詩の構成と技術
現代詩の鑑賞
 この一文は、厚生閣の「日本現代文章講座」に頼まれて書いた講義を、一部増補剖除して編集したものである。もとよ
り初心者の手引として書いた講義であるから、本書の讃者には少し稚態を感じられる節があるかも知れない。そのつもり
で了察を乞ふ。
 詩がフォルムを持たないといふことは、今の日本の詩人にとつて、眞に最大の苦悩である。すぺての詩人の
山懐みと努力は、如何にして今の日本の現代語から、韻律や形式を蜃見すべきかといふ一事にかかつてゐる。普
Z瀾潤周遠州Hi
通に自由詩と栴されてる文筆が、賓は畢なる「行わけ散文」 の擬膿にすぎないこと今ハ正しい批剣に於て、詩と
呼び得ることの出来ないものであることは、今日の詩壇に於て眈に一般から常識されてる。しかもこれに代る
                                             イデア
べき新しい文畢は、未だ何虞にも創立されてゐないのである。つまり言へば今の詩壇は、詩の観念だけがあつ
   レ ア ル
て詩の賓健がなく、虚無の中に創造を求めて噴いでゐるのである。
 かうした混迷時代に於て、眞の蜃衝的形態を有する詩を求めるのは、もとより心待ちがひの無理であるが、
ただ少しでも未来に暗示を輿へる程度の、新しい意義をもつた形態の詩を探して、之れに構成技術の批判的鑑
賞を試みるのは、今日に於て最も有意義の仕事と言はねばならない。以下、二三の現代詩人の作について、そ
の構成と技巧の鮎から、厳密な鑑賞を試みょう。
  日が暮れる この岐れ路を 樟は蜃つた=・=・
  立場の裏に頬白が 囁いてゐる 歌つてゐる
  影がます 雪の上に それは疇いてゐる 歌つてゐる
  枯木の枝に ああそれは灯つてゐる一つの歌一つの生命。


            ヽ ヽ ヽ ヽ
「頬白」と題する三好達治君の詩である。この詩は四行で出来てる。これは四行詩と構して俳蘭西に古くから
ある詩の形式を、作者の三好君が日本に移植したのである。この詩の言葉は、全膿に鮮明な詩律を踏んでゐる。
即ち次の如し。

           ■ヽ)                 7                 亡J
   t′Iノ  ヽ1LトJ lトノ
  日が暮れる この岐れ路を 棲は饅つた。
∫j 純正詩論

     ア          く」V         −」J
ヽL′Iノ  †ノ  ヽLrノ
立場の真に 頻自が 囁いてゐる
      ′ヽ)
l√・−1 − ノ
歌つてゐる。
∫イ
   ⊂J           〔J               8                亡J
lノ        ー     ノ  ヽLr・ノ 、−L′   −   ノ
影がます 雪の上に それは囁いてゐる 歌つてゐる。
      ア
ヽL「ノ
枯木の枝に
     −・ヽ)              ⊂J
ヽL「ノ ヽL′   −   ノ
ああそれは 灯つてゐる
   ∠U
ヽ−−−ゝ − ノ
一つの歌
     ′0
ヽL/  −  ノ
ーつの生命。
(母音の二箇績き、促音等は、場合によつて三日に敷へる。)
 かくの如く、所々に不規則の箇所もあるが、大鰹に於てS7Sの反覆で、日本語の自然的音律である五育と
七音を基本にして構成されてる。前にも説いた通り、今の日本の詩には一定の規約づけられた形式がないので
あるから、すぺての詩に志す人々は、最初に先づ自分で一つの新しい形式を創造せねばならぬ。この鮎で今の
詩人は、昔の新饅詩や定形詩の作家に比して、造かに出態の苦労が多くむづかしいのである。
 さてこの詩の情操してゐるものは、作者がその心の中に、魂のもの侍しい薄暮を感じ、頑白の囁いてる風景
の中で、その心に撲がつてくる薄暮の影を、侍しく悲しげに凝成してゐるのである。かくの如く詩に於七は、
いつも心の中の主観が、外界の客観と結びつき、心の風景と自然の風景、心の薄暮と景色の薄暮とが一緒にな
つて表現される。故に詩には、抒情詩に対して言はれる「叙景詩」なんていふも.のはないのである。すべての
詩は等しく「抒情詩」なのである。
 最初の二行は、樟が出費する別れの情愁を歌つてゐる。ここで出蜃するもの、遠く自分から別れて行くもの
は、外界的には「樟」であるけれども、心境上の主観では、この樟が作者の自己に封する、或る生活上の寂し
い離別を表象してゐる。ハその離別の内容までは問ふ必要がない。)作者はそれが悲しいのである。彼は今その
.■−
昏臣−■
Z潤瀾瀾瀾濁欄∧諾ノー。
離別の→岐れ路」に立つて、.日の暮れかかる山路の涯へ、遠く餞つて行く運命の樟を見迭つてゐる。この詩想
                                    テ ー マ
を表現上に構成する馬、三好君は冒頭に「日が暮れる」といふ主題の第一命題を出し、二行目の結句で「歌つ
てゐる」といふ語に結んでゐる。この「歌つてゐる」といふ言葉は、外界の頬白にかかるのでなく、主として
作者の主観の方にかかつてゐる。即ち離別の悲しい情緒を書いてるのである。此所まで外界の風景を圭鰹にし
て述べたものが、この最後の抒情的な言葉によつて、急に主観の心境の方へ縛向して来る。かういふ所が詩の
面白味で、技術の重要なコツなのである。
 第三行は、前の「日が暮れる」以下の情景を受けついで、これをさらに陰影深くし、情感強く仕上げてゐる。
「影がます雪の上に」といふ言葉によつて、時間の次第に経過してゐること、夕闇の影が深くなつて、樟が既
に遠方へ遠ざかつてしまつたことを表象してゐる。その遠い横の行方を思ひながら、暮れ行く林の中に一人残
つて、伶ほかの鳥は喀きつづけてゐる。作者は伶ほ悲しみを歌ひつづけてゐるのである。
       フィナーレ                                 とも
 最後の第四行は終幕曲である。ここでは既に夜が来て、枯木の枝に洋燈の灯がともつてゐる。香、その灯つ
てゐるのは洋燈ではない。作者の悲しみの唄ふ一つの歌。一つの寂しい生命なのである。この表現を散文の修
                                                                       とも
鮮で書けば「私の歌、私の寂しい生命が、枯木の枝に止つて鳥のやうに喘き、夜の洋燈のやうに灯つてゐる。」
といふ工合になる。
 この三好君の詩が面白いのは、薄暮から次第に閤が近くなり、遽に灯ともし頃の夜になる迄の時間的経過が、
各ヒの行に別けてはつきり書き出されてあることである。詩の構成上に於ける技巧の鮎で、かうした詩は讃者
の最もよい参考になるであらう.
烈風が壁を引き剥ぐ。泥水の溜りへ倒れる鶏。脚を折られた樹木。三大な重量の反響が
∫∫ 純正詩論

潮風の咽喉を塞ぐ。ずぶ濡れの軍隊だ。この寒村の底へ沈んでゆく軍隊だ。下降する耕
土の断層。
∫6
明日は太陽が見えるだらう。
                   ヽ ヽ ヽ ヽ
 これは「埋葬」と超する北川冬彦君の詩である。この詩には行が切つてない。元来、詩がもし定則の韻律を
持たない以上、行を別けることは必要が・なく、畢に句鮎で切つて、散文のやうに書き下す方が正しいのである0
私はこのことを、ずつと古くから雑誌「日本詩人」その他で論じ、蕾著「詩論と感想」の中にも書いたのだが、
資際の作品で私の所説を賓行し、詩に示して見せてくれた最初の人は、賓に上例の北川冬彦君であつた0よつ
て特に、同君の詩を引用する次第である。
 この北川君の詩は、何を情操してゐるのだらうか。ここで書かうとしてゐる主題は、一つの喘ぎ苦しむ意志
が、強力の弾歴に反抗しっつ、戦ひ、敗れ、悲しみ、もがき、羽毛をムシられた鶏のやうに赤裸で、痛々しく
忍び泣いでゐるところの、或る悲壮な意志の絶叫なのである0詩のすべての言葉と技術とは、この一?の自的
のために集中されてゐる。例へば先づ冒頭に、或る烈しい無惨の暴力、生身の皮を引き剥ぐやうな意志への争
闘を叙するために、作者は「烈風が壁を引き剥ぐ」といふ強い残忍な言葉を持ち出して計る。「泥水の溜りへ
倒れる鶏」「脚を折られた樹木」等、みな同じ残忍性のある言葉で、一つの強い意志が、争ひつつ戦ひつつ、
無残に敗れて引きずり倒され、脚を折られ、泥に紛れて埋葬される悲痛を書いてる。「ずぶぬれの軍隊」「底へ
沈んで行く軍隊」これもまた同じく、或る重量のある三大の集圏、即ち魔力のある達ましい一つの意志が、痛
ましくも地下に埋没される運命を訴へてゐる。小さな者が埋捜されることは悲壮でない。悲壮は常に大きなも
の、雲量のある達ましい意志が、無残にも生きながら埋捜されることにある。この詩の「軍隊」といふ言葉ほ、
現賓の軍除を指してるのでなく、或る一つのガソテリした、重量のある、頁大な意志の菜園(軍囲的のもの)
を表象してゐるのである。「下降する耕土の断層」は、その埋漫の光景を赦してゐる。作者はここで詩句を終
り、一行あけて「明日は太陽が見えるだらう」と言つてる。この一行あけるのは、詩の情操を一欒させ、新し
く気を欒へるためである。即ちこの陰惨な人生もここに終り、未来には希望と光明の日が来るだらうと、悲し
みに充ちた心の中で、明日の太陽を望んでゐるのである。
 この「埋葬」に限らず、北川君の詩の特色とするところは、詩句の一行一行(句鮎から句鮎までが一行。横
に一行づつ別けて書いても、この詩のやうに竪に書き下しても同じこと。)が、他の詩句と関係なく、夫々濁
立に分離して居り、しかも仝慣として有機的に関連してゐることである。例へば「烈風が壁を引き剥ぐ」と
「泥水の溜りへ倒れる鶏」との間には、言葉のつながる連鎖がなく、各ヒの行がそれ自身で切れて濁立してゐ
る。しかもこのボツボツの行が寄り集つて、全鰹の詩想を有槻的に構成してゐる。北川君の他の詩には、この
形式を一層はつきりさせるために、横に行を別けて書き、そして各ヒの行の頭に、1、2、3、等のノムブル
を記入した著さへある。
 日本の古い俳句に「連作」といふのがある。一つの同じ主題の下に、幾つも幾つもの俳句を績けて書き列べ
るのである。この場合、各ヒの俳句は濁立した一句であり、次の俳句との問に言葉のつながりが無いのである
が、しかもその全膿を綜合して、一つの主題を統一的に表現した長篇の詩になつてる。北川君の話法もおそら
くはこの連句から暗示を得て、新しい様式に展開させたものであらう。とにかくユニイクな形式であつて、三
好君の四行詩と共に、讃者の参考に資するところが多いであらう。しかし北川君のかうした詩には、言葉に音
律や節奏が少しもなく、全く純粋の散文である。近頃「詩を散文に書け」といふ議論もあるが、かうした散文
∫ア 純正詩論

で書いた文学が、果して厳正の意味で「詩」と呼び得られるかどうか? 最近詩壇で哲畢されてゐる一の根本
問題がここにある。だがこの種の講義録では、さうした高等敷畢の課題を避けよう。初等代数畢の常識として
は、詩の新しい技術と構成を覚えるために、讃者にこの種の詩の研究をすすめておく0
                           ヽ ヽ ヽ ヽ
 北川君の散文的な詩の封舵として、次に北原白秋氏の詩を引例しょう。北原白秋氏は眞に「韻律の詩人」で
ぁり、韻文以外のどんな文畢をも一切所有しない 散文を書いても自然と鶴文になつてしまふやうな種類の
1詩人である。そしてそれ故にまた、眞の生れたる天稟的の詩人でもある0次に掲げる一篇は、名詩集「思
ひ出」 の中にある「糸車」と題する詩である。
∫β
糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ
その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
      たうなす
金と赤との南瓜のふたつ縛がる板の間に
共同撃館の板の間に
                 おうな
ひとり坐りし留守番のその姐こそさみしけれ。
耳もきこえず、目も見えず、かくて五月となりぬれば
広かに匂ふ綿層のそのほこりこそ床しけれ。
椅子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに
水路のほとり月光の斜めに射すもしをらしや。
             もだ
糸車、糸車、しづかに獣す手のつむぎ
                 ゆふべ
その物思ひやはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。
「▼
 この詩の表現しょうとしてゐるものは、一つのイマヂナリイの、官能の夢の中に漂ふ広かな淡い悲しみであ
る。ところで言語は、さうした「官能の夢」を語り得ない。それを語り得るものは、世界にただ音楽あるのみ
である。そこで詩人は、かうした場合に音楽家に欒つてしまふ。即ち彼の文畢する言葉を、そのまま楽器に欒
へて使用するのである。「如何にせば言葉を楽器に欒へ得るか?」詩作上に於けるこの最も重要な技巧を知ら
うとするものは、先づこの詩について寧ぶがょい。
「糸車、糸車、しづかにふかき手のつむぎ」先づ冒頭の一行を讃め。歎讃でも好いから、静かに繰返して讃ん
で見給へ。何といふ落付いた、静かな美しい音楽があることだらう。糸車、糸車と二つ言葉を重ねたのは、車
が姻挿する感じを、現はすためであり、最も有数に使用されてゐる。次の「しづかにふかき手のつむぎ」で
f亡打P打iとt声日点iとの間における、音韻の微妙な中和性を味つてみる必要がある。それが丁度糸車の青もな
く静かに廻つてゐる柔らかい感じを現してゐるのである。これがもし「しづかにふかき」でなく「しづかに廻
す」であつたとしたら、到底かうした美しい音楽は構成されない。諸君が詩作する場合に於ては、何よりも先
づかうした音楽の構成に注意し、一語一語の音萌に注意することが必要である。
「その糸車やはらかにめぐる夕ぞわりなけれ」で前の行を受け、詩の第一節が経つてゐる。ここまで讃み績け
て来ると、あたかも黄昏の物侍しい世界の中で、青もなく静かに廻つてゐる糸車の響が、ほのかな心の耳に聴
えて来る感じがする。そしてここまでは、人間もなく景物もなく、どこか知れない宇宙の中で、ただ糸車だけ
が濁りで廻つてゐるのである。次の行に移つてから、初めてそれの客間的所在が明示されて来る。即ちそれは
                                        おうな
「金と赤との南瓜のふたつ樽がる共同撃館の板の間に、ひとり坐りし留守番の姐」が廻してゐる糸車なのであ
る。かくの如く、初めにぼんやりと糸車を出し、次にその位置や所在を明示するのは、漠然たる夢の印象を初
jタ 純正詩論

めに強く感じさせ、後に次第に現資を見せるための手法であつて、かうしたイマヂナリイの詩の構成上では、
最も有数に用ゐられる技術である。
 さてここで「金と赤との南瓜」を鮎景したのは、奇想天外の着想であり、且つ如何にも白秋氏らしい技巧で
ぁる。前の二行を讃み経つて、静かな黄昏のやうな情緒に浸つてゐる讃者は、この奇警な南瓜に打つかつて、
急に眠から起されたやうに喫驚させられる。詩に於けるこの「不意打ち」は、白秋氏ばかりでなく、多くの詩
人の好んでやる手法であつて、詩切畢詞を破り、襲化と刺激をあたへる為に最も有数な手段である0詰もやは
り戦術と同じく、常に讃者の漁期しない意想外の隙をねらつて、一時敵をまごつかせ、混乱に陥らせる工夫が
必要である。しかしその混乱は、後の行の進行と共に、直ちにまた整理され、安静の状態に引きもどされるや
ぅ、十分に用意されたる不意打ちでなければならない0白秋氏の詩の場合では、この「金と赤」とが色彩して
ゐるトカゲのやうな感覚を、詩のイメーヂしてゐる官能の世界の中で、灰かに這ひ歩く神秘な物影に漂はして
ゐる。そしてこの巧妙な手品の種は、後にだんだんと解つてくる。
 ここでまた「共同瞥館」といふイメーデを配景したのは、或る田舎風の、墓所などの廣くひつそりとした物
侍七い地方の古い瞥院を思はせる為である。つまり「共同瞥館」といふ言葉の中に、あまり患者の来薙い、田
舎の古く寂びれた瞥院を思はせるやうなイメーヂがあるからで、詩を作る人たちは、かうした言葉の聯想性に
対して敏感でなければならない。その薄暗く、催しくひつそりとした共同瞥院の壷所に、田舎から雇はれた留
守番の老婆が、ひとりで青もなく糸車を廻してゐる○その蔓所の暗い隅には、永遠の静物のやうに、南瓜が二
っ縛がつてゐる。すべてが静かに沈獣して、黄昏のやうな意味をもつた詩壇である0
 第二聯に移つて「耳もきこえず、目も見えず」の次に「かくて五月となりぬれば」と績け、ここで急に調子
を攣へで高くしてゐる。この縛調もまた讃者にとつて不意打ちである0「耳もきこえず、目も見えず」・の沈ん
60
、頭瀾】凋瀾川匂H  ‖句、サー
                                                                                              で。4魚
■ナ粁陰気の詩句へ観けて、不意に「かくて五月となりぬれば」の朗々とした明るい調子が、大洋の浪のやうに急
に盛り上つて衆ようとは、だれにも漁期できないことである。だがこの不意打ちは、何といふ心地よい不意打
ちだらう。前の陰気な詩句をうけて、心が低く沈んでゐるところへ、急にこの海潮音のやうな、五月の薫風の
ゃぅな詩句が出るので、一時にさつと胸がひらけて、心が自ら青杢高く飛翔して来る。賓に詩の魅力する所以
の不思議がここにあるので、音楽を持たない散文では、到底この楽しい魔法は使へないのである○
 次行に移つて戻かに匂ふ綿屑のそのほこりこそ床しけれ」は、前行の五月を受け、初夏新緑の頃の明るい
杢菊を、官能のちらばふ綿屑の影に匂はせたのである。「椅子戸棚に白骨のひとり立てるも珍らかに」とここ
で「白骨」を出したのは腎者の家であるから官然の講であるがト詩の構成上の手法としては、椅子戸棚と共に
或る冷たい、重来のひえびえとした感覚を匂はせるためのテクニックである。そして伶ほこの「白骨」は、第
一聯の「金と赤の南瓜」に於ける色彩の刺戟的なイメーヂと封照して、詩の背後に或る標紗とした神秘的の夢
を影づけてゐる。そこで次行の「水路のほとり月光の斜めに射すもしをらしや」が、前行の冷たい室気の感覚
を受けつぎながら、同時にまたその銀色の月光で、詩壇の背後にある神秘の夢を照らさせるべく、巧みに用意
深く構成されてゐるのである。
 詩がここまで進んで来た時、もはや老婆の影は何所かに滑えて無くなつてゐる。この詩の表象しょうと意志
したものは、糸車をくる老婆の姿ではなくして、そのモチーグの音楽が象徴するところの、或る標聯とした、
言葉では観念が捕捉できない、一つの純官能的なイメーヂなのである。故に詩の最後になつては、老婆も、南
瓜も、墓所も、共同瞥館も、すべて皆どこかへ滑えてなくなつてしまつてゐる。そしてただ「糸車、糸車、し
つかに獣す手のつむぎ、その物思ひやはらかにめぐる夕ぞわりなけれ。」のモチーヴだけが、再度また最初の
ゃぅにどこかの時峯の中で夢のやうに準えて来る。かくて首尾相合し、詩が完全に経つてゐるので、賓に白秋
6J純正詩論

氏のこの詩の如きは、構成上に於ても技巧上に於ても、名人の至嚢を蓋した名作である。讃者は百の駄詩をい
たづらに讃むよりは、かうした名作一節を研究して、よろしく自ら自得すべきである。
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