純正詩への指南
       詩人は何度へ行くぺきか
 世には眞の悪人といふ者はなく、眞の善人といふものもない。悪人と善人との相違は、同じ人間性に於ける
程度の相違にすぎないのである。同様ペまた文筆上でも、詩と散文とに於ける絶対の劃線的直別はない。どん
な詩でも、多少の散文的要素の混入しないものはなく、如何なるレアリズムの小説でも、多少の詩的要素の内
存しないものはない。詩を次第に遠心して行けば小説になり、小説を次第に求心して行けば詩に凝結される。
事貰上の文孝に就いて観察すれば、詩と散文との国境には標本がなく、白から次第に衣色になり、次色から次
第に黒色になるところの、一つの達績した色のスケール (譜調音程)になつてゐるのである。
 しかしながら道徳上の批判をする時、善と悪とは判然と直別される。絶封の善人と紹封の悪人とは、J七とへ
事貫上に無いとしても、道徳上の批判に於ては、これを抽象上にイデアして掲出し、道義の操るぺき根接の定
義を建てねばならぬ。でなければ善悪の批判が解らず、道徳の辟すぺき標準が廉くなつてしまふ。同様にまた
文学上でも、詩と散文との批判をする時、穎封の自と紹封の果とを、そのスケ」ルの南端から観照して、抽象
上に「純粋詩」と・「純粋散文」を封立イデアさせねばならないのである。この場合に我々は、さうした文拳の
賓在性を閏ふ必要はない。たとへ事賓には無いとしても、詩のゾルレンすべき理想として、純粋詩は必ずイデ
アされねばならないのである。
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 かうした批判相封の見地で見る時、詩と散文とは地球の南極に封してゐる。詩的精神と散文精神とは、たと
へ事賓上に於ては同質の程度とするも、批判上に於ては異質絶封の封舵である。故に詩は散文に隷属すぺきも
のでなく、散文はまた詩に隷属すべきものでない。散文の厳正な批判からして、常に「詩らしい小説」が邪道
成されるやうに、詩の厳正な批判からは、同じく「散文らしい詩」が排除されねばならないのである。
 では詩的精神とは何であるか。散文精神とは何であるか。これについての自説は、蕾著「詩の原理」及びそ
れを抄説した他の論文「詩とは何ぞや」に詳説した通りである。即ち詩の所在は時間に属し、散文の所在は笠
間に廃する。前者は主観と音楽の実に属し、後者は客観と美術の美に属し、すべてに於て封択的、南極的の正
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反封を示してゐる。詩的なものは散文的でなく、散文的なものは詩的でない。この精神の直別は絶封的である。
 ところで近代の文奉主潮は、時間性から客間性の方へ著るしく推移tて行つた。即ちすべての文学は、音楽
(竜律)を捨てて美術(描馬)に走り、ロマンチックな主観性から、レアリスチックな客観性の方へ傾向して
行つた。近代は賓に散文精神の高調した「散文主義の時代」なのである。かうした時代に於て、詩の逆境に威
すべき道は二つしかない。即ち時代に順應するか、時代に抗争するかである。現に今日、多くの小利口な詩人
たちは、眈に早くから前者の順應を選んでゐる。彼等は詩に現資性を要求し、レアリズムを唱へ、韻律を廃し
て散文を選び、情緒を嫌つて理智を尊び、すべてに於て詩を散文に同化順應させょうと努めてゐる。彼等は時
代の「新しい詩人」と呼ばれ、その順應性と擬態との故に、今日散文主義の時代に於ても、巧みに虚生して活
躍してゐる。これに反して後者の造。即ち時代に反抗して詩の純潔性を固守してゐる人々は、今日に於て「時
代遅れの詩人」と呼ばれ、古い型の詩人として軽蔑されてゐる。(最近自殺した生田春月君は、この古い型の
詩人の典型的な一人であつた。)
6ア 純正詩論

 詩と詩人とにとつて、かくも惨めに沈ましい時代があるだらうか。詩の本質を固守する詩人等は、その純眞
性の故に「時代遅れ」と呼ばれて敗北し、逆に却つて詩を散文化し、味方の良心を敵に費つて虞生する裏切者
の似而非詩人が、得々として時を得顔に横行してゐる。もちろん芭蕉皇一口つてゐるやうに、詩はその不易な本
質を守ると共に、一方で絶えず時代の流行に順應して行かねばならぬ。不易流行は詩の精神である。しかしな
がら詩が散文の陣営に辟化することは、詩の不易な本質を致命的に失ふことで、詩精神それ自鰹の廃滅である0
人は時にその敵を愛することは出来る。だが味方の陣営にゐる裏切者は、いかにしても許すことができないの
である。
 かうした私の激語に対して、讃者或は言ふであらう。然らば詩人はどうするのか。今日の散文時代に超越し
て、時代を中世の昔に逆行し、紳仙の棲む山の中にでも逃げ込むのか。そもそもまた君は、文学が時代と交渉
なく、孤濁に遊離して有り得ると信ずるのかと。亡友生田春月の自殺は、思ふにかうした質問に答へるべく、
彼自身の槍を敵に投げつけた絶望だつた。しかしながら私は、逆に却つて未来に封する、大きな明るい希望を
もつて勇躍して居る。
 歴史の古い昔に於て、詩は一切の文筆だつた。侍記も、小説も、脚本も、すべての文学は詩に隷属しセゐた。
そして詩の韻文精神が、文寧のあらゆる分野を支配してゐた。そこで近代文蛮の出費は、詩に封する散文精神
の抗争を絶叫した。小説等の文学が、文学としての健全な饅育をするためには、何よりも先づその詩的主観性
を排除し、竜文精神を一掃してしまふことが必要だつた。そこでレアリズムが叫ばれ、自然主義が叫ばれ、馬
賓主義が高唱された。これらのイズムが叫ばれる前に、文学は伶ほ主観的な浪漫主義を奉じて居り、古来の韻
文精神が命ほ甚だ濃厚に遺俸されてゐた。即ち常時に於て、・小説等の散文は詩に隷属してゐたのであつた。小
説が小説としで、敢文が散文として精神的に濁立したのは、賓に漸く十九世紀末葉からの歴史に廃する0自然
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L義以来・いJ初めて`▲詩Lと「散文」とが南汲に分離し、各ヒの相対した立場に於で、各との一節立した費畢の下
に、今日の封虻的陣営を張ることになつたのである。それ以前に於ては、詩の美挙が同時に散文の美挙を乗用
してゐた。
 哉文主義に封するこの散文主義の抗争は、今日に於て既に決定的の勝利を納めた。昔は詩の奴隷に過ぎなか
つた散文が、今では完全に濁立の王国を建設した。今日の小説は、もはや昔に批判されたそれの如く、主観の
映乏や、情緒の稀薄や、詩的茎想性の貧窮さなどで非難されない。逆に却つて今日では、この種の詩的要素を
排撃して、純粋の散文精神によつて批判されてる。即ち要するに今日では、詩と散文との二つの世界が、互に
他の領域を犯すことなく、夫々の主権を別にする王国として出立してゐる。人々はもはや、詩的精神で小説を
批判することも出来ないし、散文的精神で詩を批判することも出来なくなつた。
 この南王国の判然たる分裂は、散文の蜃達のためにも甚だよく、詩の蜃達のためにもまた甚だ好い。なぜな
ら散文は、自分の中から一切の非散文的なもの、即ち韻文精神や詩的要素を排除してしまふであらうし、一方
また詩の方では、一切の非報文的なもの、散文的なものを鰹外に流してしまふ。そして両者の封舵する極地に
於て、上述の「純粋散文」と「純粋詩」がイデアされる。詩と散文とは、互にその究極のイデアを指して、背
中合せに進んで行けば好いのである。
 詩人は何虞へ行くべきか? この答辞は眈に蓋した。今日以後の未来の詩人は、散文に背中を向けつつ、純
粋に時間的なる宇宙(韻律性、主観性、感傷性、杢想性等の主座する世界)を蜃見すべく、ひとへに純粋詩の
イデアを求頻れば好いのである。過貴の自信なき卑屈な詩人は、散文主義に順應して魂を要り、擬態し、欒節
し、費春し、詩を散文化することの技巧にょつて、卑怯にもその詩人的生存権を支持して衆た。今日以後の未
βク 純正詩論

く掲げて行軍するのだ。
 今日の融合は、人も知る如く商業主義の杜曾である。牡合的の現象として、今日は正にデモクラチックの時
代であり、それ故にまたプロゼツタの時代である。中世の騎士時代を領文時代といふ意味でなら、今日はたし
かに哉文時代に属してゐない。しかしながらまたそれ故に、今日ほど詩が一般に強く欲情されてる時代はない
のだ。人のイデアするところの者は、常にザインするところの者の裏側にある。大盗はびこりて聖人現はれ、
仁義廃れて道徳叫ばる。智者は情熱の人を悦び、純情家は智者を崇める。今日の政令の如く、▲すべてがプロゼ
ツタに理智的となつてる時代ほど、眞の純異な詩が強く要求されてる時はないのだ。そして何時の世にも、詩
は時代の純のイデアを表象する。
 今日、詩が一般に見捨てられてる理由の一つは、詩人がその時代のイデアを歌はないで、逆に却つて散文の
中に同化し、ゲインの世界で似而非の文孝を書いてるからである。それ故に民衆は1民衆は常に最も正直で
ある − 文壇の詩を見捨てて流行小唄の方に傾聴してゐる。さうした市井の卑俗詩は、もとより拳術としての
償俺を持たない。しかしながら本質の精神上では、常に詩の純一なエスプリを所有してゐる。民衆は批判を持
たない。けれども肇衝の本質するエスプリだけは、常に最も正直に直覚する。オくなくとも民衆は、眞の「詩」
と似而非の 「非詩」との第一義的直別を知つてる。
 過去の文壇は、散文主義の詩に封する抗争啓蒙の時代であつた。そして今や、既にその啓蒙時代は清算され
た。今日の常識は、詩を散文から分離させ、濁立の批判に置くことを公認してゐる。詩はそれ自憶の主権を捏
づた。もはや何の恐るることもない。勇敢に、大脛に、散文の美学と逆行しっつ、詩はその純}のイデアを指
_川畑佃イ叫J。ノー
して行くべきである。
 (註)
 今日散文時代の詩が、昔のやづに純一な韻文精神に復辟することは、事資上に於て不可能であるかも知れない。近代の
詩に知性の要素が多く加はり、レアリズムの精神が混入してゐることは止むを得ない。むしろまたその故にこそ、近代詩
の近代詩たる意義が有るのだ。けれどもそれはザインとしての問題である。詩人がゾルレンすべき理念は、さうしたザイ
ンの如何を問はず、理想のイデア(純粋詩)を指すぺきである。その理念を目指して創作しながら、しかも筒ほ且つ、ザ
インの詩が近代的になるのは自然である。だがもし反封に、イデアを散文主義に攣へるならば、詩の未来は廃滅である。
即ち問題は、現在の「話そのもの」にあるのでなく、イデアの黒自を論ずるところの、畢なる詩畢上の観念にある。そし
てこの畢なる観念が、賓に詩の運命を決定するのだ。讃者よくこの鮎を了解せょ。僕は決して、今日の詩からその近代的
要素を排除せょといふ如き、時代錯誤の復古的保守主義者ではない。却つて反封に、僕は最も新しい進歩主義を目指して
ゐるのだ。(「僕の詩論の方式と原理について」参照)