古典と文明開化

 日本のある若い文士――といつても大家ではなく、同人雑誌で仲間内に知られた程度の人であるが――かつて仏蘭西に洋行し、日本研究家として知られて仏人の某博士と、或る偶然の機会で逢つた。日本の文学者だと言ふので、先方では色々なことを質問した。先づ源氏物語と西鶴について、自分の研究を披瀝した上、改めてその批判を問うた。所がこの日本の青年文士は、源語も西鶴も全く読んで居ないのである。そこで博士は議題を転じ、能と歌舞伎について質問したが、これも同様に御存知がない。特に能の如きは、一度も見物したことさへ無いのであつた。少し驚いた博士が、今度は音楽に話題を転じ、雅楽や三味線音楽のことを聞いたが、この方も同様に無知であり、町の流行唄以外に、日本音楽を全く知らない青年には、何とも答へることが出来なかつた。いよいよ驚いた博士が、最後に南画や浮世絵の話をしたが、その青年の知つてることは、歌麿と広重の画名だけを、人名辞典でやつと覚えてる程度であつた。そこで呆れ返つた博士が言つた。
 「日本の文学の代表は、源氏物語と西鶴等である。日本のドラマの代表は、能楽と歌舞伎である。日本の音楽の代表は、雅楽と三味線である。日本の美術の代表は、南学と浮世絵である。君は日本人の癖に、日本の藝術の代表を少しも知らない。それでしかも文学者だと言ふのは甚だあやしい。ニセモノだらう。」と。
 これは全く有りさうな話である。人の身の上の噂話でなく、僕自身が洋行した場合を考へても、同様にニセモノ扱ひにされさうである。実際僕等は、日本の伝統文化と古典藝術に就いて、殆んどイグノラントに近く無教養に育つて来た。日本人である所の僕等が、日本の代表藝術である世界的傑作を知らないといふことは、自国の文化をユニバアサルに高く矜持持し、国粋精神の伝統を自尊する外国人にとつて、全く不可思議千万のことにちがひない。
 現代の日本人が――大衆とインテリとを共に含めて――自国の伝統文化を知らないといふことは、明治初年の政府がモツトオとした「文明開化主義」の影響によるのである。文明開化主義は、御一新の新しい世の中をつくるために、旧日本的、封建的、伝統的なる一切のものを「旧弊」として排斥した。そこで「新しい」といふこと「進歩的」といふことは、丁マゲを廃して散ギリ頭になることであり、つまり一切に於て「非日本的」になることを意味したのである。
 この御一新の文明開化イズムが、文学上に於ても僕等のゼネレーションを精神的に指導した。僕等の時代のインテリと文学者とは、すべてに於て自国の伝統に叛逆し、一歩でも西洋文明人種に近く、散ギリ頭になることを以て進歩的な文明開化と考へた。僕等の時代のインテリ種属は、自国の古典や伝統やに対して、自ら無智であることを誇りとした。実は知つてる者でさへも、故意に知らないやうな顔をして居た。なぜなら古典や伝統を知つてることは、それだけで既に「旧弊」と思はれたからである。ベルグソン学徒のアナアキスト野村隈畔は、かつてその法廷で罪に問はれた時、裁判長の問に答へて、日本歴史なんか知るものかと豪語した。日本人たるものが、日本歴史を知らない筈はないと言ふ裁判長の問に対し、彼はまた重ねて言つた。自分はそれを学ぶ必要を認めない。故に知らないのだと。今のマルキストや共産主義者やも、やはりその同じことを、心の中で考へてるにちがひないのだ。
 このやうに僕等の時代の日本人、特にインテリ種属と文学者とは、自国の古典に叛逆し、伝統に背中を向けることを以て名誉とした。自然主義の文学も、ロシヤ崇拝の文学も、プロレタリアの文学も、皆その同じ精神から生れて来た。そしてそのすべての文学が、一々皆政府の忌諱にふれ、危険思想として取締られた。しかもそのすべての文学こそ、明治以来の政府が指導した「文明開化主義」を最も忠実に遵法したものであつた。政府は自分の作つた自分の縄で、首を締められで居るのであつた。
 しかし今や日本人が、漸く自己の伝統に目ざめて来た。そして此所に、新しい時代と環境への矛盾を感じ、のつぴきならない虚妄の懐疑に陥入つてる。今の時代のインテリゲンチユアは、坂の中途に止つた車のやうなものである。前へ進むことも出来なければ、後へ逆行することもできない。しかもそのまま静止するには、非常の力で車を支へなければならないのである。今や僕等のインテリは、全くその為す所を失つて居るみである。この時代に於て、ただ勇敢のものは無知であり、懐疑を持たない人々である。それらの単純な人々は、ただ至誠一貫の情熱によつて、或は単に排外主義を強調することによつて、時代のあらゆる矛盾と苦悩とを、容易に解決することができると思つて居る。ただ彼等の群の外に立つて、智識階級のハムレツトだけが、永遠に絶望的な懐疑に捉はれ、自らその為す所を知らずに青ざめて居るのである。
 現代日本文化のあらゆる病癖は、明治以来の新政府が、実利主義の一点張りで、国民を教育したことに原因して居る。小学枚と中学校では、如何にして日本を富国強兵になすべきか、如何にして各人が社会的成功者に立身すべきかといふ、功利的な実利主義ばかりを教へて居る。そこでこの教育方針から、古典の如きは全く学課の外に閑却され、日常生活の実利に役立つ、ビヂネスライクの読み方書き方ばかりが教へられる。しかしフイヒテも言つてるやうに、国民教育の真の目的は、国民精神の正しい自覚を、生徒に教へること以外にないのである。そしてこの目的からは、国民の歴史と文化、特にその文化に就いて、真のヒロソフイを根拠する哲学的批判教育をせねばならない。つまり教育方針を一変して、今の実利主義から非実利主義へ、功利主義から精神主義にすべきである。その時始めて、国民の真の愛国心といふものが生れて来る。今のやうな教育では、国民をインテリにすることから、却つて逆に自国を軽蔑させ、非愛国の叛逆思想を鼓吹させるやうなものである。かつてカイゼルは日本を嘲罵し、日本人の愛国心といふ心理は、野蛮の生理的発情でしかないと言つたが、すくなくとも、今後の政府は今少し内容性を充質した愛国心、文化的カルチユアのある愛国心を、国民に指導せねばならないだらう。