非論理的性格の悲哀


 白でないものは黒である。もし白でも黒でもないものは、中間の灰色でなければならない。これが論理の原則であり、我々の推理の方式は、いつでもこの前提の上に組みたてられる。
 しかしながら多くの事実は、いつも人間の推理を裏切つてゐる。具体的なるすべての事実は、決して論理的であり得ない。特に我々の人格ほど、非論理的なものはないであらう。人格の実相は、実に矛盾そのものである。たとへばドストイエフスキイの著るしい特色は、変質者に特有なる非倫的・悪魔主義的の性向である。然るに彼の一面は、聖僧のやうに高潔で、処女のやうに純真なる人道的な特質を有してゐる。故にこの一の人格は、悪でなく善でなく、白でもなく黒でもない。しからば善悪の中間たる、あいまいな灰色人物であるだらうか? 否、ドストイエフスキイの人格は、神と悪魔の著るしい対立から成立してゐる。そこには北極と南極とがある。そして両極の調和たるべき、温帯地方といふものが全くない。即ち彼の人格は、白にして同時に黒、黒にして同時に白である。神と悪魔とは、いつも一の気質の中に、或るふしぎな様式で入り込みながら生棲してゐる。両者は決して調和をせず、また妥協をもしてゐない。彼は白でなく黒でなく、また灰色の人物でもない。
 同様なる非論理的事実が、トルストイやニイチエや、その他の多くの藝術的天才に就いて観察される。実に藝術家の本質的性格は、論理的矛盾の標本である。しかして偉大なる作家の性格ほど、より著るしい矛盾の対照を示してゐる。 ― げにあらゆる藝術的なものは、非論理的である。 ― やや平凡な作家と雖も、藝術家的気質を有する限りには、多少の非論理性をもたないものはないであらう。ただ反省的の偏質をもたない限り、人は自ら自己の矛盾に気がつかない。しかしてそれに気のつくとき、人は決して幸福であり得ない。何となれば吾人の意志が、人格の合理的完成を欲して止まないから。トルストイの晩年に於ける悲壮な生活など、その著るしい例であらう。

 ここに或る一人の人間が、いかに性格の矛盾にみたされ、且つ不断にその反省で苦しんでゐるかといふことを、私の読者に告げることも、あながち無意味ではないと思ふ。況んやその男は、多少文藝の才能を有してゐて、同情すべき人柄の男であるから。かりに私は、その人の名をSと名づけておく。もし読者の中に、多少彼と共通する性格の人を発見し得ば、Sはいかに自ら慰められるであらう。

 Sの生れたのは、田舎の或る小さな町であつた。彼の物質的環境は、比較的に平和で幸福であつたけれども、宿命的に生れついた偏質性が、早くから彼を不幸な人生に導いた。彼の長い生涯を苦しめてる、著るしい性格悲劇の発端は、実にその小学校の生活に始まつてゐる。小学校時代の思ひ出! それは多くの人にとつて、無上に楽しい甘美な追懐であるだらうが、濁りSにとつては反対であり、耐へがたき憎悪に値するほど、暗く苦々しいものであつた。何故ならばSの生涯を誤らした、不吉な厭人的情操や病鬱的精神や、その他のもろもろの悪しき苗は、その学校生活の小社会的環境によつて、ひとへに育まれたものであるから。
 しかし私は、ここでSの伝記を書かうと思ひ立つたのでない。実を言へば、環境が彼を悪くしたのでなく、彼の性格そのものが始めからこの種の社会的環境と調節できなかつたのであつたらう。Sの性格は、既にその頃から調和できない矛盾であつた。或る教師は、Sに就いて次のやうな批評を下した。「極めて善良で、内気で、正直で従順な模範的学生。」然るに別の教師は、常に反対な意見をもつてゐた。彼はSに対し、憎悪の感情をもつて言つた。「横着で、生意気で、高慢で、反抗好きの不良児童。」と。そして両方の観察とも、Sには適切に当つてゐた。
 Sの学校の子供等は、その気貿や性癖やの著るしい対照によつて、二派のはつきりした党派に別れてゐた。学業の成績から言ふならば、一方は「優等組」で、一方は「劣等組」であつた。性癖から言へば、一方は「温良組」で、一方は「不良組」であつた。またこの同じ対照を、気質上から観察すると、前者は「貴族派」と言ふべきで、後者は「平民派」と言ふべきだつた。即ち優等組・温良組に属する生徒等は、人品的に気位が高く、趣味が上品で、一般に高踏風の気風をもづてゐた。これに対して劣等組・不良組の一派に属する子供等は、人品が野卑で、ざつくばらんで、率直ではあるが賎しげだつた。
 貴族組と平民組と、この二つの党派に属する生徒等は、互に敵視してにらみ合つてた。彼等の関係は、表面全く没交渉のやうであつたが、内心では夫々対手の子供等を軽蔑し、気質的に肌の合はない憎悪の感情をかくしてゐた。Sの学校の子供等は判然とこの両派に別れてゐて、互に口を利き合ふこともしなかつた。然るに独りSだけは、その両党のいづれにも属しなかつた。ただ内気の彼は、他から誘惑されるままに、或は貴族組の子供と遊び、或は平民組の子供と遊んだ。しかしSが貴族組の子供に混つて遊ぶとき、彼はたちまち孤独を感じて、皆から仲間はづれになつてしまつた。何となればSの性癖には、どこかその連中と調和できない、もつとざつくばらんで野卑な気持ちがあつたから。彼が何か発言するとき、いつもその仲間の子供たちが顔をしかめた。つまりSの性癖にまで、何かの貴族組らしからぬ、肌の合はないものがあつたのである。
 しかしながらSが、平民組の子供等と遊ぶときは、.それよりも尚一層不幸であつた。或る種の悪戯をしたり、教師に反抗したり、思ひ切つた率直の気分を露出したりすることで、時に仲間らしい共鳴を感じてゐながら、気質のどこかの隅に於て、全く肌の合はないものを感じてゐた。それ故平民組の子供等と一所に居る時、Sはいつも貴族組の子供の気品をしたつてゐた。そして貴族組と遊んでゐるとき、平民組の子供の野性的な気風にこがれてゐた。かくしてSは、あらゆる生徒中での仲間はづれであり、どんな気質の子供とも親しめなかつた。彼の不幸は、単に孤独であつたばかりでなく、気質の毛色変りのために、理由なく憎まれて、迫害されたことである。即ち貴族組の子供は、彼等一流の傲慢な態度によつて、皮肉らしくSを嘲笑し敬遠した。そして平民組の子供等は、烏が旅鴉をいぢめるやうに、腕力によつて乱暴になぐりつけた。賓際Sは立場が無かつた。学校の社会そのものが、彼には呪ふべき最悪であり、その殺風景なる建物は、彼を苦しめる牢獄の如く思はれた。

 宿命的悲劇とも言ふべき、Sのこの非論理的性格は、彼が成長するにしたがつて、益々著るしく多角的になつてきた。気質のあらゆる方面、趣味の至る所の傾向に、互に矛盾し反対する二つのものが、全然不調和に対立してゐることをSは明らかに自覚してきた。元来Sの慣貿は、胆汁質に属してゐるため、気質的に憂鬱の傾向をもつてゐるのに、その趣味は反対に陽快のものに向つてゐた。音楽でも、美術でも、演劇でも、すべてSの好きなものは、陽気で、賑やかで、明るい気分と色彩に充ち、多分の健康性をもつたものに限られた。暗く陰気なものは、じめじめした暗鬱の気分のものは、本能的に厭ひであつて、見向くことさへもイヤであつた。この気質と趣味との、実に著るしき矛盾から、彼の個性的情操には、一種ふしぎなる色を生じた。たとへば彼の時々作る叙情詩は、思想的には憂鬱の内景をもちながら、言語の感覚や気分の上では、むしろ陽快に近く明るい感じのものであつた。
 Sの性格は、一方に全く哲人的のものであつた。彼は冥想を愛して、俗界の感覚的生活を賎しむ如き、超俗的高邁の気風を持つてる人物である。しかも同時に、Sは純粋の俗物であり、感覚の快楽を追つて精神を顧みない、一の現実的人間主義者の如く思はれる。この前の性向が、彼に哲人の見得をあたへ、この後の性向が、彼に近代的藝術家の見得をあたへた。しかも彼の本質は、その何れでもないのである。そして勿論、また両者の中間的調和でもない。ただ彼のいたづらに書く藝術が、ふしぎにその非論理な情操を表出してゐる。即ち「心霊的な内容」と「感覚的な気分」とが、一の作品の中に竝立してゐた。
 Sの趣味性の本体には、実の洗煉を悦ぶところの、高踏的、唯美派的の気位がある。しかるにSの本性的気質は、率直な野生を愛し、典雅を排して直情の流露を悦ぶ所の、真の自由主義者なのである。この高踏的精神と野性的気質。唯美主義と自由主義との、全く互に容れない矛盾が、いかにして一の人格中に同居してゐるだらうか? そはやはり彼の藝術によつて語られてる。その藝術品は、或る高踏派的な情操をもちながら、形式は極めて野生的、民衆的のものであり、最も平易にして大胆なる自由主義の表現に訴へてある。

 かくの如く、要するにSの性格は、徹頭徹尾矛盾にみちてる。二の反対する両極が、いつも彼の中に対立して、非論理的なる情操を形象してゐる。このふしぎなる情操は、その非論理的なるにもかかはらず ― 否、非論理的なる故に ― 彼の藝術品の特殊な個性を構成してゐる。しかしながら統一は、ただ藝術品に於てのみ。生活上に於けるSの人生は、実に支離滅裂たるものである。彼のあらゆる性格悲劇が、いつもその点から出発してゐる。その性格悲劇は、彼の人生を破産しようと試みてゐる。彼の運命は、いつも弟子に裏切られ、愛人に怨恨され、世人に誤解され、しかして友人からは少しも理解されないのである。

 読者よ! この非論理性格の所有者、Sの何人たるかは、既に諸君の推察したであらう如く、正に私自身である。今や私は、一個の貧しき文人として生活してゐる。しかも詩壇における私の地位、社会における私の地位は、かつて昔、小学校に於て経験したる如く、全くそれと同様であり、人生の初学に始めて知つた環境は、ずつと今日に至るまで、さらに少しも変つてゐない。私をして、常に永遠の敵と孤独の中に生かしめよ!私をして白でなく、黒でなく、またその中間色にも属しない。一の断然たる個性として生かしめよ!