日本の橋を読む


 保田與重郎君の近著「日本の橋」は「英雄と詩人」より一層文筆的に面白かつた。特に巻頭の「日本の橋」は、近来稀れに見る詩精神の高いエツセイであつた。西洋の橋は、他のすべての西洋的な物と同じく、自然の征服を目的として居る。それは河を埋めて陸の連続とし、羅馬の大軍やナポレオンの凱旋兵が、八列横隊の砲車を竝べて行軍しても、尚余裕がある程壮大の規模を以て構造されてる。「坦として砥の如し」といふのは、西洋の架橋学の理念であつた。然るに日本の橋は、何といふ憐れに悲しい象徴だらう。それは現世から浄土へ通ずる果敢ない人生の時間継起、「彼岸」を象徴してゐる。川の岸には柳があり、一本の細い木橋が、さも悲しげに頼りなく架けられて居る。日本の橋を渡る時、人々はシーザアの世界征服を考へないで、人生の無常と生命の果敢なさとを、しみじみ嘆き考へずに居られない。
 保田君のエツセイは、かうした「橋の哲学」を語ることで、西洋と日本との文化の対蹠を、涙ぐましいまで心に沁みて考へさせる。文学が求めるものは、概念の抽象化されたロヂツクではない。文学は絵や書画と同じやうに、人の心の情緒に触れ、美しさの高い悦びを与へながら、しかも学者等の思想し得ない、物の最も深い内奥の秘密について、哲学のエスプリを語るものでなければならぬ。しかも日本の文壇には、過去にかうした文学的エツセイを書く人が殆んどなかつた。保田君のやうな人が現はれたのは、日本文壇の一奇蹟である。
 保田君は、この一文を書くために、日本の国々を旅行して歩き、諸国のあらゆる橋を見学して来たさうである。この文中に引例されてる橋は、単に文献上で調査した橋ではなく、筆者が自ら旅行して親しく見、親しく感じ、一々について感慨深い思ひに耽つたところの橋であつた。それ故にこそ、印象が生々として如実に書かれ、単なる文献的の記録ではなく、筆者の感慨深い思ひをこめて、さながら抒情詩をよむ如き思ひをさせられるのである。僕はこの「日本の橋」をよんでから、日本の津々浦々にあるところの、あはれな悲しい橋の姿が、幻燈のやうにイメーヂに浮んで仕方がなかつた。特に堀尾茂作といふ武士の妻が、戦死した愛児の冥福を願ふために、供養として架したといふ橋の銘文。

 天正十八年二月十八日に、小田原への御陣堀尾金助と申。十八になりたる子を立たせてより、又ふため とも見ざる悲しさのあまりに今この橋を架けるなり。母の身には落涙ともなり、即身成仏し給へ。逸岩世 俊と後の世のまた後まで、此の書付を見る人は、念仏申し給へや。卅二年の供養也。
を読んで、僕もまた筆者と共に落涙禁じ得ないものがあつた。この一女性の悲しい銘文が、人生の無常と彼岸を象徴する、あはれに侘しい日本の橋に彫られて居るといふことは、考へるだけでも胸迫ることではないか。此所まで詰めて考へる時、我れ人共に、祖国日本に対する火のやうに強い愛情が、理窟ぬきでこみあげて来るのを痛感する。仏教の影響の下にあつて、僕等の先祖はこんな悲しい生活をして居たのである。しかもその悲しさの中に、あらゆる美しさを創造して居たのである。捕虜の女人群を戦車に乗せて、羅馬の橋を凱旋した西洋人の先祖たちに、こんな日本人の深遠な藝術とその文化精神が解るだらうか。僕はかつて京都へ行き、銀閣寺見て悲しくなつた。室町将軍ほどにも、日本文化の悲劇的精神をよく理解し、身を以て風流に生活した人はなかつたからだ。しかもその末期の公方は、臣下の為に犬ころのやうに殺れて居る。そしてこれがまた、あらゆるインテリの末路を象徴してゐるのであつた。今日僕等は、日々にその文化を亡ぼしつつ、日々に荒廃して行くこの国の現状を目撃してゐる。だが我等の力は、この大勢に対して何事をも為し得ない。すべてのインテリジエンスをもつてる古いものが、すべての野蛮的な新しいものに対して、自滅的に亡びるのは当然であるからである。力は世界を支配する。そして日本の古い文化がもつてた世界意識は、力でなくして美であつた。今日西洋の橋の前に、日本の橋が次第に亡びて行くのは当然である。


 保田與重郎君によつて、僕は初めて文学の高貴性といふものを教はつた。小説家は勿論のこと、評論家とか思想家とかいふ連中も、日本のそれは実に態度が卑俗で、文学する精神の調子が低いのである。真の文筆的評論家、即ちエツセイストたるものは、何よりも先づ詩人でなければならない。そして詩人とは、遙かに俗界を超越して、精神の高邁な山頂に立つ人を言ふのである。日本にも昔、明治時代にはさうした詩人的エツセイストが居た。例へば高山樗牛のやうな人が居た。だがその後の文壇では、評論家の質がガタ落ちに落ちてしまつた。近頃の評論家といふものは、詩人でもなくエツセイストでもなく、単にジヤーナリストの御用かせぎをして、月々の小説月旦や、際物思潮のトピツクニユースを書くことばかり能としてゐるところの、文壇楽屋通の小時評家にしかすぎないのである。かうした卑俗主義の時評家と、江戸戯作者の伝統をひいてる職人肌の小説家とが、一団となつてうようよしてゐるのが、日本のいはゆる文壇といふ世界である。
 かうした世界に保田君が現はれたのは、町人や乞食ばかりの居る町の中へ、一人の気品の高い武士が出たやうなものである。少し以前の文壇だつたら、到底入れられることのできない異邦人として、黙殺か排撃かをされるにきまつて居たのだが、それが意外に諸方で歓迎され、好奇心を以て迎へられてゐるのは、とにかくこの最近一二年に於ける日本文学のコぺルニクス的方向転換を暗示して居る。裏長屋の井戸端会議みたいな文壇時評や、長火鉢の前で茶を飲みながらする苦労人の世間話みたいな小説しか無かつた文壇に、始めて文学の高貴性を教へ、美しいもの、け高いもの、デリケートなものに対する文学の当為性を教へたのは、まことに日本浪曼派の人々、わけても特に保田與重郎君であつた。未だ彼を読まないところの人々は、「日本の橋」や「英雄と詩人」をよむことによつて、過去の文壇的文学観念を清算し、文学の真に当為すべき精神を知り、文学のエスプリすべきものが、正しく何にあるかを悟るべきである。