名前の話

 名は性を現はすといふのは、どういふ所に根接してゐるのか知らないが、剛蔵必しも剛直人でなく、貞子必
しも貞女でないことは、多数の資例によつて明々白々のことである。しかし徳川家康といふ名が、いかにも老
檜堅資の政治家を聯想させ、明智光秀といふ名が、いかにも神経質で知性的インテリ武人を聯想させるのは事
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賓である0これは我々仲間の文人でも同じことで、尾崎紅葉、泉鏡花、島崎藤村、芥川寵之介、谷崎潤一郎、
佐藤春夫、北原白秋、室生犀星等、いづれもその名前の字童を見るだけで、夫々の作者の特異な風貌から作品
まで、歴々として表象に浮び上つて来るのである。だがこれは感情移入の心理作用によるもので、別に不思議
なことでも何でもない。ユーゴーの或る小説で、死刑の宣告を受けた男が、ギロチンといふ悌蘭西語のスペル
の一字一字が、断頭董の組立木片のやうに見えることを書いてるが、欧洲大戦の時、濁逸飛行船の峯襲を受け
たロンドン市民は、ツエツぺリンといふ綴字そのものから、直覚的に意魔を表象したといふことである。北原
白秋といふ字面の印象から、あの明朗で官能的な詩人を表象するのも、やはりこれと同じく、作品や作家から
受けた資の印象が、逆にその姓名の字董と結びつき、感情移入をしたものに外ならない。
 僕の名前の由来について、時々人から質問を受けることがある。中には「朔太郎」といふのが本名か雅既か
                                                    ついたち
などと問ふ人もあるが、紛れもなく、親のつけてくれた本名である。僕は十一月一日に生れた。長男で朔日生
れの太郎であるから、簡単に朔太郎と命名されたので、まことに単純明白、二二ケ四的に合理的で平凡の名前
である。若い時の僕は、その平凡さが厭やだつたので一時雅兢をつけようとさへ思つた。ハその頃は、文人の
間に雅戟をつけることが流行した。北原白秋、室生犀星、山村暮鳥等、皆雅競である。)だが考へて見たら、
一人前の文士にも成らないものが、度々しく雅兢をつけるなんかテレ臭いので到頭本名で通してしまつた。
(もつともこの考への誤りは後で解つた。一人前の文士になり、世間に名を知速れてしまつてから、後で雅戟
をつけたところで通用しない。)
 しかし世の中は不思議なもので、こんな平凡な僕の名前が、却つて今の一般人には、風攣りに珍らしく思は
れるらしい。何虞へ行つても、お名前はと聞かれて、サクタラウと答へると、吃度作文の作ですねと言はれる。
                                 ついたち
いやちがふと言ふと、どんなサクですかと反問される。そこで朔日の朔だと敦へるが、これがどうも、向に人
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 棚周一州瀾溺申・Jノ巧 _
人に通用しない。→ツイタチのサタ¢さてね、.どんな字ですか。」とまた反間される。そこで仕方がないから、
ぁりたけの成句を放べてみる。元旦朔日の朔。朔風の朔。朔北の朔。正朔の朔。いくら言つてもまだ鮮らない。
いょいょ困つて考へた未、近頃の時局ニュースで、よく新聞等に出る字を思ひ出す。そこで遡江部隊の遡とい
ふ字からシンニュウを除いた朔だとか、国民に恕ふといふ恕から心を除いた上の字だとか言つてみるが、これ
もまた一向に利き目がない。しまひには両方で苛々して来る。「一鰹何へンなんですか。字を言つて下さい。」
と、先方も少し病癖を起して詰問するのが、いつも問答の最後に極つてゐるが、これが僕にはまた官惑の種で
ぁる。といふのは朔といふ字のへンが何へンなのだか、僕自身が無季で知らないのである。一度漢文の先生に
でも聞いて見ようと思つてゐるが、それを敦へてもらつたところで、結局一般人の封手に解らないのは同じで
ぁるから、費用上には何の役にも立たないのである。いょいょどうにも仕方がないので、指で机に字を書いて
見せるが、それ軋こ二度位繰返さないと解らない。やつと解つてからも、ヘエ! むづかしい字ですなアと言は
れる。
 それで僕も面倒臭いから、たいていの場合は、何でも先方の言ふ通りに任せてしまふ。「作文の作ですね」
と言ふから、「ああさうだ」と答へて簡単にすませてしまふ。しかしいちばん困るのは百貨店で買物をする場
合である。標札の字と名前がちがふと、自宅配達が不着になる場合があるので、香でも正確な字を言はねばな
らない。或る新宿の石貸店で、鉛筆を手にもつた若い係りの店員と、例によつて百萬遍問答を繰返してゐたら、
和服を看た年配の店員が側から出て来て、「そりや君。八朔の朔だよ。」と敦へたが、若い店員の方は、八朔と
いふ言葉が解らないらしく、一層困つて眼をパチパチしてゐた。成程考へてみれば、朔といふ字は、元来蕾暦
の磨から取つた字であるから、今の新暦しか知らない若い人には、平常慣れない怪異な文字であるかも知れな
い。そのくせ文部省の制限した漢字の中には、普通用語として入つて居るといふ講だから、そんなにむづかし
ヱヲ∫ 阿帝

い特殊語でもない筈である。
 先年、家族と川崎の大師へ参詣して、護摩を焚いてもらふ為に受付の偲に名を通じたところ、三人も汲んで
居る坊さんが、一人も朔の字を知らないのに驚いた。やつと端に居た中年の恰が、最後に僕の書いて見せた字
を硯て、初めて「アアさうか」と肯いた。そしてこんなことを言つた。此虞へ参詣に来て受付る人は、一年に
約七萬人位あるけれども、かういふ字のついた名前の人はその中やつと二人位しか居ませんと。して見れば僕
の名前は、よほど珍奇で顆例の砂ないものにちがひない。どうして平凡どころでないのである。
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 名は性を現はすかどうか知らないが、名が多少、人の運命を左右することは事資らしい。こんなことを言ふ
と、てきめんに迷信家扱ひをされ、讃者から笑はれるのは承知して居るが、僕は姓名判断といふやうなものも、
多少の根接があるやうに考へてる。茸例に照しても、僕の知人や親遽やで、名前を攣へてから運がょくなり、
急に病気が癒つたり、逆境から脱したりした人が砂なくない。それで僕も或る易者に観てもらつたら、朔太郎
といふ僕の名前は、運勢上からあまり良くないさうである。なぜかと言ふと、朔といふ字は暦数の初めであり、
萬象の生ずる紀元を表象するところの、陽気の最も盛隆な字象であるのに、太郎がまた長男であり、男子の始
原を意味する陽気の字だから、此虞に陽と陽とが二重にダプつて相殺し、大昔反つて凶に辟するといふことに
なるさうである。言はれて見れば、僕の過去の境遇なども、先づ外面的には申乳分のない幸運に恵まれてなが
ら、事箕上には一向に辛涌でなく、悲観厭世の暗い生活ばかりが連績したのだから、陽気反つて陰に辟したの
かも知れない。ついでに他の別な易者は、僕の手相を判断して、やはり同じやうなことを言つた。その易者の
言によると、僕の手相は極めて珍らしい手相であつて、何十萬に一人しか無いといふ、不出世の天下筋といふ
のがあるさうである。それがもし完全に通つてゐたら、天下無鸞の天才人や英雄人の相であり幸運雀〓の出世
人となるのださうだが、不幸にして僕の場合は、極く僅かばかりの所で、その筋が不完全に切れてるのださう
である。それで僕のやうな人間は、好運に恵まれて不運に終り、陽菊盛んにして陰に喪はれ、才能あつて無能
に終り、結局生涯得るところなく、橡々として不満の中に悶死するのだと言ふ。これも姓名判断と同じやうに、
甚だ菊に障る厭な易宏だが、今日迄の経歴を同厳してみて、未来を推考したところで、所詮かうしたコース以
外に、僕の運命の落着く所はないらしい。もう少し年が若かつたら、心気一縛、姓名判断の易者にたのんで名
でも欒へて見る所だが、今ではそんな客気もない。詩人の杢想する事礪なんてものは、どうせ現茸のせ界で資
現される筈もないし、僕も今では、たいてい世の中といふものが鮮つて来たので、まづまづ僕ヾらゐのところ
が、人間十人故の一生であり、苦楽の損得を差引きして、公平な運命の神様から、平均六〇パーセントを恵ま
れて居ると思ふので、格別不満とするところもない。
 運勢の話が出たから、ついでに気のついたことを言ふが、詩人や文士で、その作品と姓名から受ける聯想の
ちがふ人は、どうも文壇的に幸運を定まれないやうである。前にも言つた通り、作家の名前からその作品を表
象するのは、心理学上の官然な理由によるのであるが、中には異例的にさうでない場合もある。たとへばその
特異な詩風で、大正詩壇に異彩を放つた鬼才詩人の大手拓次君なども、あの妖気をおびた藍色の暮のやうな詩
想や、蛇の卵のやうにぬらぬらと連なつた特殊の詩語や、それから特に、十字架上のキリストのやうに、蒼白
で憂鬱の顔をした作者の風貌などを、その詩人としての姓名から表象することは、いかにしても僕には困難で
ある。大手拓次といふ名の字面から浮ぶ聯想は、何かしらがツちりした、骨組の太い、血色の好い、四角張つ
た人間のやうに思はれる。この同じ詩人は、初期には音川惣一郎といふ名で作品を儀表してゐた。これは全然
作り物のペンネームであつたが、字面から受ける印象が、ぴつたりとその詩風の特色と一致し、いかにもよく
2∫∫ 阿帯

「名は性を現はす」といふ感じがした0漁るに何を感じたのか、後年になつてそのペンネームを慶め、本名の
大手拓次で詩を書き出してから、作品と名前との聯想関係が、全くちぐはぐのものになつてしまつた。のみな
らず不思議なことは、それ以来急に詩情が枯燥して、熱のないマンネリズムに堕してしまつた。そんなことか
ら、この詩人の文壇的地位は甚だ不遇で、折角の稀有な鬼才さへも、殆んど詩壇的に認められないで死んでし
まつた。姓名判断の易者に言はせたら、此虞で必ず一理窟立てる所だらうが、とに角常識で考へても、作家の
名前と作風とが一致せず、表象上に食ひちがつた感じを輿へるやうなのは、その人の文壇的運勢上で何となく
不吉な悪運を感じさせる。
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