水戸小遊記



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 高等学校からの頼みで、室生犀星君と二人で、水戸へ講演旗行することになつた。元来僕は、講演が不得意
で嫌ひであるが、室生君と来ては掛的に大嫌ひで、講演ときいても怖気を震ふ位なのだが、何ういふ凰の吹き
廻しか、珍らしく承諾して、僕と行を共にすることになつた。
 上野を七時四十分磯の汽車でたち、約二時間牛にして水戸についた。常磐線の汽車には初めて乗つたが、沿
線の風景の蒲條として、沼澤の多く葦荻の茂つてるのが目についた。水戸辟には、既に顔馴染になつた高等学
校の生徒二三人と、町で自十字といふ喫茶店を経営してる人で、水高出身の八木岡といふ人が出迎へに来てゐ
た〇八木岡氏は室生君の熱心な愛讃者であり、文学的造詣の極めて深い人であることが後でわかつた。公園内
の放館で董食をとつてから、直ちに高等寧校へ行つたが、校長初め職員の人たちが、非常に感熱に應接された
ので快よかつた。校長は人品高く、篤資な老学者を思はせる風貌の持主で、應接特に丁寧懇切であつた。
 講演は一時から始まつたが、僕は前晩にひどく痔が痛んで、殆んど一睡もしなかつたため、疲労で畷が渇き、
饗が滑れて出ない上に、頭が困悠して甚だ不出来であつた。これに反して室生君は意外に上手なので吃驚した。
彼の講演嫌ひの原因が、多人数の前に出てあがつてしまふといふ、小心恐怖症にもとづくことを知つてる僕は、
内心はらはらして心配しながら、舞憂裏の部屋で聴いてゐたが、意外に態度の落着いてる上に、譜詮を弄して
癖者を笑はせたりする鰊裕のあるには全く一驚を喫してしまつた。室生といふ男は、何でも下手だと言つて厭
がサながら?耳際にやらせてみると意外にうまくやる男である。尤も彼のうまさは、器用入のうまさヤはなく、
天眞爛漫の素朴さが、却つてその巧まざる技巧となり、所謂無技巧の技巧となつて成功するのだ。かつてもコ
ロムビア合紅から頼まれて、自作詩の朗讃吹込みをした時にも、室生の朗讃のうまさに感心したが、それもや
はり無技巧の技巧であつた。講演後、八木同氏の案内で水戸市内を一覧したが、古い俸統のある城下町には似
もやらず、甚だ情趣のない殺風景の町である。一本筋の本通りだけで、裏術のない都合といふものは、すぺて
陰影のない乾いた感じがするものだが、水戸もまた例にもれない一本町で、夏にはさぞ街道が暑からうといふ
感じがした。城下町の癖に寺の紗ないことも不思議であつた。由緒ある寺の多いことは、町に幽遼の情趣と潤
ひをつけるものだが、水戸にそれが砂ないのは、町を一層自つぽく乾燥して見せる原因だつた。
 有名な僧楽園は、さすがに一覧の償値があつた。今では市民の遊園地になつてるらしく、梅時ではなかつた
けれども、かなりの人出で賑はつてゐた。八木同氏の説によれば、梅見時には難問を極め、東京あたりからの
遊覧客で、俗悪極まる絃歌の乱酔地と化するさうだ。さう聞いてしまつては、再び此虞へ梅見に来る気も起ら
ない。しかし千波湖は美しかつた。老松の翠色が鮮かで、眼もさめるばかりであつた。ただ庭園構成上に物足
らないと思つたのは、千波湖が築山と別々に離れて孤立し、統一された聯絡がないことであつた。もつとも最
初の設計者であつた水戸侯は、両者を包括的に統一したのであつたが、後に地質上の攣化によつて、今日のや
ぅなものに欒つたのだといふことである。とにかくその分離のために、公園全膿が甚だ小規模に感じられ、金
澤の乗六公園等に及ばないのを感じさせる。自縛庭園師である犀星君は、この理を詳しく説明して僕たちを納
得させた。
 水戸義公の畢枚であつたといふ、好文館へも行つて見た。廣い校堂の外に、義公等の私室が幾つかあるだけ
で、特に見るべきものは一つもなかつた。しかし昔この畢校で、水戸藩士の子弟が革んだ教育といふものが、
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どんな種類のものかといふことを考へたら面白かつた。
 関ケ原戦争や大坂陣の経験にょり、加藤、南島等、豊臣恩顧の武士でさへが、自家の領土安泰と個人的な私
情の為に、主家に背いて東軍についたことなどから、常時の武士気質をよく知恵した徳川家康は、幕府の御家
禽歳を計るために、武士に教育して儒教を教へ、大義名分の観念を明かにした。その朱子寧の教育とは、武士
は二君に仕へずとか、私事と公事を直別せょとか、仁義祀節を墨守せょとかいふことであり、要するに諸侯の
上の諸侯であり、君主の上の君主である徳川氏に封して、絶対忠節をちかつて服従せょといふことだろた。然
るに尊皇倒幕の基因となつた思想は、皮肉にもその幕府御用哲寧の朱子寧であり、儒教の教へた大義名分論で
あつた。つまり徳川幕府は、自分の虞方した解毒剤で、自ら自殺したやうなものであつた。
 水戸藩士の子弟たちが、義公の学校で習づたものが、特にかういふ朱子畢の辛辣な精神であつた。水戸は徳
川親藩の随一でありながら、光固以来宗家に楯突き、幕府に封して厭がらせばかりしてゐた。幕府がその順逆
を願倒する自衛のために、極力誹誘して好侯邪智の小人と乾した石田三成を、光囲は故意に顕揚して豊臣家の
忠臣と言ひ、あつばれの者と賞した。
 そして楠公の碑を湊川に建て、寓意ありげに大香して「鳴呼忠臣椅子之墓」と大書した。さらにまた幕末に
は、正面から徳川を攻撃し、尊皇倒幕運動の先駆となつた。つまり義公や烈公は、その天質的な香定精神と奴
逆精神を、儒教によつて哲学づけることに熱中したのだ。此虞に人々は、一種の儒教的なニヒリズムと、何か
の興味ある病理学を饅見するかも知れない。そしてまた賓際、水戸人士の地方的気風の中に、今日伶さうした
ものが残つてゐる如く思はれる。
 詩人山村暮鳥の未亡人と令嬢とが、水戸市に現任されてることを思ひ出し、室生君と共に訪問した。夫人等
の欝居は、裏通りの静かな小路にあつた。妹の方の令嬢は不在であつたが、学校に教職して居られる▲姉の方の
∫∫0
奇観と、その母上の夫人とが家に居られた。唐突のことなので、初めは僕等が記憶に浮ばず、少しまごついた
らしかつたが、解つてから昔のことを思ひ出し、たいへん懐かしげに悦んで居られた。良人を失つて自活する
ウォーレン夫人の家の小窓に、アネモネの花が吹いてるといふ、北原白秋の「桐の花」の歌を、そぞろに僕は
心に浮ぺてロ詞んだ。
 八木岡氏の案内で、ついでに大洗を見物して爽たb昔年少の時、海水洛で一度行つた記憶があるが、その古
い印象が依然として残つてゐた。放館も女中も昔の通りに、漁師町らしい粗野な情趣があつて懐かしかつた。
晩秋の日のうすら寒い海岸で、幾人かの男が砂を運んで働いてゐた。浪の砕け散る岩の上で、終日魚を釣つて
る老漁夫もゐた。すべては荒蓼とした眺めであつた。ふと室生君が馨をあげて、棋を馳けるやゝγに降りて行つ
た。そして漁師の釣つたばかりの、滋刺とした黒鯛を男つて爽た。その堕腕を菜にした董飯はうまかつた0
 暮鳥がその晩年をすごし、自らイソハマの詩人と栴した磯濱も見た。それは小さな侍しい漁村で、蕉村の句
「魚臭き村に出にけり夏木立」を思はせるやうな村であつた。湊といふ漁師町へも特に室生君の蜃議で行かう
としたが、途中銭橋が断絶して、自動車の通じないため、渡船を待たねばならなかつた。繊橋は洪水で落ちた
のださうだが、後に工兵陳が爆撃したとかで、あたかも馬眞で見る杢襲後の市街のごとく、惨憺たる廃墟の状
態を曝して、或る痛々しいものを感じさせた。それを見てゐる中、室生君が急に引き辟さうと言ひ出した。理
由をきいたら、渡船に乗るのが怖くなつたからだと言つたが、おそらく断橋の印象が、神経に不安をあたへた
為であらう。僕等ばかりでなく、一饅に文学者といふタイプの連中は、極端に神経過敏で、かうした強迫観念
が病的に強いやうに思はれる。
 辟途のプラットホームには、寧枚の生徒や八木岡氏の外に、三人の女性が見迭られた。新たに妹の人を加へ
た、暮鳥一家の人々であつた。
j〃 阿背

七月中0佐藤惣之助君と二人で、堀口大孝君の新家庭へ招待された。堀口君の新夫人は、下町育ちの純江戸
ツ子で、すばらしい三味線の名手だと言ふことを聞いてゐたが、この日も席に出て應接され、酒盃の斡旋をし
て下さつた0大分漕が廻つた頃、夫人は三味線を取り出して、僕等に粋な囁を聞かせてくれといふ証文だつた。
何虞で開き遽へたのか知らないが、堀口君まで一緒になつて僕等をすつかり通人扱ひにし、是非唄つてくれと
強ひるのである0佐藤君と暫らく膝を突き合つて碍躇したが、どうせ酵つた勢ひだ、やツつけろとばかり元気
を出して、小唄、都々逸、安来節、春雨、かつぼれ、二上り新内、槍さび、館山、ドヂヨーすくひと、片つぱ
しから絶ざらひに、僕の知つてる限りの唄をうたひまくつた。と言ふと凄さうだが、僕の唄たるや言語道断の
珍品で、畢生時代に怒鳴つた詩吟に新膿詩朗讃を捏ね合せ、文句を棒讃みにして吠え立てるのだから、粋もへ
ツたくれもあるものでなく、てんで三味線に乗りはしない。第一節廻しがないのだから、何を唄つたつて同じ
ことで、天人の見せてくれた端唄全集の稽古本を、片つぱしから朗讃してやつたものだ。佐藤君は佐藤君で、
苛浮だらうが清元だらうが、何でもかまはず義太夫の節にアレンヂして、自己流の一本調子に押し通さうとい
ふ、世にも大勝不敵の囲々しさ0これには天人もあツけにとられて、しばらく呆然として三味線を止め、駄つ
て下を向いてしまはれた0ハ下を向いたのは、笑ひを忍ぶための穐節である。)そこで僕等も少し惰れくさく、
頭を掻いてもぢもぢしてゐると、流石は堀口大挙君、そこは外交官のドラ息子だけあつて「でも文句だけ琴乙
汁′漁るのは感心だ。簡だつて満更デタラメでもなささうだ。」と、如才なくおだててくれたので、またもや調
子に乗つた我等両人。今度は佐藤君と二人で長唄の鶴亀を合唱するといふ次第になつた。何しろ詩吟と義太夫
の掛合で、柄にもない長唄を合唱をしようといふのだから、堀口君が喝宋して悦んだのも無理はない。ところ
が全く以て不思議なことには、夫人の弾いてくれる三味線が、此方の出放題に伴奏して、どうやら合つて行く
のである。自慢ぢやないが、僕はこれまでかつて一度も、僕の唄に三味線を合せてくれた女を知らない。拳者
なんかてんでソツポを向いて 「あなたの都々逸帝の柄だわ、節のないほど品が善い。」なんて皮肉なあてこす
りを唄ひやがる。もつとも此方の唄に節がないのだから、伴奏のしやうもないわけだが、それにつけて思ひ出
すのは、いつか昔青年禽館で、外園人の英詩朗吟を聞いたことだ○詩の朗吟のことだから、針とより一定の書
架的節廻しがあるわけではなく、朗讃者の気分と主観で、勝手に抑揚をつけて吟ずるのだが、伴奏のピアニス
トが、それにちやんと調子を合せて弾奏するので、大いに感嘆したことがある。堀口夫人の三味線の如き、正
におそらくこの顆の名手であつて、到底素人蜃には出来ない業だ。辟つて母に話したら、お前の唄に三味線を
合せるなんて、そりや鎗つぼど達者でなくつちやね、と言つて感嘆久しうした。