デカダンの行動性   続・町の小唄と現代世相

 自動車に乗つて、或る地方の田舎町を通つた。昼の十時頃、道の片側に、硝子戸の埃まみれになつてるやうな珈琲店があつた。そこの入口に、薄汚れたエプロンをかけた女が、店先の掃除をして居た。自動車の姿を見ると、女は大声で運転手に話しかけた。すると店の中から、大勢の女がどやどやと一度に出て来た。皆がだらしのない風俗をして、昼間の白粉がむらはげになつて居た。
 「きつとね。帰りね。」
 「待つてるわよ。」
 「待つてるわよ。」
といふ女たちの声を背後に残して、自動車が走り去つた。すると一人の女が、背後から追ひかけるやうにして、 「忘れちやア、いやようオ。」
と流行唄の一節を、わめくやうに大声で唄つた。すると他の女たちが声を合せて、一緒に
 「忘れなアいでねエー」
と合唱した。
 車の上で、私は思はず微笑した。まことに朗らかな風景である。だが次の瞬間には、かうした流行唄が表象するところの、時代相について意味深く考へ込んだ。この女給たちが唄つた歌曲は、最近レコードの発売を禁止された。その理由は、下卑なエロチシズムが過ぎるといふのである。それはそれにちがひない。しかしその歌曲に本質してゐるものは単にエロチシズムだけではない。もつと外に、別の要素のものが含まれてゐる。そしてこの 「別の要素」の物の中に、時代のあらゆるデカダンスの行動性が指示されるのである。「忘れちやア、いやアよう。」と大声で唄ふ女給たちの心理は、真に彼等の「運ちやん」を待つてるのではない。本当の心境は、もつと悲惨に浅ましく、一日五十銭のチツプにさへならないところの、彼等のヤケくそまぎれの現実生活を、歌のメロヂイの中に生かして、癇癪玉を叩きつけて居るのである。そしてまたこの歌曲が、丁度さうした感情を表現すべく、歌詞のアクセントや発想法やで、ぴつたりあつらへ向きにできてゐるのである。
 所で今日の社会は、だれもが皆この女給たちと同じやうな生活をし、同じやうな自暴自棄の心境を持つてるのである。夜の酒屋で、一人の女がこれを唄へば、外のすべての酔つた客が、皆一緒になつて合唱するのだ。「忘れちやア、いやアよう。」といふ群集の合唱には、希望なき運命への、烈しいデカダンスの行動性が感じられる。だれもかれもが、或る目的なき行動への、ヒステリカルな絶叫をしてゐるのである。
 しかしながらこのパッションは、全く盲目的な感情の浪費にすぎない。なぜならそこには、始から何の計量もなく、何の目的性もないからである。そこでこの「デカダンスの行動意欲」は、結局エロチシズムの底に沈溺して、皮肉に自らを自嘲する外にないのである。最近の流行歌曲が、すべて皆下卑ばつたエロチシズムと、ナンセンスの馬鹿笑ひを特色とするのはこの為である。「忘れちやア、いやアよう。」と唄ふ群集は、この馬鹿馬鹿しいナンセンスの警を唄ふことで、自分をユーモラスに半ば自嘲して居るのである。そしてこの群集の心理はど、深酷に悲しいものはないであらう。
 かうした今日の時世は、すべてに於て江戸末期によく似で居る。江戸末期に流行したものは、狂歌、川柳、地口、軽口、洒落本等のナンセンス的滑稽文学と、新内、歌沢渾等のデカダン的情痴音楽と、及び遊里を中心とする種々の春本的、春画的のエロチシズム藝術だつた。江戸世紀末の人々は、駄洒落を言ふことと、猥談することと、情痴小唄を唄ふ以外に、人生の意義あることを知らなかつた。そして今日現代の日本が、正にかうした時代相に似てゐるのである。
 私が「デカダンの行動性」と名づけるところのこの時代の現実的パッションは何所へ行くか。江戸世紀末の人々等が、もはや如何なるロマンチックの夢も信ぜず、一の高邁な理念も有せず、ひたすら現実的肉感性のリアルを追求した如く、今日現代の人々も、同じ意味のリアルを追求してゐるのである。リアルといふ言葉、リアリズムといふ言葉は、一昔前の文化に於ては、「真実」もしくは「真実なものへの探見」といふ、崇高な哲学的イデアを持つて居た。だが今日意味する同じ言葉は、もはやその崇高な理念を捨ててしまひ、単に現象的世界に於ての、物質的、肉感的、官能的なものへの、露骨な現実性を指すにすぎない。リアリストといふ言葉が、昔は「真実の探求者」を意味してゐた。それが今日では、単なる「俗物」を意味するのである。そして俗物であるほど、今日では時代の新しいデカダン人種と考へられてゐる。
 再度流行歌曲のことを考へよう。「あなたと呼べば、何だいと答へる。」といふ歌曲の旋律の中に、何の音楽的センチメントがあるだらう。この歌曲の面白味は、歌詞の会話から来る擽り的エロチシズムの興味ばかりだ。
 この意味に於て最近の流行歌曲は、すべて皆文学的(歌詞本位的)である。そしてもつと詳しく言へば、それは「抒情詩的の音楽」から「散文的の音楽」への、時代変移を語つてるのだ。所で、それが果たして音楽の進歩であり、併せてまた文化の悦ばしい進歩だらうか。問題は此所にあるのだ。
 江戸末期に於ては、すへてのロマンチックな詩的精神が忘却され、より現実的、肉感的の文藝が悦ばれた。なぜなら彼等のデカダン的行動意欲が、すべての詩的なもの、精神文化的なものを、空疏な白々しいものに感じ、非現実的、非肉情的に感じたから。そして「肉情的」といふことは、彼等の意欲に於て「行動的」といふことと同じになるのだ。今日現代の日本人が、「あなたと呼べば」や「忘れちやいやよ」の如き、散文的肉感性の歌曲を好むのが、それと同じデカダン的行動意欲にもとづいてるのだ。この意味に於て最近の世相を「リアリチイへの行動主義」と評するのは差支へない。だがかうした言葉を、価値性の批判と混乱するのは危険である。何等「真」への探求を理念しないやうなリアリズム。何等「善」への当為を意識しないやうな行動主義。そんなリアリズムや行動主義やに、そもそも何の価値があるのか。それはたしかに、この時代に於ける最も新しい社会情操にはちがひない。しかし新しさの意義は、古いものに換る革新の価値を持つことにある。価値性をもたないやうな新しさは、動物の新陳代謝する歴史と同じく、単なる無意味の時間的継起にすぎないのだ。
 私がこんなことを詳論するのは、詩とロマンとを失つてる時代、音楽の散文化してゐるこの時代を、前の時代より進歩的であり、より散文的リアリズムの新しい時代として、僧侶的に解釈してゐる人があるからである。世には音楽に酔はないことを以て、知性的リアリストたる近代人の証左として、自ら誇りとしてゐるやうな人たちもある。同じ理由によつて、詩が解らないことを公言し、それを逆に自誇してゐるやうな文学者も居る。この時代に生活し、公衆の悩みを共に共感してゐる我々が、この時代の流行歌曲に心を牽かれ、それによつて自己の鬱情を医せられるのは当然である。だがそれの故に、この時代を「悦ばしきもの」として、高く価値づけ讃美することは断然できない。私は町に居る時、群集と共に声を合せて、「忘れちやいやよ」を放吟し、群集と共に心の癇癪玉を破裂せてる。しかもそれを唄つた後で、自分で自分の髪の毛をむしりながら、自嘲して「この大馬鹿野郎奴」と叫ぶのである。
 今日のやうな時代は、何等音楽の進歩でもなく、何等文学の進歩でもなく、況んや文化一般の進歩でもない。明白に言つて、今日は文化のデカダンスな頽廃期である。今日の意味で言はれる「リアリティへの行動牲」とは、一切の藝術や思念を捨てで、吉原へお女郎買ひに行くことである。昔の江戸文化は、そこ迄遂に行き尽した。そして行き尽した時に没落した。
 私は支那ソバ屋でワンタンを食ひ、生葱の浮いてる醤油汁のスープを吸ふ毎に、いつも必ず「忘れちやいやよ」を連想し、併せてまた日本の現代文化を連想する。支那料理と現代文化は、本質上に於て真によく似たものがある。なぜなら支那料理は、人間の究極的な現実欲望である食慾を、それの最も露骨なアぺタイトの食ひ気に於て、徹底的にまで表象した物であるから。そしてこの表象が、とりも直さず現代文化の傾向であるところの、肉情的実感への行動性を語るのである。支那が日本の現状と似てゐることは、単に料理の表象ばかりでない。梅蘭芳等の唄ふ支那音楽は、その肉情的質感性の強いことで、野卑的にまで情痴の行動意識が強いことで、最近日本の流行歌曲とよく似て居る。即ち言へば、日本人の一般文化と情操とが、最近支那人に似て来たのである。しかも阿片に中毒した、頽廃世紀の支那人に似て来たのである。これが果して「進歩」であり、散文精神のリアリスチックの徹底だらうか。
 今日の時代に於て、尚魂のロマンや詩的精神持つてるものは、或はたしかに「時代おくれ」であるか知れない。支那料理が、最も「現実的」の料理であるといふ意味に於て、私等の詩人群は、今日の社会に於ける最も「非現実的」の人間である。しかしながら私等は、無意義の新人モダニストを誇るよりは、むしろ有意義の旧人クラシストを誇りとする。詩人といふ名で呼ばれることは、今日の時世に於てさへも、決して必しも不名誉ではない。