三好達治君への反問

 三好達治君が、僕の「純正詩論」の評を帝大新聞に書いてる。近頃三好君の書く物をよむと、何だか僕が、一々教訓されてゐるやうな気がしてならない。別に悪い気持ちではないけれども、時々その教訓が腑に落ちない箇所もあるので、簡単にその箇所を反問し、さらにまた三好君の答を聞きたい。
 三好君の説によると、日本語の詩はその国語の性質上から、音楽性の稀薄なことを特色とし、代りに意味の含蓄による印象性を本質とするといふのである。このことは、僕も「純正詩論」中の一論文(饒舌の詩と沈黙の詩)で詳説した通りであるから、此処までは別に異見なくお互に同感である。しかしこの前提からして、三好君は日本語詩の音楽性を不必要とし、印象性のみの表現を主張して居る。そこでかつて北川冬彦君等の所謂新散文詩に対した僕の抗議と論争とが、再度また三好君を相手に繰返されることの羽目になつた。だがその議論は後に廻して、三好君の説で特に反問したいのは、日本語詩に音楽性の不必要な例証として、三好君が俳句をあげてることである。
 日本の俳句が、和歌や長歌等の抒情詩に比して、比較的音楽性に稀薄であり、意味の暗示による印象性に富んでることは勿論である。しかしながら俳句と雖も、575の韻律形式を持つてる以上、やはり詩としての本質を音楽性に置いてるのである。特に芭蕉の如きは、俳句の音楽性を第一義的に重視して、常に「俳句は調ベを旨とすべし」と弟子に教へて居た。三好君の言ふ如く、日本語詩の本領が、観念的イマヂズムの点のみにあり、音楽性を無視して成立されるものであつたら、古来からもつと早く、純粋散文形式の特殊な詩が、日本に生れて居た筈である。然るに日本の詩歌は、逆にその音楽性の稀薄な点で長く苦心し、如何にもしてそれを求めようとする欲求から、特殊な修辞学による「文章語」さへも創られたのである。わざわざ文章語を作つてまでも、詩に音楽性を欲求しなければならなかつたといふ事情は、詩人が如何に強く表現の音楽性を熱情したかといふこと、換言すれば詩の第一義的条件が、実に音楽性そのものに有るといふことを実証して居る。

  この秋は何で年よる雲に鳥
  笠島はいづこ五月の泥濘道
  うきふしや竹の子となる人の果
  衰へや歯にかみあてる海苔の砂

 かうした芭蕉の俳句を、しづかに黙読して味つて見給へ。その句の詩情してゐるところの侍びしをり、人生の沁々とした詠歎を感じさせるところのものが、主として全く言葉の奏する音楽性(調べしをり)の中に存することを知るであらう。即ちそこには、如何にもやるせなく噛んで吐き出すやうな調子があり、その音楽が詩句の内容と不離にからみ合つて、初めて此処に芭蕉のポエヂイが成立して居るのである。芭蕉自身もそれを意識し「声のしをり」と「心のしをり」とは、一にして二に非ずと言つてる。もし此等の俳句からその声調の音楽感を取つてしまへば、芭蕉の抒情詩として残る所はゼロにひとしい。蕪村になると、比較的イメーヂ的の要素が強く、音楽性の方は少しく稀薄になつてるけれども、これも芭蕉との比較であつて、決して本質的に音楽を無視して居るものではない。
 三好君はまた漢詩、和訓朗読を引例して、それが韻律を無視した散文読みであるにかかはらず、一種の音楽的な抑揚美があると言ひ、その故に日本語の詩は、必ずしも韻律の必要がないと説くのである。この三好君の説は、僕も全く同感であり、且つ僕自身も昔からその主義によつて「青猫」等の自由詩(非韻律詩)を書いてるのである。しかし「韻律がない」といふことは、「音楽がない」といふこととは意味がちがふ。もし三好君の思惟する所が、漢詩の散文読みから推論して、現代日本語の非音楽的な散文詩を肯定しようといふのであつたら、大いにその論理の誤謬を責めねばならない。
 漢詩の和訓読みには、三好君の言ふ如く、たしかに一種の音楽的節奏がある。そしてこの節奏は何処から来て居るか? それを考へることが大切なのだ。つまり所謂「漢文調」と称するものは、日本語の平板的な単調と柔軟性とを補ふために、昔の人が特に一種の新しい音楽を工夫して作つたのである。さうでなくとも、漢語(昔の支那語)には強いアクセントがあり、拗音や促音が多く、大和言葉に此して、逢かに声調の変化に富んでる。かうした言葉で本来韻律的に作られた支那の漢詩を、日本流に和訓してよむ場合に、自然に一種の音楽的な調子がつくのは当然である。この特殊な文章が「散文」である理由によつて、一般現代口語による散文の詩を肯定しようとするのであつたら、それは「散文」といふ言語の概念に誤まられた非論理である。三好君は、僕の詩論を西洋詩論の直訳であつて、日本語の苦情に通常されないと言つてるけれども、これもまた「有るもの」と「有るべきもの」とを混合して、僕等の現状して居るザインの詩から、真のイデアすべきゾルレンの詩を断定しようとするところの、三好君の早計すぎる判断である。僕の詩論は、或は正に「現代の日本詩」に通用され得ないか知れない。しかもそれは過去、現在、未来を通じて、不易に真の詩情が欲求せねばならないところの、世界的に普遍さるべき詩論なのである。