら改めることをしないのである0彼等は世の非難に答へて日く、現代の詩は超世紀的に進歩
してゐる0その汝等に理脾されざるは官然のみと0そして彼等が公衆を軽蔑するはど、公衆は逆にその似而非
 モノであることを見抜いてるのだ。
 だがかうした「詩人の解識」は、最近漸くにして内部的に自覚された0それはこの二三年来、詩埠と丈埠が
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詩人がもし、蕾態俵蝕として寝言のやうな話を作り、西洋の霞を食つてるやうな事態の間は、日本の文化と何
の交渉する機縁もなく、文壇がこれに興味や関心をもつ筈もない。今日たとへ稀薄ながらも、詩が文化的ジャ
ーナリズムの潮流へ乗り出したのは、詩人自身の内部に放て、眞の正しい詩を建設しょうとするところの、新
しい自覚が起つたにちがひないのだ。
 明治の新饅詩の昔から、最近のポエデイ運動に至る迄、日本の詩の過去の塵史は、全く「形態摸索」の絶え
まなき努力であつた。先づ我等に形態をあたへょ。然らば始めて詩が蜃術され得るとは、すぺての不幸な日本
の詩人1彼等は俸統のない所に、唐突として西洋風の詩を建てようとした。 − が、一様に皆悩み考へたこ
とであつた。しかし最近の詩壇では、人々の視野が方位を攣へて、別の問題を考へ直すやうになつて爽た。即
ち今日の問題は、いたづらに詩の形態を摸索するより、もつと根本の第一原理、即ち詩情するところの眞精神
と、批判するところのインテリジェンスを、ニの時代に於て弾く呼び寄せ、且つそれを究明することに辟属し
て爽た。そしてこの新しき詩壇意欲を、姶めて意識的に掲げた人々ほ、即ち「コギト」による日本浪鼻漁の詩
人群であつた。前の項に於て、自分は日本浪費漁の文壇的意義を論じた。そしてこの項に於ては、その同じエ
スプリの表出としての、彼等の詩壇的意義を述ぺねばならぬ。
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 要するに日本の詩壇は、他方の文壇と共に並んで、今や「啓蒙運動」の時代である。過去にあつた一切の文
孝と文壇イズムが、今やその蒙をあばかれて再批判され、きびしく吟味されて居るやうに、我々の詩壇もまた、
過去一切を総括して、きれいに清算されねばならないのである。即ち日本の詩の歴史は、今日只今の瞬間から、
改めて紀元第血世紀を開幕する時期に迫つて居る。過去はすぺて愚かしき誤謬のみ。賓に有るぺきものはこれ
からである。
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