ローマ字論者への質疑

 日本語の健全な発育と、その国語の純粋性を害毒するものは、実に生硬な漢語と漢字、特に明治以来濫造される翻訳漢語と漢字である。言葉に一番大切な条件は、耳で聴いて意味がわかるといふことである。耳で聴いて意味がわからず、文字に書いて見せた上で、初めて視覚から語意が通ずるといふやうな言葉を、日常語の会話に使用するやうな国民があるとしたら、世界で最も不便で最悪の国語を所有する民族と言はねばならぬ。支那人の如きは、古来から象形文字を使用し、言語が文字に書かれた場合の、視覚上の表象効果を重視したが、しかもその支那人でさへ、発音の場合は韻の四声法を厳重にし、異語同音の混錯を避け、いやしくも耳で聴いて語義の解らないやうな不便な国語は、決して使用しなかつたのである。日本人が支那の漢字を輸入したのは、必ずしも問責さるべき罪ではなかつた。しかしそれと同時に、漢語の正しき発音と韻律を輸入せず、日本化した無韻のデタラメで和読したのが、国語の混乱と不便を招いた原罪だつた。特に明治以来、その無韻の漢字と漢語で、むやみに西洋の新文明を翻訳したので、今日の如き収攬しがたい状態になつたのである。
 ローマ字論者と仮名文字論者は、かうした日本語の不便と混乱を整理するため、必要の要求に迫られて立つたところの、一種の「文明改造論者」である。もちろん彼等の意志は、上述のことの外にも、象形文字の常習的困難を避け、日本語を音標文字化することによつて、智識と文化の普及的能率を挙げようとする実利主義にも存するだらうが、同時にこの実利主義は、国語の純粋性を守らうとする別途の意志とも、必然の関係で不離に結びついて居るのである。ローマ字や仮名文字を使用すれば、今日乱用されてる如き翻訳漢語―耳で聴いて意味がわからず、文字や印刷によつてのみ、視覚から表象されるやうな言語―は勿論「製糸」「製紙」「生死」「制止」「静止」の如き、異義同音の錯乱を伴ふ言語は、必然的に廃滅されるか、もしくは支那語の四声のやうに、夫々の区別した発音により、正しい平仄やアクセントをもつて発音されるやうになる。そしてこの時、初めて日本語に真の「韻」といふものが出来、支那西洋の国語と同じく、我々の言葉にもまた真の「韻律」が発生する。すくなくともこれによつて、日本語はずつと「音楽性」を豊富にし、純正詩歌の表現に適するやうになるであらう。詩人としての僕の立場が、ローマ字論者の主張に対して、常に多分の好意を持つのはこの為である。
 だがそれにもかかはらず、彼等のローマ字論者や仮名文字論者に対して、尚且つ僕が満点の賛意を表せず、時に大いに反感の敵意をさへ表するのは、彼等の「誤つた実利主義」が、往々にして僕等の美的芸術意識と衝突し、且つ却つて国語の純粋性を破壊するところの、反日本主義的のものに思はれるからである。一例をあげて見よう。

 花は吹き、鳥は鳴く。

 僕は嫌ひだ。僕は好きだ。

 ローマ字論者や仮名文字論者の大部分は、かうしたフレーズに於ける「は」を、HAと書かないでWAもしくは「わ」と書くのが常である。(ローマ字論者以外の人々の中にも、近頃かうした書き方をする人が多くなつた。例へば高倉テル氏や矢田挿雲氏など。)何故に彼等は、この場合に「は」を「わ」と書くのであらうか。かつて或る座談会で、僕はこの疑問を土岐善麿氏に質問したら、言語をその「発音通りに書く」といふ、ローマ字運動の原則に基づくのだと説明された。しかし「花は咲く」とか「僕は嫌ひだ」とかいふ場合の「は」が、
果して実際に「わ」と発音されて居るのだらうか。この場合の正しい発音はいかに考へてもHAの外になく、断じてWAではない筈である。故にこれを日常語で会話する時、そのHAのHがサイレントとなつて省略され、Aだけが後に残つて、普通の視覚上には「僕ア嫌ひだ」「俺ア厭だ」といふ風に聴えるのである。もしこれがWAであつたら、いかに音便に転化しても、Wの省略される筈がなく、「僕ア」「俺ア」といふ発音の生ずるわけがないのである。かの所謂文章語と称するものは、日常口語の音便的に転化したものを、さらに藝術的に薫練した言語であると言はれてゐるが、その文章語では、上例の「花は吹き鳥は鳴く」を、「花咲き鳥鳴く」といふ風に書く。HAのHをサイレントし、Aの母音を主語に連結してしまふために、自然にかうした言語の簡潔化が行はれるのである。

 現代日本語の整理を意図する上に、何より必要にして必要なことは、国語のデタラメ発音を一掃して、日本語をその正しく純粋な音韻に統一することである。支那文字の輸入以来、吾々は漢語のデタラメな無韻的和読によつて、著るしく「耳の健康」を障著し、言語上の音痴民族となつてしまつた。正に今日に於ける僕等の医療は、その「失はれた耳の健康」を新たに回復することでなければならぬ。
 言語をその発音通りに書く、といふローマ字論者の主張は、もちろん僕等の異議なく大賛成をするところである。だが実際に「は」と発音されてる日本語を、故意に「わ」と書くやうな彼等の方法は、国語をその正しき発音通りに書くのでなくして、却つてこれを音痴的に邪曲悪化するものである。前に言つたその座談会の席上で、或る人がまた次のやうなことを提言した。曰く、停車場の駅札等に於て見る国府津の「かふづ」は、よろしく「こうづ」または「こーづ」とすべきである。でなければ外国人に読了が困難だらうと。この原理を敷衍すれば、菓子は「くわし」と書かずして「かし」と書き、関東は「くわんとう」でなくして「かんとう」、蝶は「てふ」でなくして、「ちよー」と書くべき筈である。そしてローマ字論者や仮名文字論者は、実際この通りに書いてるのである。しかし「国府津」の正しい発音は、駅札通りKAHUZUであつてKOZUでない。「関東」も正しい発音はKWANTOであつてKANTOではない。ローマ字論の主張が、言語をその発音通りに正しく書くといふのであつたら、彼等の書法は、正にその主義と自家矛盾をしてゐるのである。
 かうした僕等の質疑に対して、おそらくローマ字論者の答へる所は、国語の時代化した一般的通用性に従ふといふ、便利主義の実用効果を称へるだらう。ところで僕のいちばん攻撃したいのは、この種の「誤つた便利主義」「浅薄な実利主義」なのである。なぜなら前に言ふ通り、日本現代語の混乱と猥雑とは、発音の韻を等閑にして、文字をデタラメに読むことを教へたことに、一切の教育的因果を負ふからである。何よりも我々は、国語問題の急務として、今日「耳の健康」を回復せねばならないのである。現代の通用化した日本語が、時代の過渡期混乱によつて、悉く皆音痴的に病疾されたものだとすれば―正にまたその通りであるが―時代の新しい更生教育は、何より先づその医療に努めねばならないのである。単にその通用的便宜のために、疾患を疾患として放任し、悪に則(のつと)つて悪を準用する如きは、一国文化の将来を憂ふる者の、断じて賛与しないところであらう。