詩壇の先入見を排す
日本の詩壇も、新饅詩から教展してきて今日の境に達してゐるが、これから先どうなることか、■ちょつと見
嘗がつかない0今の詩壇は自由詩の濁占時代で、普通に「詩」といふ青葉が、それ自髄で自由詩を意味してゐ
るほどである○それで或る人たちは、この傾向に飽きたらないで新律格詩の提唱をとなへてゐるが、それは単
に表壇の観念」に止まるので、質際には内容の無いものである0今の所では、普分偽自由詩の全盛時代がつ

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づくだらう。したがつて詩の形式は益ヒ乱雑となり、散文との直別がわからなくなつてくる。
 既に現在する詩壇でも、詩を散文と直別する箇所は全くない。僅かにフレーズの句鮎で行を切り、横にアン
テナを張つて書く仕方で、詩らしい外観を装うて居るにすぎない。しかしこんな皮相の外観で、詩を散文と直
別することの愚は言ふ迄もない。もしそれが詩と散文の直別なら、どんな任意の散文でも、旬鮎で行を切りわ
けて書きさへすれば、所謂「長節叙事詩」になつてしまふ。
 元来言へば、詩の行をわけて書くのが無意味である。この行をわけて書く仕方は、そもそも新膿詩が開組で
あつて、新膿詩以後、すべて詩といふ文学が、それ自饅で横長の形を聯想させるやうになつてきた。そこで新
膿詩が、始めにどうしてこんな書式を試みたかといふに、言ふまでもなく、西洋の詩の形慣を模したのである。
新饅詩の律格は、人の知る如く七五調や五七調を主にしてゐる。即ち日本に昔からある今様や長歌と同律であ
り、日本詩歌の俸統的な盲調であつて、何等新しいものではない。明治の初年、始めて新鰹詩を創意した文学
者が、彼等の俸統的な国学者の趣味によつて、この今様風の古調を踏襲したのは、全く自然のことであつた。
しかしながら彼等は、この古き国粋の形式に、新しき時代のもたらした欧洲風の情操を盛らうとした。もちろ
ん欧洲風といつても、今の眼から見ればむしろ国粋的のものであらうが、常時始めて欧洲の文明に濁れて、一
大攣化を生じた所の、新日本の青年の新情操を歌はうとしたのである。これが即ち新饅詩の創意であつた。
 それ故に新饅詩は、形式の古さにかかはらず、精神的には大に新しいものであり、新日本のロマンチシズム
が封象とする「西洋へのあこがれ」を本質としてゐた。即ち今日の所謂「文化」往時の所謂「文明開化」が生
んだ産物であり、ひたすら欧化を理想する新文筆であつた。尤もこれは新饅詩に限らず、和歌も俳句も皆革命
の時機に際し、各の固有な古い形式に、新しい時代の内容を盛りつけた。だから常時の新しき短詩を「新汲和
歌」とか「新汲俳句」とか呼んだやうに、同じ理由から新鰹詩を「新汲今様」と言ふべきだつた。然るに新饉
タj 詩論と感想

詩が、濁り新汲今様の名で呼ばれずして、全然新奇な文畢の名で呼ばれたのは、その舶来臭い見得が別して著
るしかつた鳥である0賓際に新慣詩人は、自ら全くそれを日本蕾爽の古文畢と差別して、賓に軟洲文学の直詳
輸入と考へてゐた0常時の新饅詩人は、ひそかに自分をキイツやハイネに比して考へ、内容形式共に西洋のソ
ネット等と同一巌の詩に擬してゐた。
 かうした事情からして、彼等がその詩の書法に於ても、西洋叙情詩の外面を模擬し、韻律の聯によつて行を
わける方法を工夫したのは官然である0元来日本長詩、印ち今棟、長歌等の七五調文畢は、調律の句切れだけ
を二間あけて、上からのぺつに書き流すのが方式である0これを一脚聯毎に行わけして、紙の天地に多くの鎗
白をあける書式は、明治以前には無いことであり、この新書式は全く西洋詩のハイカラな形式を模したのであ
る0新鰹詩が賓は「新汲今様」なるにかかはらず、特別珍らしきハイカラのものに考へられたのは、この歌洲
詩風の新書式が、見かけの上で人を驚かし、賓の古典的格調をごまかした為である。(いつの世でも、群集は
皮相の見かけだけを見て、物の本質を知らうとしない。)
 新饅詩以後、この行わけの歌風書式は、詩人の先入見的習性となり、爾後今日に至るまで、詩と言へば必ず
欧詩風の横書きを慣例としてゐる○今日では多くの詩人が、自ら理由を知ることなく、革にありきたりの習慣
で、・丁度蟻が習性で餌を運ぶやうに無意識の書法を選み、嘗詩壇の俸統を固く守つて自ら反間するこ喜へも
ない0もとより蟻や良品のすることは、その青目的な習性が、それ自饅の必然な意義を有してゐるが、人間の
場合はさうでない0我々の無意識でする習性には、ずゐぶん馬鹿菊たことも多々ある。詩壇の習性もさうであ
つて、詩といへば必ず横書きにするやうな先入見は、外部から見てょほど馬鹿らしい習性である。ただこの馬
鹿らしき、理由なき因襲観のために、現に詩の正常な餞達が、どれだけ害されてゐるかも知れない。例へば普
通の平凡な散文で書くぺきものを、畢に因襲の書式にあてはめ、句鮎で行を切つて横に書くため、その葺に詩
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でないものが、誤つて}般から詩と呼ばれる。そして本官の立汲な詩が、単に書式が典型でないことから、散
文もしくは散文詩などと呼ばれてゐる。文学の表現が、畢に皮相の書式によつて、単なる書き方の見かけにょ
って、印刷の憶裁から区別されるといふならば、世にこんな漫常識の話はなからう。そして賓に今の日本の詩
壇がさうである。詩壇は賽に印刷の憶裁から、紙面の天地における飴自の多少によつて、すべての文学を「詩」
と「散文」とに直鰍してゐる。
 すぺて存在する者は、存在の理由と必然を有してゐる。元来、西洋の詩があの横書きの書式を有するのは、
洋詩の本来の約束たる押韻の法則のためである。即ち詩語の平灰とシラブルの敷を合せ、行の脚頚を正しく封
照させて行くのである。西洋の普通の詩には、あの書式が必然であり、あの書式の上に、詩の律格が成立して
ゐる。然るに日本の詩はこれとちがふ。日本の詩には平灰法もなくシラブルの調節もない。萌脚法もなく重哉
法の定まれる約束もない。日本の今様や新饅詩は、畢に七もしくは五の語数を数へるのみで、他に音律上の封
照が約束されてゐないからして、資には何の書式も必要がないのである。故に昔からして、今様や長歌の書法
はのぺつの書き流しで、外見上散文と少しもちがふ所はない。(和歌も多くは書き流しである。上下の句を切
って二行にしたのは一部特殊の書式であつて、一般的のものではなかつた。)ただ或る種の書式に於て長歌等
の七五を一聯とし、他の一聯との間に些少の客間をおいたものがあるけれども、これは句鮎をうつ代りであり、
畢に讃み易くするための親切にすぎないのだ。
 明治の新膿詩人が、その日本的節律の詩に、欧詩風の書式を適用したことは時人にとつては珍らしく新しい
試みであり、また詩人自身のハイカラ趣味を大いに満足させたにちがひないが、本質的には必要のない試みで
あり、一の好奇的遊戯にすぎなかつた観がある。すくなくともこの新書式は、内容的に必然性のあるものでは
ない。然るに爾後今日に至るまで、この書式が詩壇の俸統にこびりつき、何がなし詩と云へば西洋の如く横書
タア 詩論と感想

きの形を聯想するまで、詩人の先入見となつたのは不思議である0新饅詩の如く、一定の語数的格調を有する
もので、尚且つ横書き饅の無意味なことは上述の如くである0然らば況んや自由詩の如く、全然調節も格律も
定めない詩に於て、それの根本的に無意味なことは言ふまでもない0眞の自由詩は、その形式に於て官由なる
如く、もちろん書式に於ても自由でなければならないだらう0今日の自由詩は、押韻詩からの自由を要求して
生れたるにかかはらず、その書法に於ては無意味に押哉詩の蕾饅を模擬してゐる。丁度あだかも新鰹詩が、皮
相に洋詩の外観を模したやうに、自由詩がまた古風の詩の形饅に囚はれてゐる。もちろんこのことは、現代西
洋の自由詩人に封しても言ふのである。
今や、詩のすぺての情操は攣化し、詩の内容は時々に新しくなつてゐるのにかかはらず、詩の線覚に象形し
て見せる書式のみは、依然としてホーメ〜の太古から俸統し、依然として押韻的横書きの古濃を攣へない。既
に押韻の約束を破つた自由詩にして、尚且つ外観では古式に則り、昔ながらの「詩らしい因襲の詩の形」をそ
の横行のアンテナ線に現はしてゐる○思ふに書式も、また詩の内容の議である。香考へ方にょつては、それ
が菅重要な意味をもつかも知れない0何となればかかる因襲的なる詩の先入見に捕はれてゐることが、ケれ
自ら情操の卓め▼かしさを澄明するから▼0未来の新しき詩壇の飛躍は、さういふ頭から出て来ない。
 書法の形式を打破することの、忘重要なる利益は、それにょつて似而非の悪詩が洩落し、眞の優秀なる詩
だけが後に残ることである0今日多くのアヤフヤなる詩人は、単に散文の句鮎を切つて筍の横書きにすること
により、本来詩でないものに裔の衣裳をきせ、それで人目をあざむいてゐる。然るにゴマカシの衣裳を奪ひ、
見かけの書式を廃して等しく書き流しの文とすれば、詩と似而非詩との直別は明瞭になり、だれも欺かれるこ
とがなくなつてくる○但し此所に至つて新し←起る問題は、然らば詩と散文とを何にょつて直別すぺきかとい
ふ貸間である○かくて人々は、始めて「詩とは何ぞや」といふ眞の本質の考察に入る。今日の如く人々が、詩
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と散文との別を単なる書式の見かけに訴へ、詩を印刷衝の一様式と考へてゐる程、それほど麹薄の時代に何を
説いてもわかりはしない。
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  、、・一付ま丸