超文壇の弁

雑誌文学と単行本文学
超文壇の締
文学者の中には二通りある0文壇に所廃してゐるところの文士と、文壇以外に超越してゐるところの文士で
ある0前者に属するものは所謂拳術小説家(これは文壇的小説家と同意義である)や、月評的な文壇批評家の
顆であり、後者に属するものは、詩人、歌人、俳人、及び所謂大衆作家の顆である。
ところでこの席者は、その讃者の種類を判然と別にしてゐる0前者、即ち文壇的文学の讃者は、主として彼
自身が文筆に志し、且つ文壇に野心を持つてるところの青年であり、言はば「文学青年」とも呼ぶぺき一群の
者である。
 これに反して後者、即ち詩歌や大衆小説の讃者は、文壇的な意識とは漫交渉に、壷に自己の興味や趣味を満
たすために、純粋還孝を楽しむところの人々である○つまり前者の讃者は文学を「勉強する」ために讃むの
であり、後者は文撃を「楽しむしために讃むのである。
 そこで今日の文学雑誌と稀するものは、多くみな前者の文寧青年を讃者の対象として編輯されてる。そこで
記事の大部分は、文壇の特殊な楽屋内に話題されてる、時局的なセンセイションを指嫉する記事、例へば行動
主義がどうとか、轄向作家がどうなつたとか、或は芥川賞がどうしたとか、室生犀星の近作がどうしたとか言
ふ問題である。この種の記事は、彼自身が文壇人たらんとし、文壇的に神経質になつてるところの、特殊な狭
い文壇的楽屋人種に悦ばれる。                          し、
 だが大多数の一般人には、井戸端合議の話題と同じく、普遍性のない内幕謡で、一向に何の興味もなく関心
もない。大衆の求めてるのは、いつでも普遍的一般的に、あらゆる種類の階級を通じて、人間の音有本性に解
れて来るところの、ただ一つの畢純な文学しかない。
 それ故に文筆雑誌といふものは、いつも限つた少数の讃者にのみ讃まれる0文壇意識を持たないところの一
般人、純粋に文畢そのものを柴し享フとする世間人の大多数は、決して所謂文寧雑誌を讃まないのである0何
を讃むかと言へば、彼等の中の低級な非インテリ階級者(それが大衆の大部分であるが)は、講談雑誌やキン
グの顆を讃み、他のより高級な知識人種は、主として畢行本となつてる文学書を讃むのである0

 そこで文畢雑誌の讃者と、畢行本の讃者とは、おのづからまた別の種顆に属して居る○前者の讃者は後者を
讃まず、後者の讃者は前者を讃主ない。文壇において、畢行本が少しも批評されず、文壇的反響の外に置かれ
るのはこのためである。畢行本の作家、即ち超文壇的地位に居る文士たちは、この鮎でいつも甚だ孤濁に寂蓼
である。
 しかし彼等はまた、文壇的文士に此して、造かに大多数の讃者を持つてる0比較的その少数者に属する高級
∫夕j 廊下と室房

インテリの著者であつても、前者に比して逢かに多くの薯を持つてる0例へば非文壇的小説家の倉田百三や
有島武郎、先年物故した思想家の土田香村氏、及び詩人の北原白秋氏や堀口大学氏など、純に貰本の印税ば
かりで生活してゐるほどである○文壇的文士の方では一二の例外を除く外、到底そんな多数の雲を持ち得な
 ヽ O
t私自身のことをいへば、私もまた全く文壇の圏外に生活し、至倶楽部の楽屋について、少しも内情を知ら
ないところの、超文壇的文士として存在して衆た0もつともこれは私ばかりの話でなく、今日是で詩人とか
∫タ4
晶常に詩を作り、多くの文筆論やエッセイの誓書き績けたが、文壇的には殆んど全く反響がなく∴
■【一】■   ノ
歌人とか呼ばれるものは、すぺて皆文壇的寛人として扱はれて居る○私は過去二十筆もの間、
拙いながら
なく、いつ
も批判の外に獣殺されて来た。
それは私の書くものが、文壇時事問題のジャーナ〜や楽屋話と関係がなく、
の、毒の本質的なことばかりであつたからだ0それは雑誌的にセンセイショ
ナル
悦ばれないやうなものであつた。
しかしながら私の讃者は、文壇意識の世外に住んでる、表世間のインテリ階級の中にあつた。撃師、軍人、
望士、商人、藁家、これらの世間の知識的大衆が、意外にも私の論文やエッセイの誓であり、私のょく
賛れる畢行本の掌であつた○文壇から遠く、反響のない貰に住んでることを、今の私はあへて寂しいとも
思つて居ない。
題珊淵絹畑渦¶喜召絹頂り頂欄憎絹絹欄硝瀾瀾濁