僕の写真機


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 馬眞といふものに、一時熱中したことがあつた。しかし僕の馬眞機は、普通のカメラと大に欒つたものであ
った。普通の馬眞機は、レンズが一つしかないのであるが、僕のはレンズが二つあつて、それが左右同時に開
閉し、一枚の細長い乾板に、二つの同じやうな檜が馬るのである。これを陽董にしてから、特殊のノゾキ眼鏡
に入れてみると、左右二つの檜が一緒に重なり、立膿的に浮上つて見えるのである。と言へば、すぐ讃者にも
解るであらうが、つまり僕の愛玩した馬眞域は、日本で俗に双眼焉眞と呼んでる、彿蘭西製のステレオスコー
プなのであつた。
 このステレオスコープは、日本に爽てから随分古い年代が経ち、既に明治初年時代にさへ、大形の物が輸入
されてゐたにかかはらず、どういふわけか、日本では一向に流行しない。僕がこんな器械を持つてることさへ
友人たちは軽蔑して、何んだそんな玩具みたいなものをといふ。欧洲、特に彿蘭西あたりでは、今伶盛んに行
はれて、馬眞材料店の飾窓に幅を利かせて居るといふステレオが、日本で玩具扱ひにされ、市中にその販膏店
さへもないといふのは、何かそこに彼我国民性の趣味的相違があると思ふが、とにかく僕にとつては、このス
テレオスコープだけが、唯一無二の好伴侶だつたのである。そしてこれには僕自身の為に必然の理由があるの
だ0
元来、僕が焉眞磯を蒋つてゐるのは、記銭馬眞のメモリイを作る為でもなく、また所謂蜃衝馬眞を裳す為で
jイア 随筆

もない〇一言にして壷せば、僕はその器械の光孝的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されてる、自分の
心の郷愁が馬したいのだ○僕の心の中には、背から一種の郷愁が巣を食つてる。それは俳句の所謂「佗びしを
り」のやうなものでもあるし、劫ない日に救いた母の子守唄のやうでもあるし、無限へのロマンチックな思慕
でもあるし、もつとやるせない心の哀切な歌でもある○そしてかかる僕の郷愁を馬すためには、ステレオの立
饅馬異にまさるものがないのである0なぜならステレオ馬眞そのものが、本来パノラマの小模型で、あの特殊
なパノラマ的情愁1パノラマといふものは、不思議に郷愁的の侍しい感じがするものである1を本質して
ゐるからである。
 僕はそのカメラを手にして、町や田舎の様々な景色を馬した0ある高原地方では、秋革を前景にして、遠く
噂煙してゐる山を馬した○ある山間の田舎町では、洋物店の軒にさがつた、紅白だんだらの煽塙傘を前景にし
て、人通りのない童の寂しい街路を馬した0それを箱に入れて覗いて見ると、族に見た通りの景色が、第三次
元の立饅になつて、さながら浮き上つて見えるのである0此所で「賓景のやうに」と言ひたいが、わざとさう
言はないのは、ステレオのパノラマライタが、賓景とは少しちがつて、不思議に幻想的であるからである。此
所では前景と後景との距離がパノラマに於ける書物と檜董のやうに、錯覚めいた客間表象を感じさせる。その
食前景の秋革や媚蠣傘やが、強く印象的に迫つて衆て、後景が一層遠く後退し、長い時間の持績してゐる夢の
中で、不動に静寂してゐるやうに思はれるのである。そしてこの幻想的な印象Yもまさつて物権しく、ロマン
チックに、心の郷愁をそそることは言ふ迄もない0僕が普通の馬眞に興味を持たず、ステレオばかり為した理
由も此所にある○普通の馬眞は平面であり、二次元の世界しか再現しない。故にそれが、馬眞的にリアリスチ
ックであればあるほど、いょいょ僕の心の「夢」や「詩」から遠ざかつて来る。僕の心のノスタルヂアは、第
 三次元の客間からのみ、幻想的に構成されるからである。
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 僕は今でも、昔ながらのステレオスコープを愛蔵してゐる。だが事攣の起る少し前から、全くその特殊なフ
ィルムや乾板の輸入が絶え、たださへ入手困難だつた材料が、いょいょ絶望的に得られなくなつてしまつた。
その上にカメラも破損し、安償の玩弄品以外には、新しい器械を買ふことができなくなつた。これは僕にとつ
て、いささか寂しいことである。