能と室町幕府

 能を完成したのは、観阿弥や世阿弥であるが、これを保護し奨励し、以てその完成を助けたのは、足利将軍の室町幕府であつた。もし将軍の保護がなかつたら、世阿弥等の天才を以てするも、容易にその完成はできなかつたらう。
 今日、日本歴史の上で、足利時代は暗黒時代と呼ばれてゐる。たしかに政治上から見れば、内乱の絶えなかつた時代であるから、これを暗黒時代と言ふのは至当であるが、その同じ言葉が、中世の西洋歴史で用ゐられる場合とは、全くわけがちがつてゐる。西洋の中世、ローマ法皇のキリスト教が欧州に君臨した時代は、全然文化が抑圧され、科学も藝術も異端視された時代であり、文字通りに文化の暗黒時代であつた。然るに室町幕府の足利時代は、政治的にこそ不しだらだつたが、文化的には決して暗黒時代でなかつた。義満以来、代々の将軍は茶道に凝り、南画を学び、能を好み、庭を造園し、大いに藝術文化を溺愛した。代々の足利将軍は、何
れも皆一家の茶人であり、画家であり、庭園師であり、演劇批評家であつた。彼等の大部分は、政治家としては無能であつたが、風流人としては一流を為した人々であつた。むしろ彼等の将軍等は、風流に耽つて政治を忘れ、文事に凝つて幕府の紀網を顧みなかつたのである。
 それ故に室町時代は、その政治的紊乱と逆比例して、藝術文化が特殊の発達をしたのである。今日、日本文化の粋と言はれる茶道を初め、能も、俳譜も、絵画も、建築も、庭園も、また小説等の物語文草も、たいてい皆室町時代に興隆した。元来、武家の政権する封建時代といふものは、藝術文化が賤まれ、その文弱性の故に擯斥されがちのものである。特に就中、北條氏の鎌倉時代の如きは極端だつた。将軍の名をさけて執権の実をとつた北條氏は、諸大名の領地安堵を保証する為、権利義務の法律観念を極度に布告し、裁判の公平を以て、その政治イデオロギイのモツトオとした。北條氏の政治精神は、その強権的なことに於て、唯物主義的なことに於て、今のソグイエート露西亜と共通するものがあり、執権自身は、人民中央執行委員のやうなものであつた。法律観念と、実利主義と、スパルタ的武士道と、勤倹貯蓄で凝り固まつた、かかる幕府統治下に於て、もとより藝術文化の花が咲く筈はない。日蓮、親鸞等の宗教を除く外、日本歴史に於て、真に文化の暗黒時代といふべきものは、実に北條九代の時代であつた。
 さらに下つて徳川幕府の時代は、大いに民間の大衆藝術が勃興し、所謂江戸文化の花を咲かせたけれども、それは幕府の為政者によつて、保護奨励された者ではなかつた。否幕府の政治意識そのものは、かうした民衆文化を憎んで邪道視し、社会の風規を紊乱する淫猥破倫の曲事として、事々にこれを抑圧し、禁断し、しばしばその藝術の作者等を獄罰した。しかも徳川幕府そのものは、自ら何の藝術も創造しなかつた。江戸千代田城内に於て、代々の将軍に保護された藝術は、僅かに能楽と茶道であつた。しかしその能も茶道も、室町幕府の創造した原型のものを、原型のままで相続し、武士の式楽や儀礼用として、僅かにその生命なき形骸を保存したにすぎなかつた。
 王朝時代は別として、武家政権の時代に移つてから、藝術文化に同情をもち、これを保護奨励した政府は、僅かにただ唯一の足利室町幕府があつたのみである。そして能は、かかる幕府治下に発達し、義満、義政等の将軍によつて厚く保護され、世界に誇る銀閣寺の庭園藝術と共に、日本のユニイクな国粋藝術となつたのである。
 能の深奥な興味は、それが二つの矛盾した反対の美学から、不可思議の調和で構成されてゐる点にある。即ち一方から見れば、能は極端に形式主義の藝術であり、武士道的ストイツクの厳格主義を表示した藝術である。然るにまた一方から見れは、能ほどにも内容的で象徴主義の藝術はなく、これほどにもまた幽玄で艶めかしい藝術はない。能の仕舞の舞踊形体は、極めて直線的で男性美でありながら、しかもその舞踊の本質する真精神は、世阿弥の言ふ如く「花」であり、優美な女性的曲線を奥義としてゐる。すべてに於て、能の藝術美を構成してゐるものは、かうした二つの対蹠した矛盾性である。そしてこれを説明する為には、先づ室町幕府の理念した文化観念から説かねばならぬ。
 今の日本歴史に於て、足利尊氏は大逆賊の張本人として書かれてゐる。朝敵であつた尊氏は、たしかに賊にちがひない。しかし彼の心理は、建武中興の補業以来、深く後醍醐帝の知遇に感じ、帝の意図された王朝文化の復興についても、深いルネサンス的関心をもつて居たのである。彼が幕府を鎌倉に置かずして、武士の統制に不便な京都に定めたといふことも、他に別の理由があつたにしろ、一つには平安以来の王朝文化に対する、彼の憧憬と恋著とが、充分に動機してゐた為と思はれる。この点に於て、彼は平清盛とよく似てゐる。清盛も一時朝敵の地位に立ちながら、宮廷の公卿文化に同化されて、平家一族を長袖黛眉の殿上人にした。
 それ故に尊氏の子孫等が、代々皆所謂風流将軍であつたのも当然である。彼等の室町将軍等は、ひとへに王朝文化に憧憬して、その所謂「物のあはれ」や、「恋のしをり」や、「幽玄」やの美学を学んだ。しかしながら彼等は、本来武人であつて公卿ではない。馬上に弓箭の術を事とし、山野に駆つて合戦を職とする関東武士の子孫が、いかに公卿の風雅を学んだところで、到底真の王朝文化人には成り得ない。武士は要するに武士にすぎない。そこで彼等の幕府人は、そのイデーする王朝文化を、彼等の武家精神の中に同化し、公卿長袖人の「物のあはれ」を、武士道精神のストイックな形式で表現させた。これが即ち能といふ藝術であり、その本質に於ける矛盾のよつて生ずる起因なのだ。
 まことに室町時代は、あらゆる王朝文化の美意識が、武士階級によつて変貌化され、武士チハイされて再生された時代であつた。王朝美学の中心生命は、「恋」といふ優雅なエロチシズムの鑑賞だつた。然るに室町幕府の将軍等は、その同じ「恋」の情緒を、異性の女から味はないで、同性の美少年から鑑賞した。世阿弥が将軍の前で舞つた時に、義満は感に耐へずしてかう言つた。−稚児が掻くとても、此処ばかりは及ぶまじやと。
 世阿弥の「花伝書」にある「花」といふ言葉は、時によつてはエロチシズムといふ意味であり、時によつては幽玄といふ意味であり、場合によつては物のあはれといふ意味である。さうしたすべての言葉−幽玄や、物のあはれや、艶めかしさや−は、何れも俊成、定家等の歌人によつて称導されたところの、王朝平安朝美学の精髄だつた。故に世阿弥の観念した能のエスプリは、要するに平安朝美学の直系的伝承に外ならない。しかも能の演出に於ける形式そのものは、あくまで直線的であり、男性的であり、武士的ストイシズムであり、そして墨絵的の簡潔素朴を尊ぶところの、枯淡な禅宗精神と一致してゐる。ところでこの禅宗精神−枯淡素朴の簡潔を尊び、すぺての色彩を排して、墨の一色を愛する精神−といふものは、北條氏以来、武家によつて継承された武家趣味の美学であり、かの土佐絵の華麗と繊細を尊んだ、王朝時代の公卿文化には、全く見られなかつたものなのである。実に能の神秘的な不可思議さは、かかる枯淡素朴な武家趣味の演技の影に、濃艶限りなき色彩を縹渺させ、墨絵の舞台に土佐絵のイメーヂを象徴させることである。謡曲の言葉をかりて言へば、この藝術的秘密性は実に「言語道断」といふ外はない。
 要するに能といふ藝術は、王朝文化の美学意識が、武士階級によつて継承された事によつて、避けがたく生じた不調和の矛盾性を、日本人独特の同化力と創造力とで、天才的に渾沌完璧させた藝術である。さらにもつと詳しく言へば、それは宮廷文化のエスプリを伝承した、武士階級の藝術なのである。能は観阿弥父子が完成したものと言はれてゐる。だがかかる藝術が生れるための、飽和した時代生気を作つたものは、室町幕府であることを知らねばならない。

『謡曲界』第四十九巻第六号・昭和十四年十二月号