餞舌の詩と沈獣の詩
                                                        ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 西洋の詩について、我々日本人の感ずる不満は、一濃に儀舌で、説明が多く、しやべりすぎるといふことで
ある。我々日本の詩人たちは、昔から言語の節約について革んできた。和歌は三十一字しかなく、俳句はただ
の十七字しかない。それでしかも、この最簡にした詩形の中に、抒情詩の最も高いエスプリと、あらゆ値幽玄
深奥の詩想とを歌つて衆た。一方で西洋の詩人たちは、百行二宮行の長い詩を普通に書き、我々が一語の暗示
によつて蓋すものを、くどくどと冗漫に説明する。尤も近代の傾向として、西洋の詩も次第に短くなつたとは
いへ、伶は我々の詩眼から見て、無用のおしやぺりが多すぎるのである。
 かうした比較の上からして、或る多くの人々等は、西洋を乾して日本を揚げ、蛮術的批判の本質上から、我
我の詩を以て彼に優れりと考へてゐる。しかしながらこの批判は、日本人の詩眼からして、日本人の濁断する
批剣であり、公平正鵠の勝負ではない。なぜならすべての場合に於て、長所は即ち短所であり、一方に或る鮎
 で優れるものは、一方にまた必ず他の鮎の映陥をもち、結局して償値を相殺することになるからである.若し
言語の簡約といふ鮎からして、我々の詩が彼に優つてゐるならば、その同じ一つの長所が、取りも直さずまた
我々の詩の映陥である。即ち我々の日本の詩は、国語の宿命づけられた映鮎からして、本来長く書くことが出
来ないのである。
 日本語の著るしい映鮎は、言語に抑揚や調節がなく、一本調子でだらだらして居り、平坦で曲折に軟けてる
こと、即ち眞の鮮明な「萌律」がなく、したがつて美しい「音楽」がないことである○それ故に日本語では、
如何にしても長い詩(おしやべりの詩)を書くことが出来ないのである。なぜなら長い詩の魅力は、主として
   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
そのおしやべりのエフェクトにあり、次から次へと流れて行く、言語の美しい音哉的な魔力にあるから0西洋
の詩は、この鮎で言語の恵まれた長所を持つてる0英語でも、彿蘭西語でも、濁逸語でも、その音楽的な鮎に
於て、鮮明な萌律的エアェクトを持つてる鮎で、到底我々の日本語とは比較にならない0支那語でさへも、ず
っと西洋の言語に近く、豊富な萌律やアクセントを有してゐる。この鮎で言ふならば、日本語は世界第一に恵
まれない言語である。
 それ故に外国の詩人等は、国語の定められた法則として、自然に餞舌になや、雄将になり、長い詩を書くや
ぅになつてくる。つまり彼等は、自らしやべつてる言語の中に、自ら美しい音楽の魅力を感じ、それの調子に
引きずられて、次から次へと無限にしやぺつてしまふのである。そしてまた讃者の方では、その同じ書架の魅
力に引き込まれ、次から次へと一気に長い詩を讃んでしまふ。それ故に百行二百行の詩であつても、原語の欧
詩で讃む場合には、決して退屈するといふことがない0丁度節の好い音楽を救いてるやうに、心地のよい陶酔
菊分でひかれながら、・いつしか絡まで讃んでしまふ○(但し日本語に詳した場合は、これほ■ど耐へがたい文学
はない。考へるだけでも戦慄する。)
∫夕 純正詩論

                                               ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 かくの如く西洋の詩は、本来その餞舌の中に魅力を持つので、言はばおしやべりが長所である。然るにその
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ぉしゃべりを以て欽陥とし、彼の詩の短所と考へる日本人は、初めから批判の立脚地々封舵してゐる。日本の
                                    ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
詩人は、国語の宿命づけられた因果からして、本来おしやぺりが出来ないのである。注意すべきことは、それ
を「しない」のでなくして、「出来ない」のである。日本語のやうな国語、かくも平坦無韻律の圃語を以て、
           ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
もしだちだらとお心やべりをし、百行二百行の詩を書くならば、その結果は退屈以外の何物でもない。百行は
疎か、三十行五十行の詩であつても、偶ほ日本語としては無理である。歴史を知つてる者は、古代の長歌や今
様やが、早くも既に一時の試作として廃つてしまひ、短歌や俳句の寸話だけが、濁り長く不易に残つた事資を
知り、併せてその必然な理由を知るであらう。明治の所謂新膿詩が、同様の理由によつてまた亡びた。新膿詩
は明治の所謂文明閑地が、西洋の文学を皮相に模倣しょうとして、本来国語の性質を異にする日本語から、欧
風の叙事詩や抒情詩を創らうとした無謀な計塞から出態した。その勇気は愛すぺきも、その認識は不足であり、
結局過渡期の試作として、失敗の中に厳つてしまつた。
                      ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 要するに日本語は、初めからおしやべやに通さない国語である。すぺての日本人と日本の文化が、本来さう
である如く、我々の言語もまた、本質的に「沈獣の金」で出来てる。(逆に考へれば、かうした日本語め・特色
が、月本人の気質や文化やを生んだのである。)日本語は沈款するほど意味が深く、しやぺるほど映陥が現は
れて来る。それ故に日本語の詩人にあつては、「美」が常に沈歎を意味して居り`「醜」が常に饅舌を意味して
ゐる。即ち我々と西洋とが、この鮎で明白の封舵になつてるのである。
 古来日本に於ても、幾人かの優れた天才詩人が現はれてゐる。.例へば人麿、赤人、芭蕉、蕪村等の如きは、
確かに世界的の一流者に属してゐる。しかもここに注意すべきは、彼等がみな和歌や俳句の作家であり、最短
詩形の詩人であつたといふことである。けだしさうした沈獣の詩形でのみ、自由に国語の長所を蜃挿し得、天
40
b−
\嘗ペ増々.川∃Wゼ‖
雫.増絹小勺.泊り」ノ.沼ン
 ∴漸の手腕を振ふことが出来たからだ。日本語には音楽がない0しかしながらこの妖陥は、同時にまたノ万での
 長所であつた。郎ち我々の詩人たちは、餞舌の代りに沈獣を蜃見し、国語の特有な「てにをは」や、語義の漠
 然とした象徴性や、自由で大腸な省略や、暗示と聯想に富む特質やから、世界に顆なき特殊なポエヂイを創造
 した。和歌や俳句やの如く、最も短い寸金的な詩形の中に、最も深遠にして含蓄の多い詩想を盛り、しかも幽
 玄にして象徴の暗示に富んでる詩は、西洋にも支那にも決してなく、正に世界唯一の文学である。
  しかしながら此等の事は、すべて皆その国語によつて決定されてる。日本語によつて、我々が日本語の詩を
 作る以上は、如何にしても和歌や俳句の詩が出来てくる。我々の国語によつて、我々に西洋風の詩を作ること
 が出来ないのは、丁度一方の西洋人に、英語や彿蘭西語で俳句が作れないのと同じである。もし彼等がそれを
 眞似たところで、所詮エタイの解らぬ滑稽なものにすぎない。しかもここに不思議なのは、今日の日本の詩人
 たちが、しきりに伶ほ西洋の詩を模倣し、二十行三十行の長話を書いてゐることである。そしてこの試作の動
 機が、新饅詩以来俸統した文明開化のあこがれであり、すべて西洋にある文拳を、日本に移植しょうとすると
  ころの、無謀な熱情に存するのは勿論である。
  だがかうした無謀について、我々は決して自ら笑ひ得ない立場にある。なぜなら今日現代の新日本は、社倉
 的に殆んど西洋化して居り、文明そのものの本質すらが、眈に日本固有の特色を失ひつつあるからである。即
 ちこのことを詳説すれば、今日現代の日本文化は、既にもはや「沈獣の金」を尊ぶ時代ではなくなつたのだ。
 我々がそれを欲しても欲しないでも、融合は次第に西洋風に攣化して行く。そして我々の日本人は、茶室や能
 楽の沈欺から迫ひ出されて、議曾や街路やに演舌し、盛んに雄粁術の稽古をしなければならなくなつた。今日
 以後の新日本語は、含蓄や暗示の沈獣的坐禅を学ぶょりは、餞舌にしやべることの練習が必要とされてる。換
 言すれば我々は、今日現代の日本に於て、さうした新政合に邁應さるべき、別種の新しい日本語を求めてゐる
イ∫ 純正詩論

のだ。そしてまた時代の文化が、同じ一つの欲情からして、我々の詩人に「新しき詩」を要求してゐる。その
                                                            ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
要求される「新しき詩」は、古い沈獣の詩形でなくして、西洋のそれと同じく、僕舌におしやべりをする詩な
のである。
 かうした時代の要求からして、我々現代の日本詩人は、あへて冒険にも過去を破壊し、和歌や俳句の俸統を
捨てたところで、より長行の詩を試作しっつあるのである。しかも不幸にして、我々の日本語そのものが、今
日伶ほ一つの新しい完成も示してゐない。今日現代の日本語は、本質上に於ては伶ほ依然として昔のままで、
昔の通りの文法や「てにをは」を使用してゐる。しかもそれが時代の雑駁によつて素乱し、語韻や語法の鮎に
於て、昔よりももつとひどく、惑溺猥雑の乱暴を極めてゐる。おょそ日本開聞以来、今日ほど文明が濃雑揮沌
を極めた時代はかつてなく、それ故にまた今日はど、言語が滅茶苦茶で雑駁混乱の時代もない。おそらく今日
の日本語ほど、未完成で非蛮衝的の国語は世界に無からう。「美」といふやうな観念からは、今の日本語は幾
千哩の圏外にある。しかも我々の現代詩人は、この非番術的な国語を以て、大憺にも「言葉の花」と呼ばれる
文畢、美の中の精美である詩を作らうといふのである。考へれば考へるほど、これが「恐ろしき冒険」でなく
                                                     ヽ ヽ ヽ ヽ
し.て何だらう。香、冒険と言ふょりは、むしろ全く無謀であり、向う見ずのでたらめでさへある。
 それ故に我々詩人は、初めから時代の犠牲者を以て自任してゐる。かくの如き日本、かくの如き国語の時代
に、かくの如き無謀の試作をあへてするのは、眞に犠牲者の自覚を以て、十字架を負ふ人に非ずば不可能であ
る。なぜならどんな天才でも、かかる事情の下に於ては、必ず蛮術的に失敗するにきまつてゐるから。かタし
た時代の日本に於て、自らその天才を自覚して居り、且つ天才を惜しむところの人.々等は、決してかかる無益
の仕事に、犠牲の浪費をしないであらう。すべての賢明の人たちは、今の日本で詩を書くよりは、必ず先づ小
                                     くた び
諜の方に走つて行く。詩を書くものは、勢多くして収穫なく、骨折り損の疲労れ儲けで、最も馬鹿馬鹿しい役
42
l巨
割である。
 しかしながら詩人だけが、今日の日本に於て、眞に時代の不合理な悩みを知つてる。それ故にまた詩人だけ
が、眞に現代の受難日を知り、時代の心臓に生きてるのである。この意味から論ずるならば、今日の最も無能
な詩人ですらが、筒ほ且つ悲壮な殉教者であり、時代の勇敢な英雄  たとへドンキホーテであるとしても
1である。言ふ迄もなく、もちろん我々の文学は試作であり、詩といふべくあまりに非番術でありすぎる。
我々の作品は雑駁であり、駄劣であり、殆んど人を魅力する美を軟いてる。これを芭蕉や蕉村の俳句に此し、
人麿や赤人の和歌に此すれば、今日我々の作る文学(詩)は到底季衝として論じ得られない瓦石であり、今日
過渡期の似而非文明を表象してゐる、猥雑未完成の一試作品にすぎないだらう。しかもこの無茶な冒険をあへ
てする外、どこに我々の行くべき造があるのだらうか。畢責するに、言語は文明の表象にすぎない故、日本の
文化が今日完成しない限りに於て、日本の国語の完成し得る望みもない。そして然らば、我々悲壮な詩人たち
は、自ら敗北を覚悟しっつ、時代の犠牲者として行くのみである。
イ∫ 純正詩論