趣味と文学

趣味と文学
 かつて自然主義の文壇は、趣味を極端に排斥した。「趣味で書くな」「趣味で書く文学は遊戯である」等告口
実が、昔時の文壇では刑法的禁令の権威で言はれた○センチメントや感情を排斥し、理性の資讃主義的レアル
を尊んだのは、浪漫主義に封する反動として、自然主義の一般的普遍命題であつたけれども、特に趣味を排斥
J〃 廊下と室房

したのは日本自然主義の特色であつて、外国では風聞することの出来ない指令であつた。
所で「趣味」は文筆の芸な要素であり、多くの誓にその肉質とも成るのである○毒、特に抒情詩から
趣味を除外してしまつたら、・後に残るものは肉質のない干からびた種子の殻にすぎないだらう。例へば芭蕉の
俳句から、その幻住庵の風流閑寂趣味を除いて、後に何が残るかを考へてみょ○ボードレエルからデカダンの
悪趣味や、俳蘭苧九世紀末の官能的ダンヂイズムの趣味を除いて、そもそもどんなポエジイが残るであら
う0今日現代の日本詩壇で、初期「思ひ出」時代の北原白秋氏からそのエキゾチックの異国趣味を、日夏秋之
介君からその欧洲中世紀の魔敦覧を、室生犀星君からその枯淡的風雅趣味を、佐藤惣之助君からその火星飛
行的漫遊趣味を、西脇順三郎氏からその地中海的ギリシャ趣味を除去した時、後にそもそもどんな文学の毒
が残留するか0趣味を除いた詩の毒は、肉誓無くした骸骨みたいなものである0自然主義の掲げたテーゼ
Jア古
は、明らかに「詩」を文学の異端として排斥非難したのであつた。
思ふに自然主義文壇の掲げたかうしたイズムは、日本俸統の封建的儒教道徳を、
移入したものであつた0人も知る通り儒教主義の人生観では、蓼術を始めとして、
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ところのものを、一切みな罪悪化して情意し、趣味一般に封して「道楽」といふ卑↑の悪名をあたへて居る。
所で自然主儀の文学は、何よりも「厳粛の人生」といふことをモットオにした0そして「道楽」は厳粛の人生
に所属しない0故に是語の古い観念で、道楽とシノニムであるところの趣味は、纂その「眞面目な毒」
から績斥されねばならなかつたのである0昔時彼等の芽封象であつた或る外因至が、貨生活では女を連れ
てキャバレーに出入してゐる藁家であるといふ風評を俸聞し、表日本でその作家の人雲すつかり下火に
なつたことさへある0こんな浮薄な藁生活をしてゐる文士が、彼等の所謂「厳粛なる人生」を書くなどは、
インチキ山師にすざないと首時の許家は論じたのである。
自家の文学的モラルに錯覚
すぺて生をエンジョイする
 か、議uた昔時の文壇思想は、丁度あの帝国ホテル舞踏禽に、日本刀を抜いて勇敢に躍り込み、この非常時虞
滴の時に何事の狂態ぞと怒親した、国粋合壮士諸君の意気と同じく、正しく封建的儒教主義のモラルを邁俸し
たものであつた。享楽が罪悪であるといふことは、如何にしても外国人には理解出来ない不思議な思想に廃し
てゐるが、同時に日本の特殊な自然主義文学と構するものも、おそらく外国人には理解以上のものであらう○
それ故に昔時の自然主義文学と稀したのは、本質的に外国のそれと全く文孝の質を異にし、日常茶飯の身連記
事を俳譜的馬生文で書いたところの、日本俸統の封建的文学の一系統にしか過ぎなかつたのである0あの古い
錦檜に描かれた明治初年の文明開化風景が、今日の傾から見て一のワンダフルのユーモアである如く、過去の
日本で自然主義文学と構したものも、今から見て確かにワンダフルのユーモアであつた0
飴事はとにかくとして、自然主義が趣味を排斥したことは、常時の文壇常識の未開的稚態を語る一澄左であ
った。趣味は排斥すべきものでなく、文学に於て大いに滴養さるべき要素であり、特に詩に於ては、ポエジイ
の肉質を構成すべき重大な美的教養に属して居る。なぜなら詩に於ける蜃術的香気、風情、気品等のものは、
主として教養の高い趣味によつてのみ構成されるからである0しかしながら眞の詩や文学やは、決して畢なる
趣味性によつてのみ創作されない。また決して創作されてはならないのである0虞の本質的な文学に於ては、
趣味は必ず作家のモラルや哲学の中に融合して居り、畢なる文畢的装具意匠として遊離してない0即ち、例へ
ば芭蕉に於ける閑寂趣味、ボードレエルに於ける異端趣味等の如く、それ自身が作家のモラルや哲学となつて
居るのである。趣味もまた熱情をもつとニイチェが言つてるが、熱情を持たない趣味は遊戯であつて、正しい
文季の範疇にはいらない。文学の必然的なエスプリを所有しないで、単なる趣味性の馬の趣味でのみ創作する
ところの人々を、普通に僕等はヂレツタントと呼ぶのである○ヂレツタンチズムもまた、時に文学の一様式で
ぁるにちがひない。しかしながら軽い浮薄な文学であり、第一義的な重要性をもつ文学ではない0
J7ア 廊下と室房

▲ヂレツタントの代表的人物は、銀座通りを散歩してゐる、時代相のモダン流行男女である。彼等は流行の美
を迫ふに敏感であり、趣味の新奇を求めることに熱心である。たしかに彼等は、美忙封する特殊な感受性を所
有してゐる。だが彼等の身上はそれだけであり、精神は杢洞のやうに峯つぽである。そこで彼等のなし得るこ
とは、単に流行を迫ひ、趣味の新しさを誇るといふ事の外に何物もない。原則として、ヂレツタントは「創
造」の能力を持たないのである。彼等は畢に流行の模倣をする。しかも自分の猫創で流行を態見し、美を創造
することを知らないのである。いやしくも自分で美を創造し、新しい流行を作るところの人々は、本質的にヂ
レツタントに属して居ない。即ち彼等は眞の蜃術家なのである。
 以上の比喩を、僕は現詩壇に封して言つてるのである。如何に今日の詩壇に於て、浮薄な流行を迫ふヂレツ
タント詩人が多いことか。彼等が西洋の流行詩を畢ぶのはよい。またその新しいモダン趣味を学ぶのも大いに
よい。だが彼等が学ぶところは、概ねその趣味性の浮薄な外装にすぎないのである。詩の本質すべき第一義的
な精神やセンチメントを所有しないで、好奇的に趣味の香気のみを愛するのは、ヂレツタンチズムへの厭はし
い堕落である。趣味の教養がないものは詩人でない。だが詩的精神を持たないものは、一層以て本質的に詩人
でない。ヂレツタンチズムヘの詩壇的低落は、断じて悦ばしい現象ではないのである。
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「趣味」といふ語の定義は、実に封する個人の好意、もしくはその教養を意味するのである。故に「趣味」と「娯楽」と
は意味がちがふ。例へば生筏、茶湯、音楽、音量、舞踊、演劇等に関する興味は、美を対象とする故に趣味であるが、食
物、女色、スポーツ、将棋、釣魚等に関するものは、すぺて娯楽であつて趣味の範疇に廃しない。但し廣義に言へば、趣
味が娯楽の一種に属するといふ場合もあり得るだらう。
一袖濱潮周