書物の装幀について


 書物の装鳩といふものは、檜に於ける額プチみたいなものである。それ自身が濁立した存在ではなく、他に
ょって附属するところの美術なのである。も少し詳しく言へば、額プチによつて檜が選定されるのでなく、檜
によつて額プチが選定されるのである。
 この一事は、装嶋に於ける根本の常識である。どんな立汲な蜃術的の装鳩でも、書物の内容と調和しないも
のは仕方がない。キューピズムや超現賓汲の檜に、ロココ式の金色燦然たる額プチをつける人があるとすれば、
それは美術の常識を軟いてるのである。この場合に額プチ自身が、畢濁の美術として如何に高償なものであら
ぅとも、尚且つそれは蜃術上での意趣味である。「書き装鳩」とは、畢濁の意味に於て「美しい装帳」と言ふ
ことではない。書物の内容する思想、精神、気分、情調、イメーヂ、エスプリ、モメント等の者を的確に全濃
から把握して、美術的に構成された装嶋、即ち言へば「内容の映像」であるところの装帽。それのみが常に書
き装幌なのである。
 それ故に書き装岨は、理想として著者自身の手にさるべきである。第二段の場合に於てさへも、著者を最も
ょく理解してゐる人の手にさるべきである。最悪の場合は、著者に封して全然賓術的の理解を軟いた一般の出
版業者等により、心なく装暢され七書物である。そしてこれが、出版物の殆んど九〇パーセントを占めてるの
である。
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童家に装幌を任せるといふことは、多くの場合に於て失敗である。特に名聾ある大家に托したもの程なほ悪
い0なぜなら董家たちは、自己に装暢を托された他人の書物を、自分の創作のカンバスとして、勝手に主観的
の檜を措いてしまふからである0或る一流の小説家の書いた本を、或る一流の董家が装幌した。本屋はこれを
自慢にし、庚台に特記して世に誇つた○だがその内容と装帽とは、全然互に関係なく、二人の別の蜃術家が、
各自に別々の表現をしてゐるのであつた。こんな装岨は最下等である。
概して言へば、本の表紙はあツさやしたほど善いのである0本の表紙を蓋布代りにして、董家が得意の彩筆
を振つたやうなものは、原則としてみな装鳩上の邪道である。最も洗煉された無難の趣味は、草色無地の紙表
紙に、質素なクロース背皮位をつけ、表題以外に一切文字を書かないのである。丸善などで見る舶来の外国洋
書は、殆んど皆この種の垢ぬけた趣味で装岨されてる○ただジャーナリズムによる大衆向の通俗雑誌(映董月
報の顆)だけが、店頭販費の必要から刺戟的の色彩意匠を用ゐて居る。少しく高級な文学書や畢術書で、かう
したポスタア的表装をしたものは外因にない0それは眞面目な文学書として、あまりに俗悪でもあり低級でも
ある。
 しかし悲しいかな、日本ではかうした装傾が模倣されない。原則として、趣味は高尚になるほど平凡で目立
たなくなり、影の細かい所に凝つた苦心を要するのである〇一見平凡で何の奇もないやうに見える外国の文学
書掛は」その賓、表紙の紙質、色合、釘装、製本等の各細部に亙つて、あらゆる微妙な注意が入念に行き届い
てゐるのである0そしてこの装帽一般に関する美的洗煉は、過去敷世紀に亙つて歴史的に餞達した彼等の印刷
術や製本術や、それからなほ俸統的に薫育された趣味の綜合によつて構成されてる。然るに日本は、書物の装
帳に鋼しでごく浸い歴史しか持つて居ない○印刷術も製本術も、西洋に比して未だ極めて幼稚であり、第〜に
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、般の袈鴫的昇的趣味が教達して居ない。早い讃が、外圃では表紙に俊ふ紙の見本が、黄色の一色だけで二宙
種もあるといふことだが、日本では僅か三種類位しかない。それも情趣のない、非蓼衝的な俗意の色ばかりで
ある。舶来の書物に見るやうな、奥行きの深い、滋味のある色の選揮は、到底日本に於ては不可能である。ま
た憤りにそれが出来ても、肝心の製本術が幼稚のために、ダラシのない非美術的の本が出来てしまふ0
 要するに文化の根砥は俸統である。過去に俸統のない日本が、外囲の洗煉された第一流の趣味を模したとこ
ろで、それは田舎娘が都合の下町娘を眞似る如く、不可能以上に滑稽である。眞の都合に育つた都合の娘は、
ぁらゆる趣味を卒業して最後の垢ぬけた漉い風をしてゐる。人目につくやうな風俗をして、銀座を練り歩くモ
ダンガールの顆は、眞の都合育ちの女でなく、たいていみな田舎から来た移住民の娘たちである。だが彼等と
錐も、田舎から衆てそこまで都合化するのは容易でなく、やはり相官の時日を要してゐるのである0
 所で文化的に世界の田舎者である日本は、今日の場合、都合の生粋な下町娘を眞似るよりは、さしづめ銀座
街頭のモダンガールを畢ぶ方が順序である。すくなくともその方が畢び易く、趣味の上での失敗がすくないだ
らう。今日の日本の書物が、一様に皆ケバケバしい表紙を用ゐ、モダンガール的趣味の装嶋をする理由が、賓
にこの文化的必然の事情にある。
「装嶋」といふ要素の中には、表紙意匠、活字粗方、内容紙質、製本技術等の者が包まれてゐる0換言すれば
これら種々の要素からして、始めて「装嶋」が構成されるのである。所でこれら諸要素の中、表紙、組方、紙
質などは、装幌者の主観的な好みによつて多少蛮衝的に意匠されるが、最後の製本だけは、純粋に磯城的の職
工技術に属して居る。そして日本の本の装嶋は、この機械技術がいちばん外図に劣るのである。製本の粗悪な
本は、着付の下手な盛装をした花嫁みたいで、如何に美しい衣裳をつけても、大饅にダラシのない不愉快の感
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じをあたへる0同じ釘トヂの安償本でも、彿蘭西あたりのは賓によくキリッとしまつて菊持ちが好いが、日本
の本は何虞かボテボテとしてダラシがなく、すぐにも一枚くらゐ落ちて来るやうな感じがする。かうした製本
技術は、却つて不思議に明治初年の方がまさつて居た0西洋人の技師を鹿沼して、すべてを外国直俸にした為
であらう0尤も製本ばかりでなく、建築でも銭橋でも、すぺて明治初年常時の物は、外国人の技師から直俸に
指導され、本国通りの方式で入念に造られた魚、却つて今日の物より堅牢であり、その上に純西洋風でもあつ
た。
近頃のポイント活字といふ奴は、線の太さが同一で字形が由角ばつて居る為に、磯城的のコミコ、、、した感じ
がして、少しも季術的のふつくりした情趣がない○今のやうな機械的賓務主義の世の中に、ポイント活字が現
れるのは官然の現象だが、せめて文寧書顆だけは、昔の風雅な明朝活字を使用したい。特に就中、詩集の顆は
尚更である○ポイント活字の9競なんかで組んだ詩集は、印刷の1から既に散文的メカ11クの感じがするの
で、詩集の装暢として始めから落第である0この頃嘗活字の明朝五兢が、次第に印刷所に無くなつて来るのは
心細い○文畢書顆の専用として、あれは是非保存すぺきものだ。
 日本の本にはょく外箱をつけるが、あれは外国にないことである0丸善あたりの書架を見たつて、箱に入つ
てる本なんか滅多にない○ただ壷と↑巻と二部で毒になつてる本だけ、分散を防ぐために箱に入れてある。
つまり洋書に於ける箱の目的は、和書に於ける快のやうなものである0畢濁の議本で箱をつけるなんていふ
のは、稀れに濁逸本に見る位で、世界に珍しい日本の特貌現象である○この不思議を或る出版業者に質問して、
始めて僕はその特殊の理由を了鮮した0即ち日本の本は製本が粗雑のために、饅迭の途中で壊れることが多く、
それの濠防上箱を必要とするのださうである0伶他の一つの理由は、箱入の書物は何となく高慣らしく見える
ので、嫉夢上に利益が上るといふのである○前の理由は、日本の製本術の幼稚を語り、後の理由は、日本の讃
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Z澗頂_、
者の趣味的低級さを語つて居る。ヤボくさい箱入の本を悦ぶほどの讃者だから、あくどい檜入り表紙の装傾を
悦ぶのである。讃者も出版者も、すべてに於て日本の装暢文化はまだ幼稚であり、田舎者のヤボ好みを脱して
居ない。
 最後に宿望してゐることは、装嶋専門の董家が出てもらひたいことである。前に言ふ通り、普通の蓑家に装
鳩を托する場合は、概してみな内容と調和しないで失敗である。といつて著者自身が自ら装嶋するといふこと
は、色々な鮎で困難が多く閉口する。書物の装帳といふことは、純粋な牽術的頭脳以外に、活字、組方、印刷、
製本、切断、紙質の選定等、多くの特殊な機械的、工場技術的の知識を必要とする。表紙の図案ばかりうまく
出来ても、内容活字の組方や、製本の鰹裁などが悪ければ仕方がない。
 何よりも困るのは、著者が自身で意匠して、折角装嶋のプランが出来ても、上述のやうな工場技術的の知識
がない為、それの現質的製本が不可能だつたk或は経費の鮎で無謀だつたり、出来上つた賓の結果が、全く
漁期に反したりすることである。多くの著者は、始め頭脳の中で立汲な奉術的装嶋を意匠しながら、思ひもか
けぬ出来上りを見て幾度か幻滅してゐる。
 表紙の意匠についても、著者は色々なことを計量してゐる。例へば中央に船の圃を入れ、周囲に唐草模様の
線や輪廓を付け、一つめまとまつた表紙圃案を考へて居る。だが檜心のない著者には、舶の囲は勿論のこと、
一つの線や輪廓さへも重き得ない。かうした場合、もし専門的な装鳩技術家が来て、直ちに註文に應じて措い
てくれたら、著者にとつてこれほど便宜に満足のことは無いであらう。或はまた鳥の子紙の三番漉で、薄青味
色の無地表紙を使用したいと思ふ時、直ちにその著者の意志を汲んで、紙屋から廣く物色してくれたり、或は
新しく製紙を証文してくれたりする人があるとすれば、世にこれほど装嶋上の便宜は無からう。
 家を建てようとする人は、自己で先づ種々のプランを考察する。だが建築寧の知識がなく、大工の特殊的な
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技術を知らず、その上設計経費の寮費と算術が解らない素人には、少しく大がかりの凝づた家など、
で設計できないので、此虞に始めて「技師」といふ者が必要になる○技師は依頼者のプランを聞き、
経費の許す雷で、証文通りの家を建築してくれる0もしまた依頼者の証文が、建築寧上に不安であり、結果
が面白くなかつたり、無謀の思ひ付であつたりする誓は、汲めその理を説いて別のプランを再考させてくれ
る0
僕等が要求してゐるものは、書物の装嶋者としての「技師」なのである0著者もしくは出版者のプランを開
いて、彼等が頭脳の中で漠然と意匠↓てゐるものを、量的の雷に現はし、装嶋に設計してくれる人が欲し
いのである0今是合には色々の攣つた職業があるけれども、かうした特殊の専門家が居ないことを、自分は
長く不恩義に考へてる0尤も今日でも、所謂「装暢養家」と稗する人々は居る。だがこれらの人々は、自己の
一定した董風とシステムを有して居て、言種の異なる本を、一様にみな類似の装岨で片付けてしまふ。所謂
装岨董家に依頼するのは、普通の董家に依頼するのと少しも撃つたところはない0ただ後者の董風が、定規と
コムパスを使つた圃案董風に近いことで、多少の特色があるにすぎない。
僕等の探してゐるのは、かうした「拳術的な、あまりに拳術的な」装望家の警はなく、依誓の証文に
順應し、且つ著書の内容をよく理解して、巧みにそのモチーフを雷や活字に構成してくれる「技術家」であ
る0今日多くの出版業者は、孝術書も、文奉書も、宗教書も、また甲の人の著書も、乙の人の著書も、すぺて
皆その書房特有のカテゴリイによつて、諒無神経に装鳩して居るけれども、これは著者に封して祀節のある
方法ではない0もし今彗たやうな、眞の技術家としての装嶋童家が現はれたら、出版業者の方でも彼等を雇
傭し、犬芸書物の内容に應じて、夫々のふさはしき装岨を試みるやうになるであらう。もちろん今日でも、
教科薯や算讐や、表通俗の家庭娯楽嘉などの装岨は、主としてこの種の技術的陶実家に依頼して居るの
到底自力
その換算
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であらうが、これらの本の装嶋は、単に輪廓の線を引くとか・斗色彩を塗るとか言ふだけの硬械的囲実にすぎな
い。自分の要求してゐるものは、かうした機械的技術の上に、充分襲術を理併し得るところの、眞の装帖的頭
脳をもつた人なのである。