書と教育について



 モンテーニュの随想録の中に、彼の仕へた皇妃にあて、王子の教育法を説いた一節がある、その中で学問読書に関する彼の説は、今の学生や教育者にとつても、大いに参考になると思ふ。曰く、学問読書の目的は、単に知識を博くするといふだけではなく、況んや博覧強記の学を衒ふためではない。読書と教育の真目的は、有為な人物として世に立ち得るところの、良識と判断力とを養成するにあると。そしてこの立場から、彼は記憶本位式の読書法と教育法とを、極力排斥してゐる。一旦読んだ本は、その精髄のエスプリだけを頭に入れて、余事はむしろ忘却してしまふ方が好いとさへいつてゐる。
 このモンテーニュの忠告は、今の日本の教育者と学生との、両方に対して適切な警告をもつた言葉である。特に記憶至上主義的の詰込み教育を主眼にしてゐる学校人の先生方には、最も反省さるべき忠告である。今の学校で優等生といはれる生徒は、多くは単に記憶力の発達した、そして記憶力以外に何の優れた智能もない、凡くら人種にすぎないのである。元来記憶力といふものは、文化の進歩と逆比例して、野蛮人ほど優秀であり、文明人になるほど低下する。なぜなら文字や書物のない時代には、一切の知識を記憶にたよる外なかつたのに、文明の進歩につれて必要がなく、次第にその機能が退化してくるからである。今日の教育法が、ひとへに記憶力のみを強要し、それの機能の優劣によつて生徒を採点するのは、あたかも人間の価値を動物機能の優劣によつて定め、文明人の試験を野蛮人の方法でするやうなものである。学校時代の優等生といはれるものが、概ね社会に出て無能人と呼ばれるのも当然である。
 しかしこの忠告は、一方でまた、今日の読書人たる青年学生のためにも警告される。今の時代の青年学生、特に文学等に志をもつてるインテリ級の青年は、中々熱心に読書をする。彼等の中での優れたものは、まだ専門学校さへ卒業しない中に岩波文庫の大半を読破し、進んで政治、経済、法律、宗教、哲学の本さへ読み漁つてゐる。その知識慾の熱心さは、全く感嘆に耐へないものがある。しかし彼等の読書法は、自分の純な興味でするのでなく、何か他の実利処世の為にするのであつて、本質的に著しく功利的である。たとへば文学青年等は、それによつて資源を得、文壇進出の足場に役立てようとする。もちろん文学に志す人にとつて、偉大な作家等の書いた文学書をよむことが、根本に心の糧となることはいふまでもなく、その意味で、読書が必須の勉強であることは当然だが、今の文学青年のやうに、初めから文壇進出の実利意識で、片手に算盤を弾きながら読書するのはまちがつてゐる。真に小説をよむ人は、小説的興味のために読むべきであつて、何かの為に役立てようとするところの、実益的利用意識で読むべきではない。
 それ故に今の青年等は、文学書をよむ場合にも、手つ取り早く文壇のジャーナリズムや流行思潮に傾倒して、直接文壇出世に役立つ本ばかりを選択する。例へばマルクスが流行ればマルクスをよみ、トルストイが流行ればトルストイをよむ。そして小利口に要領をつかみ、書物から実利価値ばかりを取らうとする。だから結局、彼等は永久に真の 「文学的なるもの」を文学書から学び得ず、トルストイをよんで永久にトルストイの文学精神がわからないのだ。後に一生を通じて見れば、かうした読書法が全く無駄な浪費にすぎなかつたことを、彼等自ら気がつくであらう。
 他のもつと多くの一般青年は、一種の社交的虚栄心からして、インテリらしく振舞ふ見栄のために読書をする。かうした若い衆の連中は、流行後れの背広服を着て銀座通を歩くことを、何よりもインテリの恥辱と考へてるので、一にも二にも新思潮の走りを迫ひ、新しい西洋人の名や著書を覚えることに熱心である。彼等はラフェーロの名もミレーの名も知らない。それで居て超現実派の画家の名を知つてる。彼等はプラトンも読まずカントも知らない。それで居てマルクス学派の若い新人の名だけを知つてる。そして如何にも物知りらしく、知識人らしく振舞ふことに熱心である。
 かうしたぺダンチックな読書法が、いかに馬鹿馬鹿しく無益なものであるか、はいふまでもない。しかも今の青年学生間には、この種の馬鹿馬鹿しい読書人が、実に意外に多いのである。そして思ふにこの事情は、日本人の病所である、「実利主義」と「見栄柴坊」の気質にもとづくのであらう。或る外人記者の評したやうに、日本人は感激性の強いセンチメンタルな国民であつて、同時にまた極めて功利的実益主義の国民である。これは儒教の実学(利用厚民の思想)からも影響され、大和民族の現実的楽天思想からも本質してゐるだらうが、一つにはまた、明治以来の新政府が、外国の脅威に対抗する自衛上の火急策から、いはゆる「富国強兵」や「立身出世」の実利主義一点張りで、国民教育の方針を指導して来たことにも原因する。しかも今日の問題としては、青年の前途を暗くする生活難が加はつてるので、読書人の意向でさへが、益々実利的な即効主義になつてるのである。
 モンテーニュはまた、人格教育の最も重要な一事として、真理に対する理性のモラルを強く説いてる。いやしくも大丈夫たるべきものは、すべての真なること、義なること、正しいことの前には、無条件に膝を屈して拝跪することの、公明正大な良心を教へられねばならない。たとひ仇敵と雖も、もしその説が正しいと知つたならば、一切の情実を排してこれに味方し、自らあへて降伏することさへも、義のために屑よしとするところの、真の理性人のヒユーマニチイと正義心とを、早く少年の時から教育されねばならないといつてる。
 かうした西洋人の教育観は、いはゆる「義理人情」を尊ぶ日本人の観点から見て、何かしら非人情的冷酷のやうに思はれる。ローマの共和政体を救ふために、親友のシーザアを刺したブルタスは、羅馬の歴史家によつて一人の義人と目されてゐるが、日本人の道徳観では、おそらくあまり好感を持たれないであらう。ジャン・ジャック・ルツソオの著書に対して、あらゆる誹謗と侮辱の悪評を書き、その正面の敵となつたヴオルテルが、民約論に対する政府の弾圧について義憤を発し、断然立つてルツソオのために弁護したことは、西洋文学史上に於ける一つの美事として伝へられてゐるが、日本にかうしたことが起つた時、人々はむしろそれを不審し、ヴオルテルの心理を妥協的卑怯のやうにさへ思ふかも知れない。事の是非善悪にかかはらず、自己を信ずるものの為に殉ずるといふのが、日本人の美事とする道徳である。そしてこの道義観は、モンテーニュが説く西洋の道義観と、余りに著しく本質がちがつてゐる。「大義親を滅す」は、西洋人の正義であり、「情義正邪を顧みず」は、古来日本人に悦ばれた美事であつた。そしてこの極端な例は、いはゆる侠客仁義の徒であつた。彼等はその乾分や親分の為には、事の理非善悪を問はず味方した。
 かうした日本人の性癖を利用して、政治的に旨く成功したのは徳川家康であつた。即ち彼は、恩賞と情誼とによつて、加藤清正や福島正則や、それから尚片桐且元さへも手なづけた。そしてこの義理人情から巧みにこれ等の諸将を牽制して、旧主の豊臣家を裏切らせた。しかし天下を取つた後では、家康自身がその同じ手で臣下に裏切られることを心配した。そこで儒教の朱子学を国教とし、いはゆる「大義名分」を天下に説教したのであつた。
 たしかに義理人情の世界は、日本人の人間的な美しい特色を示すモラルかも知れない。だが一方からいへば、それは日本人に抽象的な思想性がなく、したがつて真理や正義やへの、真の理性的な判断力が欠如してゐることを示すのである。今日我々の時代は、もはや国定忠治的没理性な殉情主義の時代ではない。今日の日本人は何よりも理性人としての正しい生活、理性人としての真のヒユーマニチイを要求してゐる。我々の時代の新教育はモンテーニュを学ばねばならない。