科学と日本人
 東洋に科挙がない。詳しくいへば、東洋人に科挙的知性がない。といふやうな考は、言ふ迄もなく、歴史を
知らない人の迷妄である。舌代エヂプト人は、紀元前何世紀の昔に於て、驚嘆すべき大科学を所有して居た。
希騰の最も偉大な哲畢者、アリストテレスのやうな人でさへも、科挙知識に関する限り、エヂプトから多くを
革んで居たのであつた。古代アラビアの科挙は、もつと輝かしいものであつた。彼等の餞達した数学や、天文
孝や、物理学やは、さうした科挙的知識の全然なかつた、十字軍の欧羅巴人を驚かせ、彼等をその宗教的迷信
の聞から救つた。しかし就中、支那は世界の最も偉大な科挙園であつた。すべて西洋人が、近世の終りになつ
て饅明した多くの物、即ち紙、火薬、活字、印刷術、磁石等の物は早く数千年前の昔に於て、支那人の饅明し
たものであつた。椅子のやうな物でさへも、太古の支那人が饅明して、最初にその製法を知つて居たので為っ
た。「すべて西洋に今有るものは、昔の支那に全部有つた。」と、多くの支那人が豪語してることは、決して必
しも誇張にすぎた自尊ではない。
 しかしかうした東洋文化は、或る不可思議な事情の為に、支部に於ても、他国に於ても轟く廃滅してしまつ
イβ∫ 文明論・祀合風俗時評

たのである0過去に椅子の製法を簡明した支那人が、今日西洋から舶来した椅子を見て、物珍らしげに驚異の
眼を見張るといふことほど、文化の興亡の歴史に於ける、皮肉な進化論的宿命を語るものはないであらう。上
              けんらん
古にあつて、それほどにも絢爛としてゐた大文明が、今日跡形もなく滑滅し、その一つの痕跡すらも残して居
ないといふことは、不思議に何か有り得ぺからざる、奇異な幻覚的の感じをあたへる。事賓とは、いつでもそ
の同じ場所に、感覚が常存するといふ信念である、といつたロック・ヒユームの哲学は、東洋の歴史について、
しばしば或る虚妄な幻想を抱かせるのである。
 今日東方諸邦の中で、眞に科挙を有してゐる唯二の囲は、質に我が日本だけである。勿論今の日本の科挙は、
大部分が西洋の模倣であり、西洋人の俸へた技術と孝理を、孜々として寧習してゐる程度にすぎない。しかし
過去の日本に於て、全然科挙といふものがなく、支那、エヂプトに於ける如き、光輝あるその文他史が無かつ
たことを考へれば、全く新しい出餞としての、日本の畢習現状は官然である。今や現代の日本は、軍事的、経
済的、工業的、留学的、その他の様々の必要な事情にかられて、他動的に香應なく、科学圃にならざるを得な
い状態にある0大多数の日本人が、それを欲する欲しないとに関らず、将来の新日本が、益ヒ科挙圃になるぺ
きことは明らかである。
 さて此所で提出される問題は、我々日本人が人種的に科挙的才能の天分をもち、その方面の知性に於て、人
種の遺俸的優越性を持つてるか香かといふこと、文明の将来の競争に於て、世界の科挙圃たる濁逸や俳蘭西や
を、よく凌駕することが出来るか香かといふ疑問である○思ふにかうした疑問は、今日多くの日本人−大衆
も知識階級者も1が、意識的または無意識に、漠然と考へてることにちがひない。なぜなら過去の日本文化
には殆んど全く、科挙がオ・、、ツーされて居たからである0エヂプdアラビア、印度、支那等の東方諸国の中
で、古来眞の哲革的瞑想と科挙的技術を知らなかつた国民は、不思議にもただ日本一図であつた。支那、印度
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[確瑠
那那那那針針針頂当遥1基地頓箋以頸ふ県の濁創的な哲畢を持な孜かつた日本人は、同時にまた眞の科挙をも知らなかづねゃ軽かもその
         日本人が、今日東洋諸囲に於ける、唯一の科挙国民たらうとして、日夜に孜々として勉めて居るのだ。果して
        それが成功するかは、何人も一考する凝問であらう。なぜなら無から有は生じないし、人種的遺俸の素因なし
         に、新しい文化的創造はできないから。
         しかしこの疑問については、近い頃の歴史に照して、可成に楽観的の見方ができる。すくなくとも究理的知
        性の鮎に於て、日本人の天稟的な優秀性は疑はれない。近世の日本歴史は、さうした多くの事茸を斉澄してゐ
        る。徳川三宮年の鎖国時代にさへ、いかに多くの科挙的態明や新機械が、日本人の手によつて創作されたこと
         であらう。すぺての科学的研究や新餞明が、切支丹の邪教と同一現され、厳重に監硯されて居たその頃でさへ
        も、平賀源内等を始めとして、多くの隠れた科学者が民間に居た。それらの人々の中には、飛行機や、電気磯
       城や、蒸汽ポンプや精巧な時計を製作した人が居た。特に腎革と植物畢等の自然科挙は、江戸末期に於て著る
        しく磯達した。勿論その多くは、長崎の狭い門戸を通じて俸はつて来た、西欧知識の灰かな微光を頼りとして、
        学ば手探りで創見した物であつたが、そのことの反語は、日本人の科挙的探求の熱心さと、さうした智能の優
         秀性を語るのである。
         ペルリが浦賀に上陸した時、その頃西洋で態明された、多くの珍らしい科孝機械を公開して、日本の役人た
        ちに見物させた。その中には一種の原始的な琴音域もあり、模型のレールを走る汽車もあつた。日本の役人た
        ちが、それを見て如何に驚き、如何に不思議がつたかといふことは、ペルリの航海記に詳記してある。彼等の
        日本人たちは、琴音域の内箱を開け、原理の詳しい物理的解説を聞くまでは、磯城を調ぺることを止めなかつ
        た。そして模型の汽車の屋根の上に、多くのチヨンマゲに結つた武士たちが、馬乗りになつて試乗することを
        強要した。ペルリはそれを見て大に驚き、すぺての有色人種の中で、これほど好奇心が強く、究理に熱心な囲
イβj 文明論・社合風俗時評

民を見たことがないといひ、ひそかに大統領に書を迭つて、日本人の渚来恐るぺしと警告した。
十七世紀の始め、日本に漂泊して家康の知遇を得た三浦安針のウイリアム・アダムスは、その故郷の妻に手
紙を迭つて、家康との封話を詳しく書いてる0家康が彼に質問したことは、世界の政治的情勢の外、主として
天文、物理、幾何学に関する知識であつたが、特にその幾何畢に関する家康の質問は、知識の深く正確なこと
に於て、阿蘭陀船の水先案内を駕嘆させた0要らく極東の有色人種が、ユークリッドの敷革に興味と造詣と
を持つてることは、彼の漁想しないことであらう○そしてその頃日本に爽た若干の外国人は、多くの日本の知
識階級者から、種々なる科挙↓の原理について、執念深く熱心に質問された。
すぺてかうした事賓は、日本人が天稟的な科挙人種であり、素質的にその研究を好むところの、学問的知性
人であることを芸して居る○しかもかうした日本人の才能と好学心とは、或る政治的の事情にょつて、長い
間為政者から禁歴されてた0もしくはまた、それを磯育するチャンスに志まれなかつた。然るに明治の開園以
来、すぺての禁慧ら解放され、自由の研究を許された是人が、滑々としてその研究に向つた時、どんな驚
くべき結果を生ずるかは明らかである○開園以率半世紀にして、我等は忽ちに西洋科挙と物質文明の全部を革
んだ○腎革も、戦術も、電霊丁も、建築革も、工業化学も、すぺて我等の技術と畢問とは、今日決して西洋に
劣つて居ない0しかもそれは奇蹟1無から生じた有1ではなく、始から素因的にあつた種が、環境の邁所
を得て自然に磯育した開筏であつた。
 だがしかし、すぺて此等の事賓と成功にもかかはらず、科挙圃としての日本の未来に、私は伺大きな疑問を
もつものである0なぜなら日本人の科挙する心意や態度(目的意識その、もの)が、本来極めて非科挙的である
からである0小泉∧雲のラフカヂオ・ヘルンは、日本の将来に多大の希望をかけながらも日本人の科畢的精神
 にづいては、不可知静的な疑問をかかげて、その学習の困難さを指摘して居る。欧洲にある日本の留学生につ
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いて、〉彼は次のやうな観察を述べてる。多くの日本の留学生等は、科挙の純粋な拳理については、殆んど全く
興味を持たないやうに思はれる。彼等が眞に興味をもつて熱心に研究するのは、留学と戦術だけであり、他に
は航海術等の應用科挙のみであると。幕末の日本に来て、日本人に物理学の初歩を敦へたシーボルトは、彼の
生徒であつた青年武士等が、最初に先づ質問するところのことが、極つて「それが何の役に立つか」「どんな
賓益になるか」といふ顆の件であり、科挙の眞の目的であるところの、純正な知的探求に関しては、殆んど興
味を示さないやうに見えたと書いてる。
 かうした外国人の観察は、今日科挙を革んでる一般の日本畢生に対しても、昔と同じく眞音であると思はれ
る。工科の生徒も、理科の生徒も、何の為に学問するかといふ問に対して、おそらくその技術の習得から、政
令的地位や職業を得る為と答へるだらう。そしてさらに彼等の中、もつと浪漫的の抱負を持つたものは、その
研究や知識によつて、国家敢合の為に貢献し、日本に奉公する為と答へるだらう0だがその何れの答も、異に
科挙を畢ぶものの態度ではない。
 元来「寧問」といふ日本語は、西洋のそれと大に意味を異にして、特殊の内容を持つた言葉であつた0日本
の封建時代に於て、一般に「畢問」といはれたものは、四書五経を讃むことであり、修身再家の徳ををさめ、
併せて経世治民の要綱を知ることだつた。即ち日本語の「学問」とは、賓践倫理学と賓践政治撃とを意味して
居た。そして要するに、現資杜合の音利に役立ち、直ちに以て利用厚生に益することの知識であつた0そして
それ以外に、日本に「学問」と呼ばれるものは無かつた0それ故にこそ、シーボルトに革んだ武士たちが、そ
の知識の質利的な「用」を問ふまで、決してそれを「寧」と思はなかつたのも官然だつた0
 かうした儒教的功利主義が、長い間の遺俸的薫育によつて、日本人の知的意向を観念づけ、一種の民族的道
徳観と結びついた。それからして日本人は、本能的に非賓用的な知識や、洩倫理的な思想を毛嫌ひする0何等
イβj 文明論・敵合風俗時評

かの意味に於て、それが囲利民頑に禅益を輿へ、直接の音生活に役立たなければ、決して彼等はその孝を承認
しない0さうした非賓利的の餞明や研究やは、むしろ有閑無益の「意」とさへ考へられてゐる。それ故昔の日
本で、留学の新しい治療法を研究した孝者は、幕府や庶人から感謝されたが、飛行機を磯明した猟奇人は、何
等の報いを得ないばかりか、危ふく獄罰されたかも知れないのである。然るに科挙的饅明の再出饅は、すぺて
賓生活の利筈と何の関係もないところの、純粋の知的探求、純粋の猟奇心、そして要するに純粋の浪漫的精神
にもとづいてゐる0馬眞磯も、幻燈も、蓄音機も、はたまた進化論や地動読も、すぺて賓生活の功利とは関係
なく、純粋の知的猟奇心によつて簡明された0おそらくそれらの饅明者等は、過去の日本政府から叱貴され過
去の一般民衆からは、有閑無用事に耽る愚人として、侮辱的に嘲笑されたであらう。そして「過去」ばかりで
はない0現代二十世紀の日本に於ても、この邁俸的な儒学思想は、伺深く政府官局者の頭脳に弛みこんでゐる。
その一つの事賓は、最近政府が宣言して、科学者をその研究室たる「象牙の塔」から迫ひ出し、衝に活躍させ
ようとしたことでも明らかである。
 明治時代の青年は、寧校に入らうとする出饅の日に、「男子志ヲ立テテ郷関ヲ出ヅ。寧モシ戌ラズンバ死ス
トモ琴フジ0」と悲壮な饗をあげて詩吟した○おそらくその時、疲等は頭に鉢巻をし、腰に日本刀を帯び、敵
陣に切り込むやうな気概で剣舞をした0寧問を寧ぶといふことは、さうした青年たちにとつて、戦場へ出陣す
る武士の菊持と同じであつた0第一議合の選挙の時、自由民権薫の壮士たちが、抜刀心て敵の壮士と渡り合ひ、
多くの死傷者を出したのを見て、小泉八雲がかう言つてる0日本の政事青年たちは、自己の理性の判断によつ
て、主義や政見のために戦ふのでなく、彼等の心服する裳統のために、忠義を壷さうとして戦ふのであると。
質際日本の攻囲史は、明治以来最近に至る迄、八雲の観察した通りであつた。多くの熱狂的な政事青年等は、
理性によづて行虜したのではなく、総裁の人格や温情に感激し、義によつて身命を捧げょうとしたのであつた。
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丁度駄軋り心情は釘弘椚水次船長†家のものが懲向鉢巻に自律毎て、敵陣へ乗り込んで行くのと同じであづた0
板垣退助に率ゐられた自由業の壮士たちも、所詮は次郎長一味の「若い者」と同じであつた0そこで「日本人
は薫に忠義を表すために政争する。」と批評した小泉八雲は、悲壮な剣舞をする青年を見て、同じくまた「日
本人は忠義のために拳問する。」と言つた。学問と戦争とを同一親し、日本刀を抱へて大挙へ入牢する青年は、
世界におそらく日本人より外にないであらう。さうした青年等の気概は、爆弾を抱いて敵陣へ突進する決死除
の菊塊であり、主君のために仇を報じょうとして、悲壮な決心をした四十七士の気概であつた〇八雲の言葉は、
外国人の眼から見て、それが甚だ奇怪であり、ユーモラスでもあることを意味してゐる0
 小学校の生徒たちは彼自身の意見をもたない0彼等は先生や年長者の教訓を、無意識に反詞するにすぎない0
しかし「何のために学問するか」といふ問に封して、西洋の生徒たちはかう答へる0攣止濁歩の精紳を養ふた
めに、或は紳士としての教養を畢ぷために、或は公明正義の観念を把持するためにと0然るに日本の小学生は、
殆んど一人残らずかう答へる。お園の役に立つ人物となるためにと0そしてこの小学生の答は、日本の民衆一
般の思想を代表して居るのである。
即ちその畢に志す出態の日に、悲壮な馨をあげて剣舞をする青年の心情には、何かしら涙ぐましい、日本人
的な感傷性が感じられる。だがさうした種類の感傷性は、おそらく厳正科挙の研究心とは、全く縁もゆかりも
ないものである。彼等の畢生たちが、その感傷性と日本刀を捨てない限り、到底西洋科挙の眞髄は拳び得ない0
幕末欧洲に汲通された留学生が、常に日本刀を帯びて教室に入り、機械畢や電気畢の講義を鵜きながら、一
一悲壮な條慨をしてゐたといふことは、結局彼等が、科挙を理解しなか・つたことを意味して居る0
男子志を立てて郷関を出た青年は、革もし成らずば死すとも故郷に辟らなかつた0しかしその「挙が成る」
といふことは、結局学校を卒業して、立身出世をするといふことを意味して居た0さうした青年たちの理想は、
4βア 文明論・杜禽風俗時評

政府の重要な地位につき、官吏となつて八字髭をはやし、馬車に乗つて街上を騒走するといふことだつた。即
ち寧問の目的は、結局「立身出世」といふのだつた0それ故、前の詩吟の封句は、「錦ヲ看テ故郷二蹄ル」と
いふ言葉になつてゐる0明治時代の新汲劇や書生芝居は、かうした時代の風潮をよく馬資して居た。主人公は
たいてい貧乏な苦学生であり、人力車犬などになつて勉強してゐる0それを或る義侠の人士1多くの場合は
蓼者である1が、ひそかに保護して救援し、遽に学校を卒業させる0そこで昨日の苦畢生は、一躍政府の官
員となり、鼻下に髭を生やして洋服を看、山高帽子を被つて堂完る紳士になる。そして劇の終幕には、昔の
情人や保護者と廻合し、その零落を救つて報恩するといふ筋になつてる。
 かうしたストーリイの新汲悲劇は、今日既に厳つてしまつた0だが寧間の目的を「立身出世」におく畢生の
気風と鞋曾思潮は、今日でも伶依然として同じであり、明治以来少しも攣化したところがない。ただ多くの学
生の理想が、山高帽子の官員から、禽祀のサラリイマンになつたといふだけの攣化にすぎない。そしてかかる
杜令息潮の根源には、「身を立て名をあぐ0これを孝の経とす。」といふ、儒教の倫理学が潜在してゐることを
知らねばならない0即ち「忠義」のために学問する日本人は、同時にまた「孝行」のために学問して居るので
ある0そして要するに、日本人にとつての畢間とは、「仁義忠孝の道」に外ならない。
 学問に封する、かうした日本人の観念は、西洋人にとつて理鮮できない不思議であらう。小泉八雲は、それ
を紳圃日本の大和魂だといつて賞頒して居るが、同時にまた彼は、さうした精神の所有者が、西洋の知識や文
化を学ぶために、いかに不都合で困難であるかを懸念し、科挙日本の未来に封して、同情のある悲観的の疑問
を述ぺてゐる○たしかに、すくなくもかうした意味の「大和魂」は、西洋の科挙精神と根本的に一致しない。
なぜなら眞の科挙精神ハ知的究理心)は、忠義の為でも孝行の為でもなく、むしろそんな人情や道徳観を、全
 然超越.したものであるからである。
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[題
3頑…暑」」稽日本人が畢同好きの国民であり、好奇心が強く、技術に巧みに、科挙的研究心の盛んな民族であることは、
   前既に述べた通り、歴史の事質に照して明らかである。だがかうした知的天性は、常にその道徳情操の基調と
   なつてる、儒教の功利主義によつて指導され、或る一定の方向にのみ磁力的に引きつけられてゐる。好学将軍
   の徳川音宗も、水戸寧を興した徳川光因も、その学問的精紳の本質は、すべて皆儒教の功利主義にもとづいて
   居た。たとへ彼等が、いかに和蘭陀の腎書や兵書を讃んだところで、西洋の科挙やその文化の本質する精神は、
    到底理解できなかつたことであらう。
    要するに日本人の学問する目的意識は、次の三階段の上に成立して居る。印ち、その直接な個人的の目的は、
   第一に先づ立身出せといふことであり、次にこれが政令的に展開して、圃利民頑を計るところ町、経世利用の
   為の撃となり、さらにまた倫理畢に高揚して忠義や親孝行の為といふことになるのである。即ちその三階段は、
   「立身出世」と「経世利民」と「忠孝仁義」といふ順序になつてる。たしかにこれは、大和魂の学問精神にち
   がひない。爆撃二男士や赤穂四十七士の忠義の気概はかうした拳問精神と本質的に一致して居り、それ故にこ
   そ青年たちは、入拳の日に剣を抜いて悲壮な詩吟を歌ふのである。
    しかしかうした精神は、冷静な知的探求を目的とするところの、厳正科学の研究には不都合である。科挙す
   る精神には、道徳も倫理も政治もなく、眞理の追求といふ良心しかない。日本人的な学問意識は、本質的に科
   挙の良心と矛盾する。さうした儒教意識を捨てない限り、おそらく日本の科挙は、購来に於ても眞の第一義的
   なものに成らないだらう。即ちそれは、第二義的な知識としての、應用科挙の範囲にしか出ないであらうバ詳
   しくいへば、外国人の態明を改良したり、一層巧みに模倣したり、もつと費用上に便利にしたり、機械を巧み
   に操縦したり、運樽の技術をおぼえたりすることの、第二義的な学術以上に出ないであらう0
    そしてダルヰンや、ニュートンや、エヂソンやガリレオやの大科学者は、容易に現はれる日がないであらう。
4β夕 文明論・融合風俗時評

今日、打本が、西洋の科学と物質文明の全部を寧得したといふことも、表面上の事貿を除けば、畢に模倣し蓋
したといふことであり、應用の技術を覚えたといふだけである。
 要するに儒教のモラルと功利主義とが、日本を眞の科挙的態速から妨げ、且つ多くの日本民衆を、非科学的
国民にしてゐるのである。
 支那に於ても、上古にあれほど餞達した大科挙が、中途に全く廃滅してしまつたのは、おそらく儒教の災ひ
した結果であらう。儒教が未だ一般に行はれず、政府の規定する国教とならない昔に、支那人は紙や火薬を態
明した。儒教のモラルと科挙精神とは、本質的に両立できない矛盾がある。そこで今の日本は、儒教を捨てる
か科挙を捨てるかといふ、一つの苦しいヂレンマに陥つてゐる。それを「苦しい」といふわけは、今日、日本
人の観念を為してゐる主要の要素、即ち普通に「大和魂」と呼ばれてゐるものの要素は、資質的には殆んど皆
封建時代に習得された、長い歴史の邁俸的教養の果賓であり、しかもその教養の根本を為してゐるものは、日
本化した儒教そのものに外ならないから。
 我等の常識的に知らなければならないことは、おょそ日本人的な感傷性に訴へられ、その倫理情感を刺激す
る一切のもの、即ちたとへば侠客無頼のやくざ仁義や、赤穂浪士の復讐美談やがすぺてその倫理情操の本質に
於て、同じ一つの儒教的教養に基づいて居るといふことである。(それ故に国定忠治と赤穂浪士とを、その米
飯の種としてゐる浪衣節は、いつでむ日本人の大衆に畝迎される。)もちろん今日の儒教は、封建時代のそれ
と外観の様式を異にして居る。だが本質上の精神に於て、それは今日の為政者と大家の心の中に、抜きがたく
厳存して居るのである。もし現代の日本から、さうした儒教的エスプリを根絶すれば、おそらくあの忠勇義烈
な日本兵も解くなるだらうし、我が子の戦死を激励する大和魂の所有者も無くなるだらう。それは保存しなけ
 ればならない。だがそれを保存する以上、−日本は眞の科挙囲たり得ないかも知れぬ。識者はこのヂレンマを如
イタ0
何にして解決するか。自分が常に懐廃して答案を得ず識者の啓示を仰ぎたいと思つてゐるのは貨にqのノ凝固
に外ならない。
49∫ 文明論・杜合風俗時評