ゴム長靴


 ゴム長靴といふものは、何といふ憂鬱のものだらう0雨の降つてる日に、ゴム長靴をはいて郊外の泥浮を歩
いて居る人たちは、それの背後にみじめな生活の影を曳きずづて居る○
 私が初めて、東京の大井町へ移住して来た時、ひどい貧乏を経験した0田舎の父から、月々六十囲宛もらふ
外、私自身に職業がなく、他に一鏡の収入もなかつた0その頃は物償の高い頂鮎なので、六十薗が今の二十固
位にしか使へなかつた。それで妻と私と、子供二人が生活するのは容易でなかつた0私は費れない原稿を手に
抱へて、毎日省線電車に乗り、××社や××社を訪ね歩いた0田舎に居る時から、ひそかに準備しておいた原
稿−それを費つて月々の生活費にしようとした は、行李の中でカビが生え、不遇の運命を悲しんで居た0
大井町織物工場の煙突からは、いつも煤煙が囁き出して居た0辟には工夫のシャベルが光り、構内の職工長
屋では、青桐のある井戸の側で、おかみさん達がしやべつて居た0私の子供たちは子供たちで、毎日熱病のや
うに泣き叫んで居た。
「やかましいツ。歎らないか。」
と、私の妻は妻でわめaながら、餓鬼どもの尻をひつぱたいて居た0家の壁は隙間だらけで、攣音家内中
の者が風邪をひいて居た。
伊藤博文の墓地のほとりは、陰鬱な暗い日影になつて居て、幾日も幾日も、雪解けの道が乾かなかつた0私
2〃 廊下と室房

は十銀銀貨を握つて、毎日ネギと豚肉を買ひに出かけた0何といふ道路だらう。それは道路といふょりも、む
しろ沼に近いほどの泥浮だつた0歩く毎に、足駄が沼の底まで沈捜して、再度琴き出すことができなかつた。
仕方がなく、いつもしまひには裸足になり、鼻緒の切れた泥↑駄を片手にさげて、片手にネギの包みを抱へて
締るのだつた。
「ああ長靴がほしい!」
と、私は毎日口癖になり、歌のやうに節をつけて嘆息した0その毒安いゴム長靴が、その頃の物償で有面
もした。
「家へ言つてやつて、金を迭らせたら好いでせう。」
と妻が言つた0だが無心の度毎に、漉面つくつた父の暗い手紙を見ることは、とても私に耐へられなかつた。
私はつくづく自分の無能に腹が立つた○そして薯れない原稿を抱へながら、牛込××杜の門を出て紳楽坂々排
佃しながら、
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 我れの持たざるものは一切なり
 いかんぞ窮乏を忍ばざらんや。

といふ激越の調子の詩を書いたりした0家の中は荒みきつで居た○星の上には琴がたまり、座敷中いちめん
に子供のおしめが取り乱れて居た○朝から晩まで、妻は大饗でわめき立て、子供は泣き叫び、蔓所では鍋や皿
がガヲガラと鳴り響いて居た0それは丁度「アリスの不思議園廻り」に出る、あの豚の子の泣き騒ぐ、騒々し
い伯昏天人の家庭にそつくりだつた。
 それでもたうとう、やつとゴム長靴を貝ふ金が出来た。雑誌「日本詩人」に詩を持つて行づたら、編蹄者の
編由正夫君が居て、即座に金十薗也を渡してくれた。辟途の電車の中で、私はゴム長靴の幻影ばかりを考へて
居た。それを男つて来た夜は、子供のやうに嬉しく、枕許に置いて眠つた。あのピカピカ光つたゴム長靴が、
私にとつては人生の光明のやうに思はれた。これさへあれば、もう恐ろしいものは一つもないのだ。明日から
は泥浮を克服し、大威張でネギと牛肉が買ひに行ける。
 時がたつた。そして私たちの一家は、大井町を越して田端へ移り、田端から鎌倉の材木座へ行き、最後に大
森の馬込へ移つた。馬込の道路もまた、大井町と同じやうに泥浮して居た。けれども私たちの生活は、前のや
ぅに陰惨ではなく、ずつと朗らかに明るくなつて居た。一つは私の収入が出来たのと、一つは父からの迭金が、
或る別の事情によつて、多少増えたからであつた。子供は前のやうに泣かなくなつた。そして妻は、若い男と
ダンスホールへ行つたりした。妻は「長屋のかみさん」から、一足とびに断髪のモダンマダムに進歩した。そ
してたうとう、彼女の自由を求めるために、若い男と手をたづさへ、私と離別して家を出て行つた。
 妻と別れた後で、私は田舎へ引退する為、すべてのガラクタ家具を費り沸つた。過去の生活に対して、私は
もはや何の思ひ出も残つて居なかつた。あの鍋釜の鳴り響く、恐ろしい嵐のやうな「伯帝夫人の家庭生活」は、
私の経験にとつて充分すぎた。私はもつと静かな家に、一人で住み、休息することばかりを願つて居た0
費り沸つた道具の中に、準まみれの古いゴム長靴がころがつて居た0時には妻がそれを履き、子供を牛てん
 お ん ぶ
で背負しながら、泥浮の町へ味噌を買ひに行つたりした。だがそんな追憶さへも、今となつてはどうでも好い
のだ。私の忘れがたく記憶するのは、すべてのゴム長靴によつて表象されるところの、憂鬱で悩みの多い「永
遠の人生」である。そして屑屋は、その人生の償僧を五銀につけ、紙屑と一滴に男つて行つた。
2∫j 廊下と室房

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