読書随感


保田輿重郎著「後鳥羽院」
 後鳥羽院の時代は、日本歴史の一大縛換をしたエポック期であつた。即ち神武以来の連綿たる天皇政治は、
院を最後として磨滅し、爾後は武家の支配する幕府政治の世となつたのである。この意味において、後鳥羽院
は王朝最後の御一人者であつた。しかしながら日本文化の光輝ある俸統は、隠岐の孤島に怨みをのんで崩御遊
ばされた、この最後の御一人者の決意の中に、悲壮にも宿命的な不死を新約した。保田君のこの書物で書いて
ゐることは、日本歴史に於けるレバイブルの奇蹟と両音を、後鳥羽院の新約によつて註解し、系譜づけようと
する意囲なのである。
、叫
一粒の歩もし死なずば! そして後鳥羽院こそは、資にその一粒の変であつた。王朝最後の御一人者として、
紹海の孤島に憤死された院の精神は、しかし爾後七百年に亙る日本の文化を支配し、様々の攣貌に於て新らし
い果質を結んだ。保田君の系譜畢は、此虞で西行から芭蕉に及び、談林から西鶴に至り、桃山文化の利休を経
で後水尾天皇に至り、更に秋成、蘇村に及んで綿々轟きるところがない。そしてかかる凡ての物は、地に落ち
頴頂∋題jぞ死ん櫻せ粒の奔から軍つたのである0
 「おどろが下を蹄み分けて」も、道ある世をぞ人に知らさむと歌はれた際の悲願は、まことにその新約の準亨ロ
 を果した。知るべし日本の文化と囲梓橋紳とは、北條、徳川の逆臣が支配した武家政治によつて培はれないで、
 政権の蔭に引退した王朝高貴の精神によつて系譜づけられてゐたことを0
  この新らしい見解に於て、保田君は従来の日本史観をコペルニクス的に樽換してゐる0従来の歴史家が定説
 するところは、中世以来の日本に於て、文化と国運とを進歩せしめ、併せて園粋精神を蜃揚させたものは、源
 氏、北條、徳川等の武断的幕府政治だと言ふのである0それからして彼等は、大和心や大和魂の本質さへも、
 かかる武家によつて養成された、武断的封建政治の賜物の如く解稗してゐる0彼等の史家は、表面皇室を尊敬
 してゐる如く見えるけれども、費は幕府政治を肯定し、その所謂「善政」の故に、北條、徳川の軍閥政治を謳
 歌してやまないのである。即ち保田君の所謂「園鰹の↓に善政あり」との支那儒教思想が、永く日本の史家に
 固執されてゐたのであつた。
 後鳥羽院の悲壮な運命と御生涯−それは王朝政治の最後を象徴する−に封して萬斜の涙をそそぎ、烈々
 たる義憤を禁じ得ない保田君は、この新らしい書物に於て、あたか旦兄の三保の橋に坐して、逢かに皇居を拝
 んで沸泣するところの、勤王の志士高山彦九郎の姿を弊常させてる0もつとさらに適切に言へば、「後鳥羽院」
一巻の精神は、正しく昭和の「紳皇正統記」であり、おどろが下を踏み分けても、道ある世を人に知らさうと
 するところの、北畠親房の烈々たる精神を博へてゐる0或はさらに、民衆をその正統な国粋意識に自覚させょ
 ぅとしたところの、本居宣長のルネサンス的使命を纏承してゐる0
 しかしながら「後鳥羽院」は、畢に史畢↓の考讃から、学究的な詮索をした論文ではない0名著「日本の
 橋」以来、益ヒその態度を鮮明にして爽た著者が、妖艶優美の奉術的文章によつて、その犠烈たる詩精神を龍
∫J7 阿帯

律づけて歌つたところの、ひたむきに情熱的な散文詩である0おょそ僕等が、歪丁としてのエッセイに求める
ものは、学術の考澄や外国思想の切要りではなく、況んや小説文学の月旦批評の顆でもない。すくなくとも
「奉術品」として取扱ひ得るエッセイは、本質↓に於ての散文詩であり、純粋な詩精神を所有するものでなけ
ればならない0しかも僕等は、明治以来かくの如き文学と文学者とに、最も長く久しい間飢餓してゐた。此虞
に我が保田輿重郎君の如き眞のエッセイストを得たことは、初めてこの文学的飢餓を癒す悦びである。
∫∫β
     武者小路資篤著「楠木正成」

武者小路賓篤氏は、背から始終哀した主義を持し、且つこれを生活行動に質践して、あくまで人生の眞意
義を求道して爽たところの、眞の人格者的ヒューマニストである。
氏は昔からトルストイに私淑してをり、自分でもその影響を受けたといはれてるが、僕の見るところによる
と、氏の本質は純粋の東洋人、といふょりも純粋の日本人であつて、トルストイ的執拗の壷肉相剋や、キリス
ト教侶賀のモノマニアは、氏の文学にも性格にも殆んどない0トルストイょりも、氏はむしろ孔子に近く、孔
子よりもむしろ二宮令徳に近いのである。
氏の数ある著書の中で、今度の「楠木正成」は特別に面白く、最革ますます固熟した氏の風貌を、さながら
躍如として描出してゐる0この事に描かれた楠木正成は、高子供のやうに無邪気で、天眞爛漫の楽天家であ
りながら、完備教の無常観や宿命覿を支持して、しばしば人生をうら悲しげに、雲水の心で諦観してゐる。
しかもその悲観の極致にすら、自己の知己に報いる謝恩の念と、皇室に封する一死忠義の信念とは、烈々とし
で一熱火のやうに燃えてるのである○そしてこの楠木正成における全部のもの1無邪気な明朗さや、悌数思潮

戎頂つ戊聯影響や、J偲生報恩の忠義心す−は、賓にそれら自ら日本人の資質する民族性に外ならない0すなはち武者
  小路氏はこの審によつて、日本人の民衆性をシムボライズするとともに、併せてまた生粋の大和民族であり、
  日本の古い貴族の一血統であるところの、著者自身の人格的全貌を措いてゐるのである0
神保君の「域幹論」について
 神保光太郎君の輿謝野銭幹論(四季・三月競)は、同君近来の論文中、最も身の入つた長文の力作だつた0
餓幹の償値を蜃術家としてょりもジャーナリスト(神保君のいはゆる事業家)として認めたこ、トも正常だし、
身を以て「詩の王国」を築かうとしたことに、彼のあらゆる文化的正義覿を認めたことも正常である0そして
伶、彼の敗北の末路に対して一抹の涙と同情を捧げたことも、詩人らしいヒューマニズムの現はれであつた0
しかし慾を言へば、銭幹の敗北とその原因について、今少し批判の筆を進めてもらひたかつた0さうすればこ
の論文が、もつと熱のある炎となつて、生きた怒りや悲しみやを、讃者の胸に灼きつけることもできたらうし、
単なる人物評論以上に、もつと指導性のあるものになつたであらう。
 紀貫之は、古今集の中で一番下手な歌人であつたし、藤原定家は、新古今集の中で最も詩情の稀薄な技巧家
だつた。しかも古今集は紀貫之によつて世に現はれ、新古今集は藤原定家によつて編纂された0すぺて一代の
文化を指導し、ジャーナリストとしての賓際行動をする人々は、奉術家としての純粋性と一致しない0明治の
大ジャーナリスト正岡子規の如きも、俳人としての蜃術眞償は、芭蕉、蕪村に遠く及ばず、門弟の虚子にさへ
も及ばなかつた。しかし子規なければ虚子もなく、貫之出でずんば古今集なく、定家もし指導せざれば、家隆、
良経、式子内親王等の秀才も芽を出さなかつた。この事賓を逆に言へば、定家の中に一切の新古今歌風があり、
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子規の中に一切の新興俳句があつたといふことになる。
輿謝野銭幹の場合も同じく、彼の中に一切の明治新饅詩があつたのである。彼は貫之や定家と同じく、常時
のあらゆる秀才を門下に集め、一代の新思潮をエポックして指導した。しかも彼の詩才は、門弟の末席なる白
秋、味木、勇、光太郎、晶子等に及ばなかつた0だがまたその理由の故に、一人の弟子も鱗幹を軽侮しなかつ
た0なぜなら彼等の弟子が持つてるところの、あらゆる「個人的のもの」「部分的のもの」が、師の銭幹のエ
スプリに「全饅として」賓在してゐたからである0即ち明治詩壇に於て、錬幹は一つの雄大なる「宇宙」であ
つた0もしこの事賓を認めるものは、織幹の拳術的疏大を笑ふ代りに、その高邁なるエスプリを認識して、明
治の最も高い償値の上に、彼の詩人的王座を築くであらう。
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      「歌ごころ」を讃みて

中河輿一氏は、所謂世の常の小説家ではなく、所謂世の常の評論家でもない。二言して蓋せば氏の本領は費
に「詩人」なのである0詩人といふ言葉は、日本では「新鰹詩の詩作家」といふ意味に限定され、極めて末梢
的な狭義にしか使はれてゐない0だが本質的にイデーさるぺき詩人とは、そんな末梢的のものではなく、人生
や文学に封して、高邁な浪漫的熱情をもつ人を言ふのである0そこで岡倉天心や、倉田百三や、武者小路資篤
や、保田輿重郎やが詩人である如く、中河竺氏はそれ以↓に純粋の詩人である。氏の著作には、丁万に「天
の夕顔」の如き小説があり、一方に偶然論以来数々の評論集があるけれども、それらの異つた文学を一貫して、
氏の文挙的エスプリの本質となつてるものは、純粋に浪漫主義的な詩精神である。即ち「天の夕頚」は、小説
の形式で番いた一筋の「抒情詩」であり、他の日本主義的な多くの論文は、この作者に於ての英雄的な「飯事
詩」.である..いかなる形式にょ.つての、いかなる表現によつての文革も、轟く皆それが本質上での「誇」であ
る場合にのみ、この作者を眞の 「詩人」と呼ぶことができる。そして中河氏が、正にさういふジャンルの詩人
なのである。ところでさういふジャンルの詩人は、畢にエスプリとしての詩人であるばかりでなく、必然にま
た拳術品としての詩文寧にも、深い関心と興味を持ち、しばしばまた彼自身が、質際に於て詩の作家であつた
り、詩の優れた鑑賞家であつたりする。
 保田輿重郎君と同じく、中河輿一氏もまたこの鮎では人後に落ちない詩肇術の愛好者であり、且つ資際に和
歌の優れた作家乗鑑賞家である。日本の現歌人等が、自ら「歌は詩に非ず」と構して、自己の季術を厳重に詩
と直別してる如く、一方に日本の所謂詩人等は、国粋抒情詩の眞髄たる和歌俳句を、自分等の文寧と封舵的に
直別し、狭量にもそれを「詩」といふ言葉の中に包括し得ないのは、日本の文学者の島国的狭量と偏見とを語
る以上に、日本に眞の 「詩」や「詩人」が賓在しないことを讃左する。人々がかかる認識的迷妄の開から醒め
た日に、初めてこの圃に眞の詩と詩人とが生れるだらう。現在の日本には畢なる「歌作人」や「詩作人」がゐ
るのみであつて、眞の 「詩人そのもの」がゐないのである。むしろかうした連中以上に、保田君や中河氏が、
眞の精神的な詩人であり、正しき言葉に於て、詩人と呼ばるぺき人なのである。
 中河氏の新著「歌ごころ」は、主として和歌に関する批判と随想を編集してゐるが、その中の 「歌人に輿ふ
る書」数篇は、おそらく氏の思想の最も高邁なる気概を語るものであらう。氏はこのエッセイに於て、眞に鰹
嘗りの熱情を以て現歌壇にぶつかり、顧正破邪の正義の為に、道理を説いて倦む所なく、烈々たる熱血の将を
振つてゐる。この意味に於て、氏のこの論文は、正に正岡子規の 「歌人に輿ふる書」と併稀さるぺき名篇であ
らゝつ。
 中河氏の歌壇に封する怒りは、単に一小文壇として、特娩的の文拳評論をしてゐるのではない。氏の深い慣
32∫ 阿帝

りの根本は、資に自然主義によつて冒漬され、唯物主義によつて殺致された詩精神を、新日本の文化の為に、
身を以て復興させょうとする熱意に由来してゐるのである。明治の浪漫主義漫落以来、日本の文奉は自然主義
の支配に属し、さらに縛じてその末流たる卑俗主義の天下となり、三度縛化して唯物主義の横行するところと
なつた。そしてこの一貫する歴史的推移は、本質に於て「詩精神の香定」に胚胎してゐるのである。自然主義
から卑俗主義へ、卑俗主義から唯物主義へと、時代が下に降れば降るほど、この「詩精神の香定」は露骨にな
り、いょいょ辛辣無残な暴虐ぶりを態拝して来た。そこでこの歴史の績いてる間に、貴際に僕等の詩と詩人は
日本の文壇から轟殺されてしまつたのである。ただその中での利口者だけが、かかる時世の推移に迎合すぺく、
自ら詩棉紳を香定して散文精神に殊属し、一種の散文的なる似而非自由詩を書くことによつて、辛うじて詩人
の面目をカモフラーヂして来たにすぎなかつた。しかも眞の詩人、かかる事大主義的なる卑屈を潔しとしない
眞の詩人は、時代を長嘆息して筆を断ち、自ら詩壇を逃れて隠遁してしまつたのである。
 この同じ事情は、もちろん歌壇にも共通であるぺき筈だつた。然るに日本の歌壇人は、概して皆虞せに長け
た老成者であり、詩人のやうに純情な年少者のグループではなかつたので、僕等の中での利口者以上に、彼等
の歌人はもつと巧みに、もつと自然的に時世に順應して生活した。即ち彼等は、早くから自然主義に樽向し、
ケの現質的功利観の文学精神に胚種してゐるところの、卑俗主義や唯物主義の思想を、巧みに自家の文孝中に
稀取した。それは彼等の歌壇に於て、慣裁よくも馬生主義の名で呼ばれ、アララギ汲等の一汲によつて、巧み
な政治的薫策で、支持された権力だつた。そしてこの歌填的オーソリティの権力が、大正以来長く今日に至る
まで、日本の和歌の眞精神を殺致し、事資上に「歌」を亡ぼしてゐるのである。彼等の現歌壇に於て、今日短
歌と呼ばれてゐる文学は、資には自然主義のレアリズムに立脚してゐるところの、詩を香定するところの文学
であり、質には「敢文精神で書いた散文」にすぎないのである。眞のボエデイの基調するものは、h芙とりリシ
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ズムと、主観の強烈な燃焼以外にはない。然るに今の歌人たちは、すぺてそれらの物を香定してゐる。
 中河氏の「歌人に輿ふる書」は、かかる歌人等の迷妄と詭計に対して、抑座し得ない正義入の憤怒を爆磯さ
せてゐるのである。詩精神を香定する歌人等は、またそれによつて、唯物主義的な商業ジャーナリズムに迎合
し、僕等の詩人群がすぺて段落した悲しい日にさへ、依然として中央の文壇に居残り、一種の特権階級的な地
盤を作つた。それは畢に文壇の一地方事として、特殊的に白眼現すぺき問題ではない。かかる歌壇人の悪業こ
そ、ノ詩精神を詭計的に邪曲することによつて、日本文寧の良心的な饅達を阻害し、ひいては敢合の文化を晋毒
するものである。私自身もまたこの意味に於て、既に早い昔から歌壇に警告し、しばしばその良心を喚起させ
ょぅとして努めたけれども、彼等の好意にして老檜な歌壇人等は、初めから僕等の言を笑殺し、少しも耳を傾
けようとしないのである。良心のない人間に向つて、道徳倫理を説き、大義名分を論ずることの無益なことを、
愚かにも私は漸く最近になつて自覚することから、これ等の歌壇人に封して、全く匙を投げてしまつたと共に、
新たに天地容れざる逆賊としての憤りを、正面から烈しく敵意するやうになつた。然るに中河輿一氏が、近時
益ヒ筆硯を新たにし、私に代つてその正義の戦を穂積してくれてるのは、私の最も頼もしく意を強くするとこ
ろである。あへて氏の陣営の後方から大いに饗援する所以である。
 老檜にして虞世に長けてる歌壇人等は、今や文壇の風潮が一愛し、新しい時代の曙光が見え始めた時に於て、巧みにそ
の蕾衆の歌論を欒貌させ、徐々に、自然的に、わざとらしくなく、様子を作りながら、次第に新時代の流行に迎合しょう
とする意向を見せてる。(歌論にも作品にも、その傾向は最近極めて著るしい。)中河氏の次の論文は、かかる御都合主義
者の態度と縛向を、寛容に許すぺきか香かといふ、審議の判決事項に関するだらう。
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     伊藤信書著「現代詩人論」をよむ

 日本の所謂「詩」といふ文学が、明治以来今日に至る迄、崎型的に不健全の成育をして来たのは、過去にそ
の歴史的の俸統がなかつた為であるが、一つには詩壇に批判精神がなく、批評が創作と改行しなかつた為であ
る○文畢に於て、創作と批評とは車の両輪のやうなものであつて、その一つを軟く場合には、文挙が健全な態
育をせず、崎型的になるのを免がれない。日本の文学に於て、小説はこの鮎で健全な系路を取つたが、詩は創
作だけあつて批評がなく、不幸にも病的な系路を取つた。そして此虞に言ふ「批評」といふことは、個々の作
品についての出来柴えを許するところの、狭義の文蜃時評的のものばかりでなく、更にそれを含めて、さうし
た文筆の本質してゐる、政令的、現象的、歴史的の批評であり、詩の場合でいへば廣義の意味での詩撃といふ
ぺきものなのである。
 明治以来、森鴎外、上田敏等を初めとして、日本の新詩指導者の為した仕事は、主として西欧詩の礪詳、も
しくは西欧詩論の紹介であつて、日本の新詩に関する眞の現象的、歴史的の批判ではなかつた。さうした眞の
詩批評家が、過去の日本にゐなかつたといふことが、どれだけ詩の健全な餞育を妨げたかわからない。そして
今日でも伶、それが最も強く欲求されてるのである。
 伊藤信書君の新党場は、かうした現代の詩壇に於て、第一義的の役割をもつ森のであり、併せて日本詩壇の
新エポックを劃するものである。「現代詩人論」に於ける著者の立場は、畢に藤村や有明やの詩人を個々の作
品について批評するばかりでなく、これ等の詩人等が、いかなる牡合的環境の下に、いかにして観念づけられ、
いかにしで現象化されたかといふことの、文化史的歴史観を批評の底遽に持つてるのである。即ち言へは、本
質的の意味に放ける「詩畢精神」をもつてるところの批評である。さうしてかういふd県の批評は、過去の日本
詩壇に全くなかつた。
 伊藤君はその著に封して、「抒情の系譜」といふ傍標の書名を附してゐる。それは巻頭の序論に詳記されて
る如く、藤村以来、有明、白秋等を経て昭和の現代まで系譜してゐるところの、詩の本質的なエスプリ(抒情
精神)の正しい系譜と磯展を適ぺたのである。讃者はこの書にょつて、明治以来の新日本詩が、歴史的にどん
な系譜をたどりながら、現代にまで饅育して爽たかを知るであらう。
 個々の詩人に関する伊藤君の観察は、僕とやや意見を異にするものもあるけれども、その批判の態度が極め
て純粋に高潔であり、あくまで知性人的眞撃なインテリゼンスによつてることは、下司の漫罵や放言のみを事
とし、全く知性人のインテリゼンスの映如してゐる日本詩壇に於て、正に天上の星を仰ぐ如き感をあたへる。
何よりも善いことは、批評の封象としてゐる詩人全饅に対して、著者が深い好意と同情とを持つて、極めて公
平無私の態度で書いてることである。「文畢上に於て或る作家を批評するといふことは、根本に於て、その作
家を愛することから出饅する。なぜなら愛が理解の一切であり、愛のないところに、理解のある筈がないから。
愛なくして書いた批評、それが即ち漫罵である。」といふ意味のことを、僕は最近出版した本のアフオリズム
の中にもかいたが、伊藤君の 「現代詩人論」は、かうした鮎に於て極めて良心的である。
∫2∫ 阿帝