青猫を書いた頃


青猫の初版が出たのは、今から十三年前、即ち完二三年であるが、中の詩は、その以前から、数年間に書
き貯めたものであるから、つまり垂七年頃から完二三年へかけ毒いたもので、今から約十七年婁の
作になるわけである○十年蚕といふが、十七年も昔のことは、蒼茫として夢の如く、概ね記憶の彼岸に薄ら
いで居る。
しか音響書いた頃は、私の生活のいちばん陰鬱な梅雨時だつた0その頃私は、全く「生きる」といふこ
との欲情を無くしてしまつた0と言つて自殺を決行するほどの、烈しい霊的なパッションもなかつた。つま
り無菅アンミイの生活であり、長椅子の↓に身を投げ出して、梅雨の降り績く外の景色を、窓の撃越し
                   ソ フ ァ
に眺めながら、どうに是方のない苦悩と倦怠とを、心にひとり忍び泣いてるやうな状態だつた。
その頃私は、高等学校を中途で止め、田舎の父の家にごろごろして居た〇三十五六歳にもなる男が、何もし
ないで父の家に寄食して居るといふことは、考へるだけでも汲ましく憂鬱なことである。食事の度毎に、毎日
暗い警し表現と見合つて居た0折角たのみにして居た一人息子が、学校塞業できずに、廃人同楼の無能
力者となづて、響こともなく家に持つ宗る姿を見るのは、父にとつて耐へられない苦痛であつた。父は私
�Z潮周周周姻�b副パ耶針耶い針敬なく情ない顛をして居た0私は私で、その父の顔を見るのが苦しく、自費の悲しみに
        耐へられなかつた。
        かうした生活の中で、私は人生の意義を考へ詰めて居た。人は何のために生きるのか。華南とは何ぞ。眞理
       とは何ぞ。道徳とは何ぞ。死上は何ぞ。生とは何ぞや? それから官然の蹄趨として、すべての孤濁者が惑溺
       する阿片の瞑想1卜哲挙が私を捉へてしまつた。ニイチェ、カント、ベルグソン、ゼームス、プラトン、ショ
       ウペンハウニルと。私は片つぱしから哲学書を乱讃した。或る時はニイチェを讃み、意気軒昂たる跳躍を夢み
       たが、すぐ後からショウペンハウエルが来て、一切の意志と希望とを香定してしまつた。私は無限の懐疑の中
       を彷捜して居た。どこにも頼るものがなく、目的するものがなく、生きるといふことそれ自身が無意味であつ
        た。
        すべての生活苦悩の中で、しかし就中、性慾がいちばん私を苦しめた。眈に結婚年齢に達して居た私にとつ
       て、それは避けがたい生理的の問題だつた。私は女が欲しかつた。私は羞恥心を忍びながら、時々その謎を母
       にかけた。しかし何の学歴もなく、何の職業さへもなく、父の家に無為徒食してゐるやうな牛廃人の男の所へ、
       容易に妻に来るやうな女は無かつた。その上私自身がまた、女性に封して多くの夢とイリュージョンを持ちす
       ぎて居た。結婚は容易に出来ない事情にあつた。私は東京へ行く毎に、町を行き交ふ美しい女たちを眺めなが
      ら、心の中で沌々と悲しみ嘆いた。世にはこれほど無数の美しい女が居るのに、その中の一人�nへが、私の自
        由にならないとはどういふわけかと。
        だがしかし、遽に結婚する時が来た。私の遠縁の伯父が、彼自身の全然知らない未知の女を、私の両親に説
       いてすすめた。牛ば自暴自棄になつて居た私は、一切を運に任せて、選定を観たちの意志にまかせた。そして
       スペードのりが骨牌に出た。私の結婚は失敗だつた。
22J廊下と室房

陰鬱な天気が日々に績いた0私はいょいょ慧になり、懐疑的になり、虚無的な暗い人間になつて行つた。
そしていょいょ深く、密室の中にかくれて瞑想して居た0私はもはや、どんな哲芸も讃まなくなつた。理智
の考へた抽象物の思想なんか、何の意味もないことを知つたからだ0しかしショウペンハウニルだけが、時々
影のやうに現はれて来て、自分の悲しみを慰めてくれた0概念の思想そのものではなく、彼の詩人的な精神が、
春の夜に聴く横笛の音のやうに、悩ましいりリカ〜の思ひに充ちて、煩悩聖晶の生の解脱と、寂滅彙のニ
ヒルな心境を撫でてくれた0あの孤濁の筆者が、密室の中に濁りで坐つて、人間的な欲情に悩みながらも、
終生女を罵り世を呪ひ、濁身生活に経つたといふことに、何よりも深い眞の葦的意味があるのであつた。
「宇宙は霊の現れであり、霊の毒は悩みである0」とシ言ペンハウエルが書いた後に、私は付け加へて
「詩とは霊の好況であり、その捏柴への思慕を歌ふ郷愁である0」と書いた0なぜならその頃、私は嘉の詩
を書いて居たからである。
222
そこにはなにごとの希望もない
生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ
つ ゆ .
梅雨だ
じめじめとした雨の鮎滴のやうなものだ
しかしああ1また雨! 雨! 雨!
ハ憂鬱の川遽)
と歌つた私は、なめくぢの這ひ廻る陰鬱な墓地をさまよひながら、夢の中で死んだ敬人の幽警密合して、
               一ヽ ヽ ヽ ヽ
       ・あ な た
とうして賓女�W筈に衆たの↑
やさしい、青ざめた、草のやうにふしぎな影よ。
貴女は貝でもない、雉でもない、猫でもない。
さうしてさびしげなる亡塞よ!
========……・・(中略)
さうしてただ何といふ悲しさだらう。
        い の ち
かうして私の生命や肉饅ばくさつてゆき
「虚無」のおぼろげなる景色の中で
艶めかしくも、ねばねばとしなだれて居るのですよ。 (艶めかしい墓場)
と、肉鰹の自然的に鰐滑して行く死の世界と、意志の寂滅する捏柴への郷愁を切なく歌つた。
▲蠣煽のむらがつてゐる野原の中で
わたしはくづれてゆく肉饅の桂をながめた。
それは脊闇にさびしくふるへて
影にそよぐ死びと草のやうになまぐさく
ぞろぞろと粗品の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。
=…==…………=・ハ中略)
それ緑風でもない、雨でもない
  \
2ヱ,廊下と室房

そのすぺては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ。
さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に
わたしのくづれて行く影がさびしく泣いた。
(くづれる肉鰹)
ハウエル的捏柴の侍しくやるせない音感を、印度の蛇使ひが吹く笛にたとへて、
の上に寝たままで、肉燈の自然的に鮮滑して物理学↓の原素に慧し、一驚「無」に化してしまふことを願
−ノ 1.ノノ 」「れuド < �Z盲、ノ.・7  .1フフ 〈、、1一.
 と、ショウペンハム
リッタで低く歌つた。
自殺の決意を持ち得ないほど、霊の滑耗に疲れ切つて居た昔時の私は、物偉く長椅子
                                                                                                                                                                           ■▲・l
郷愁のリ
  ソ フ ァ
224
つて居た。


 どこに私らの事頑があるのだらう
  で い ど
 泥土の砂を掘れば掘るほど
 悲しみはいょいょ深く湧いてくるのではないか。
  ::≡:::≡::==(中略)
 ああもう希望もない、名著もない、未来福ない。
 さうして取りかへしのつかない悔恨ばかりが
 野鼠のやうに走つて待つた。
(野鼠)
もなく、受任のデリカシイもなく、畢に肉慾だけで結ばれてる男女が、古い家族制度の家の中で同棲して居
  ノJ」 オ lU▼1く∃「 ′し.↑.1■.′■−.、.ノ
それほど私の悔恨は痛ましかつた0そし三切の不幸は、誤つた結婚生活に原因して居た。
理解もなく、愛
                             ソ フ ァ
儲して増り、ぞの上にも子供が生れた。私は長椅子の上に身牢投げ出して、昔の懸人のことばかり夢に見て
居た。その昔の死んだ女は、いつも紅色の衣装をきて、春夜の墓場をなまぐさく歩いて居た。私の肉膿が辟燈
して無に辟する時、私の意志が彼女に逢つて、燐火の燃える墓場の陰で、悲しく泣きながら抱くのであつた。
ああ浦、さびしい女!
「あなた いつも遅いのねえ。」
ぼくらは過去もない、未来もない
さうして現賓のものから滑えてしまつた===
浦!
この へんてこに見える景色の中へ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。
(猫の死骸)
 浦は私のリヂアであつた。そして私の家庭生活全饉が、完全に「アッシャア家の洩落」だつた。それは過去
もなく、未来もなく、そして「現賓のもの」から滑えてしまつた所の、不吉な呪はれた虚無の貰在  アッシ
ャァ家的賓在1だつた。その不吉な汚ないものは、泥猫の死骸によつて象徴されてた。浦! お前の手でそ
                                       をのの
れに解るのは止めてくれ。私はいつも本能的に恐ろしく、夢の中に泣きながら戦いて居た。
 それはたしかに、非倫理的な、不自然な、暗くアブノーマルな生活だつた。事茸上に於て、私は死産と一緒
に生活して居たやうなものであつた。きうでもなければ、現書から逃避する道がなく、悔恨と悲しみとに耐へ
なかつたからである。私はアブノーマルの仕方で妻を愛した。懸人のことを考へながら、妻の生理的要求に應
22∫ 廊下と室房

トト = 川什什川川什川川u
じたのである0妻は本能的にそれを気付いた○そして次第に私を離れ、
他の若い男の方に近づいて行つた。
             ヽ ヽ ヽ ヽ   ヽ 、 、
すぺては不吉の宿命だつた0私は埠去を回想して、ポオの「大鶴」の歌のやうに、ねえばあ、もうあ!
えばあ、もうあ!と、悪意しく叫び績けるばかりであつた0しかしそんな虚無的の悲哀の中でも、私は伶
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 、
「美」への切ない憧憬を忘れなかつた0意志もなく希慧なく、疲れ切つた寝床の中で、私は枕時計の鳴るオ
ルゴールの歌を聴きながら、心の郷愁する侍しい地方を巡歴した。
馬や賂駐のあちこちする
光線のわびしい沿海地方にまぎれで来た
交易をする市場はないし
    け つ と
どこで毛布を費りつけることもできはしない。
店舗もなく
さびしい天幕が砂地の上にならんでゐる。
(沿海地方)
か淵
そんな沿海地方も歩いたし、蛙どもの群つてゐる、さびしい沼浮地方も巡歴したし、散歩者のうろうろと歩
いてる、十八世紀頃の侍しい碁衝の通りも歩いた。
太陽は顆限に遠く
光線のさしてくるところに、ぼうぼうといふほら貝が鳴る。
お嬢.さん!








�Z周凋淵」椅毒1.パレ.
  かl?して寂しくぺんぎん鳥のやうに並んでゐると
              ヽ ヽ ヽ
  愛も肝犠も、つららになつてしまふやうだ。
  =…==……=・(中略)
 どうすれば好いのだらう、お嬢さん!
 ぼくらはおそろしい孤濁の海遽で、貝肉のやうにふるへてゐる0
 そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし
 こんなにも切ない心がわからないの? お嬢さん! (ある風景の内敷から)

水島の上に坐つて、永遠のオーロラを見て居るやうな、こんな北極地方の俺しい景色も、夢の中で幻燈に見
た。私のイメーデに浮ぷすべての世界は、いつでも私の悲しみを表象して居た0そこの杢には、鈍くどんより
とした太陽が照り、沖には沈捜した帆船が、蜃東榎のやうに浮んで居た0そして永劫の宇宙の中で、いつも静
止して居る「時」があつた。それは常に「死」の世界を意味して居たのだ0死の表象としてのヴィジョンの外、
私は浮べることができなかつたのだ。
むかしの人よ、愛する猫よ
私はひとつの歌を知つてる
                               き す
さうして速い海草の焚けてる杢から、爛れるやうな接吻を投げよう0
ぁぁこのかなしい情熱の外、、どんな言葉も知りはしない。 (怠惰の暦)
フ2ア 廊下と室房

詩集「青猫」のりリシズムほ、要するにただこれだけの歌に革きてる0私は昔の人と愛する猫とに、爛れる
やうな接吻をする外、すぺての希望と生活とを無くして居たのだ○さうした虚無の柳の陰で、追懐の女としな
   き す
だれ、艶めかしくもねばねばとした邪性の淫に耽つて居た0青猫毒の詩は邪淫詩であり、その生活の全膿は
非倫理的の罪悪史であつた0私がもし紳であつたら、私の過去のライフの中から、この生活の全館を抹殺して
しまひたいのだ○それは不吉な生活であり、陰惨な生活であり、恥づぺき冒漬的な生活だつた。しかしながら
またそれだけ、青猫の詩は私にとつて悲しいのだ0今の私にとつて、青猫の詩は眈に「色の槌せた彗のやう
な思ひがする0しかもその色の槌せた花を見ながら、私はいろいろなことを考へてるのだ。
見よ! 人生は過失なり1と、私は近刊詩集「水島」中の或る詩で歌つた。まことに過去は繰返し、過失
は永遠に回蹄する0ボードレエ〜と同じく、私は悔恨以外のいかなる人生をも承諾しない。それ故にまた私は、
色の礎せた青猫の詩を抱いて、今もまた昔のやうに、人生の久遠の悲しみを考へてるのだ。
22β
復活した耶蘇の話
山から降りて来た時に、耶蘇は全く疲れきつて居た0数時間に亙る必死の析痔も、彼の杢虚の心を充たすこ
とができなかつた0重たい疲れた足を引きずりながら、傷だらけになつた耶蘇の心が、麓の方へ歩いて来た時、
午後の日光は大埠に照りつけ、耕土の↓に輝いて居た0そこには弟子のぺテロが寝て居た。ベテロは師の辟り
を待づてる中に、何時しか療入つてしまつたのである○耶蘇はその姿を悲しく眺めた。生死の頓に立つてる自
分が、最後の新穂をして居る間、呑気にも心地よく眠つてる弟子の蛮が、悲しくもまた羨ましく思はれた0
「その心は願ふなれども、肉饅弱きなり。」
と、耶蘇はベテロに言ふのでもなく、濁り言のやうにつぶやいた0その言葉の深い意味には、彼自身に対す
る憐憫と寂蓼がこめられて居た。
耶蘇はこの頃になつてから、自分の破滅が近づいてることを直覚した0民衆は彼を羅馬人に訴へた0法律に
ょって私刑が禁じられてなかつたら、羅馬の裁判に訴へる前に、寧ろ民衆自身の手で殺したかつたのであらう0
耶蘇はその民衆の怒りをよく知つて居た。なぜなら民衆の求めた紳は、耶蘇の説く紳とはおよそ正反対の紳で
ぁった。民衆は何よりも自由と攣止を欲求して居た。エヂプト人や羅馬人やによつて、その民族の故国を奪は
れ、奴隷として長く逆歴されて居た猶太人等は、彼等に約束されてる新約の紳の姿を、あの怒りと復讐の紳で
ぁる蕾約のエホバに眺めた。エホバの子がもし異にエホバの子であるならば、火と電光によつて彼等の敵(歪
むべき暴虐者共)を撃滅し、地上に於ける猶大人の復讐を完成してくれなければならない筈だ0すべての猶太
人等が、火のやうに渇き求めて居るキリストはそれであつた0所で耶蘇は、彼等に無抵抗主義の愛を敦へた0
「カイゼルの物はカイゼルに返せ。」不幸な隷属者としての猶大人等は、永久に隷属者としての宿命を天に約束
されて居るのである。耶蘇がもし眞に新約のキリストだつたら、猶大人のあらゆる歴史的熱望は水泡である0
耶蘇を殺さなかつたら、猶太人の夢が死んでしまふ。
耶蘇は死を恐れなかつた。だが彼は近頃になつて、肉饅の疲労の加つて来ることを強く感じた0彼の年齢は
まだ若かつた。しかし彼の過去の戦ひは、長くそして苦しかつた0至るところに、彼はその強大な敵を持つて
居た。パリサイの孝者と、璧鼻と、猶太の愛国者と、民族主義者と0そtて箕に猶太人全饅でさへもあつた0
22夕 廊下と室房

後は自身の弟子のことを考へて寂しくなつた0べテロも、ヨ∴ネも、ヤコデも、無知な漁師の素朴性から、単
に彼の奇蹟を信じて居るにすぎないのである0そしてこれだけが彼の全慣の味方なのだ。この頃になつて、耶
蘇は戦ふことに疲れて来た0或る夜の夢では、猶太人の氏神であるエホバが、民衆と共に彼を怒つてる幻さへ
見た。そのエホバは戦車に乗り、萬軍をひきゐて羅馬人等と戦つて居た。

 耶蘇はマリアのことを考へて居た。星のやうな明瞭と、胡腕色の髪毛とを持つた若い娘は、耶蘇の魂にとつ
ての音柴だつた。心のひどく疲れた時、絶望的な懐疑に悩んだ時、耶蘇はいつもマリアの所へ蹄つて衆た。マ
リアは彼の心の「休息」だつた。その外のどんな世界も、耶蘇に休息をあたへなかつた。美しいマリアは、疲
れ傷ついてる耶蘇の額に、いつも優しい接吻をした。
 耶蘇はまたマリアの家で、近頃した婁合のことを思ひ出した。十二人の弟子の外に、美しいマリアが列つて
居た0もう一人の女、マリアの姉は憂所で働いて居た。耶蘇は絶えず酒盃を乾し、元気に愉快らしく話をして
居た0その間中、マリアは耶蘇の側に寄りそひ、さも楽しげに男の顔を眺めて居た。耶蘇の高い秀麗な鼻、貴
族的な廣い額、縮れた金色の髪毛。すぺて皆マリアにとつての夢想的な歎美であつた。耶蘇の語るすべての言
葉は、詩か音楽か何かのやうに、彼女の耳に恍惚として準えるのだつた。
「お前つたら0何だね0側にばかり食つ付いて居て、少しはお料理の方も手樽つてくれないの。私一人で働い
てるのに。」
 と、その時蔓所から出て来た姉娘が、少しは嫉妬も混つてマリアに言つた。
 「はふつておけ0・俺は自分の為に料理をこしらへてくれる親切より、俺の話を故きたがる女の方が嬉しいの
 だ。」
2∫0
と耶蘇が言つた。うら若いマリアにとつて、耶蘇の言葉は愛の表現のやうに感じられた0彼女は興奮し三止
ち上り、卓上の美しい花瓶を両手に抱いた。その花瓶の中には、アラビアの高貴な香油が充たしてあつた0
リアはそれを耶蘇の身鰹にふりかけた。
マ
 目ざめるやうな百合の匂ひが、部屋中いつぱいにむせ返つて、異常な昂奮が人々の心を捉へた0
「馬鹿な眞似をするなツ。」
 と、隅の椅子の上からユダが叫んだ。
「世には貧乏人が澤山居るのだ。そんな贅澤な眞似をするなら、何故その金で飢ゑてる者を救はないのだ0」
 ュダの言葉の深い意味は、耶蘇によく解つて居た0民衆の求めてるものは愛でなくて復讐なの.だ0その上に
彼等は峯腹で飢ゑて居るのだ。「先づパンをあたへょ○次に自由と平等の権利をあたへょ0然る後に汝の勝手
な璧日を説け」と彼等は叫ぶ。眞に民衆を救ふものは、塞の永生を説く宗教でなくして、物質の平等と革命を
約束する、経済上の法則であるかも知れない。ユダは耶蘇一行の財政を虞理してゐたところの、唯二の弟子中
での経済挙者であつた。
 ュダの思想は、いつも耶蘇の心を暗く寂しくした。彼は自分の璧日を本質的に懐疑して居る0いつか自分の
死後に於て、ユダは第二のキリストとなるだらう0自分の基督教は早く亡びる0だがユダの基督敦は長く残る0
ユダは自分の琴音を敵に要り、地下にも長く耶蘇敦の敵となるであらう0
耶蘇は悲しくなつて目を伏せた。そして過失を犯した罪人のやうに、小さくおどおどして居るマリアの方へ、
催しく力のない硯線をやりながら。
「許してやれ。こんな純情な若い娘を、皆であまり苛めるな0」
                        フォーク
と彼自身を憫むやうにつぶやいた。それから肉叉に肉を刺して、ユダの口へ入れながら、そつと耳元で囁い
2∫∫ 廊下と室房

臣トぎ
た。
「行け。敵に俺を辛つて来い。」

ゴルゴタの砂丘の上に、三つの十字架が立てられて居た0その眞中の一つに耶蘇が架けられて居た。太陽は
室に輝き、砂丘には白い陽炎が燃えて居た○耶蘇は肋骨から血を流して居た0兵卒は槍の先に海誓つけ、酢
を含ませて耶蘇のロにあてがつた0それでもしかし、彼の烈しい渇きと苦痛は止まなかつた。
「これで俺は死ぬのか0だが死ぬといふ筈は絶封にない0俺は紳から永遠の生命を約束されてる。俺が死ぬと
いふ筈は決してないのだ0いや、俺は死なない○俺は死といふ事賓を承諾しないのだ。」
耶蘇は恐ろしい意志の力を集中して、最後まで死と戦はうとして抗争した。なぜならその死の軍在する彼岸
には、何もない虚無の暗黒が見えて来たから0彼は歯を喰ひしばつて苦痛に耐へ、意識を把持しょうとして焦
晩した0だが夜の闇が近づく頃に、彼の意識もまた次第に暗くかげつて行つた。
 「えり。えり。らまさばペたに!」
 と、最後・の残された意志を集中して、引き裂くやうに烈しく絶叫した0その言葉の意味は「紳よ。何ぞ我れ
を経て給ふや0」といふのであつた0奇蹟は遽に起らなかつた○夜が静かに更けて、星が峯に輝やいて居た。
 広かな薄暮のやうな意識が、長く墓石の↑で持績して居た0耶蘇の呼吸は止つたけれども、彼の張りつめた
意識だけが、地下に眠る冬眠の蛇のやうに、微かな明暗の境を彷捜して居た。耶蘇は墓場の下で生きて居たの
 であつた。
 初めはただ暗黒だづた0それから薄明のやうな日影が漂つて居た。
 「何故だ? 何故俺は舵のやうに、こんな暗い地下に寝て居るのだらう。」
2∫2
                                           ..。H→、Nト⊥Y.、、
 と、その薄明の意識の中で、耶蘇は撮ら博しく考へて居た袖何といふ理由もなしに、存在することそれ自身
が悲しかつた。彼は聾をあげて泣きたかつた。或る形而上学的な、それで居て本能的な強い悲しみが、胸をえ
ぐるやうにせきこんで来た。「何がこんなに悲しいんだ?」と、彼は自身に反問した。そしてこの反問自身が
また悲しかつた。欽軟の情が喉の下までこみあげて来て、押へることが出来なかつた。夢の中の泣饗みたいに、
馨は音響に現れなかつた。そしてただ涙だけが、顔中いちめんを濡らして流れ出し、止めやうもなく後から後
からと湧くのであつた。
「此虚は何虞だ? 俺は一饉どうして居るのだ。何がこんなにも悲しいのだ?」
 と、再度また繰返して考へてみた。
「過去の地上に居た時の生活だらうか? あの民衆に封する敗れた戦ひの記憶だらうか? それとも信仰に封
する自分の傷ついた懐疑だらうか? 香。ちがふ。ちがふ。もつと外の別の物だ。何か、もつと深く、曖昧で、
俺の感情に食ひ込んでる別の物だ。」
 けれども認識を捕へることが出来なかつた。耶蘇の知つてるすべての事は、すべての現象する宇宙の中で、
悲哀だけが賓在するといふことだつた。そしてこれだけが、賓にまざまざとはつきりした事貰であつた。
 薄暮の灰明るい光の中で、何虞か遠く逢かな方から、女のすすり泣くやうな饗が聴えた。その悲しげな女の
挙が、宇宙に賓在する本質の物、即ち彼の悲哀の神秘を解きあかしてくれるやうに思はれた。耶蘇は墓の下で
耳を澄まして居た。
一筋の微かな光が、糸のやうにさまよつて居た。長い長い時間が過ぎた。それから次第に明るくなり、地下
の暗闘の中の穴にも、幽かな黎明の気合ひがした。               ・
「死んではいや。死んではいや。」
2∫∫ 廊下と室房

耶蘇が墓慧ら生き返つた時、一人の女が彼の側で泣き崩れて居た0それはマグダラのマリアであつた。彼
女は涙に警濡らしながら、流血にまみれた耶蘇の警雪に抱き、烈しい接吻の雨をあびせて泣き悶えて居
るのであつた。
「マリアょ○泣くな。俺は生きてる。生きてるのだ。」
耶蘇の饗は、しかし女の耳に通じなかつた○なぜなら彼の饗は囁からでなく、肉鰹以外の別な壷的意識から
出たのであるから0死して三日目に蘇生つた耶蘇キリス左、その血まみれな死骸のままで、かうして永遠に
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女の手に抱かれて居たのであつた。
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