世界随一の人物貧弱国

 今や、我日本は、偉大なる或物を要求して居る。其日本が偉大なる或物を要求しつゝある程度は、殆んど絶対的要求であり、渇望的要求である。
 然らば、現在我日本が要求しつゝある所の或物とは何であるか。軍器の独立か、現在に数倍する陸海軍力か、世界に冠絶したる新武器の発明か、戦時に於ける武器及び一般国民糧食の自給自足か。否、軍器の独立でもなく、陸海軍の拡張でもなく、新武器の発明でもなく、戦時に於ける武器糧食の自給自足でもない。
 然らば、化学工業の発達か、海外貿易の発展か、政治界の廓清か、富豪の海外投資か、児童教育及び女子教育の改善か、一切学術の速成的方法か。否、化学工業でもなく、海外貿易の発展でもなく、政治界の廓清でもなく、富豪の海外投資でもなく、児童及び女子教育の改善でもなく、一切学術の速成的方法でもない。
 然らば不良少年の予防策か、人為的物価変動の予防手段か、或は又新時代の新人物に適当なる新道徳か。否、不良少年の予防策でもなく、人為的物価変動の予防手段でもなく、又た新時代の新人物に適当なる新道徳でもない。其他是等に類する何者でもない。
 然らば、現在日本が要求しつゝある偉大なる或物とは、果して何であるか。曰く、偉大なる人物である。則ち政冶界に於ける偉大なる人物であり、外交家としての偉大なる人物であり、宗教家としての偉大なる人物であり、教育家としての偉大なる人物であ。、軍人としての偉大なる人物であり、学者としての偉大なる人物であり、実業家としての偉大なる人物であり、藝術家としての偉大なる人物であり、発明家としての偉大なる人物であり、冒険家としての偉大なる人物であり、新聞記者としての偉大なる人物であり、其他凡百(あらゆる)方面に於ける偉大なる人物である。就中、政冶家外交家としての偉大なる人物の出現を必要とすることは、他の何れよりも速急であるを要し、緊急要求中の最大緊急の要求である。
 今や、地球の殆んど全表面は、古今未曾有の大動乱の為めに、煮え繰り返るが如き混乱状態に陥り、其光景の惨虐なるこどは、必すしも宗教家でなくても、平和論者ならすども、正視するに忍びざる有様でゐる。此の世界大動乱の原因が、独逸の世界的野心であることは、既に言ふ迄もない明白事であるが、然し、要するに、這回(しやくわい)の大動乱は、人類社会に於て、到底、絶対に回避すること能はざる所のものが、遂に絶対に回避すること能はずして爆発したものに外ならぬ。即ち、人類が民族的に他に優越して生存せんとする団体的生存競争上の已むを得ざる衝突であり、闘争であり、軋轢であり、葛藤である。
 勿論現下の大動乱が、世界始まつて以来の大動乱であることは言を俟つまでもない。其参加国の多教なるに於て、其の科学的戦争なることに於て、其戦闘人員の多数なるに於て、其殺傷人員の多数なるに於て、其破壊の跡の惨憺たることに於て、其外交手段を弄することの頻激なるに於て、其影響が全世界に波及せることに於で、其戦争地帯が地球の全表面に亘れることに於て、其戦費の莫大なることに於て、其敵国の残忍非道なることに於て、其船舶の無警告に撃沈せらるゝことの頻々たることに於て、空前であり無比であることは、到底、絶対に、何人も否認すること能はざる限前の事実である。
 然し、此の事実は、結局する所、現在の事実を語り、及び過去の事例に対する比較の対象となるのみであつて、将来に於ける国際上の紛争的事実の有無を説明するものではない。現下の大動乱が、世界開国以来の大動乱であるが故に、今後人類界に斯くの如き大動乱は再起せらるゝことなかるべしといふ推想或は断定を為さしむる材料とはなるものでない。即ち、空前の大動乱であることは事実であるが、絶後の大動乱と称することは出来ないのである。而して我日本に於て偉大なる人物を要求しつゝあるは、即ち之れが為めである。
 元来、人間は矛盾牲のものである。一面極端なる善性を有すると共に、一面極端なる悪性を有するものである。一面同情愛憐性を有すると共に、一面残忍性を有するものである。一面熱心なる平和の愛好者であると共に、一面戦を好み血を欲するものである。即ち、右手に聖書(バイブル)を持ち左手に剣を持つ、之れ人間の本性である。正体である。幽霊の正体は時に大木の切株であることがあり枯尾花であることがあつても、人間の正体は、何時如何なる場合に於ても、平和的であると同時に非平和的である以外にあるものでない。而して、人間は永久に此の矛盾性より脱して善性のみのものとなり得るものではない。人間が神と同一の程度にまで進化せざ限り不可能である。然し人間は何処まで進化しても、被造物者であり人間であることを免かれざるものであるが故に、神と同一の程度にまで進化することは、未来永劫、到底絶対に不可能である。随つて、人類の存在する処に葛藤紛擾の絶対皆無であることを得ない。二人以上存在する所には、必ずや葛藤があり、紛擾があり、闘争があり、軋轢があり、戦があり、殺傷があり、残忍があり、鮮血の流さるゝことを絶対に防止し得らるゝものでない。我日本に於て偉大なる人物を要求しつゝあるは、即ち之れが為めである。
 既に人類の本性よりして、人類間の個人的又た団体的葛藤紛擾、戦争流血が絶対不可避のものである以上、今後幾億万年経つとも、世界に戦争の絶滅することは有り得ない。現下の大動乱の如き大動乱が、今後幾度繰返さるゝかは不明であるが、兎に角、世界的或は部局的戦争動乱が、屡々勃発するに相違ないことは、這回の世界的大動乱によりて、戦後如何に世界の国際閑係が変化するにしても、到底絶対に否定すること能はざるものである。
 随って、我等日本国民は、今後世界に於ける大小の動乱に於て、日本帝国が絶対局外者の地位に安定さるべきものと安心すべきでない。其の場合、日本が如何なる関係にあり、如何なる地位に置かるゝことありとも、何等の障碍も困難も不名誉も感ぜざる文けの覚悟と準備とが必要である。我日本に於て、偉大なる人物の出現を要望し熱求しつゝある理由は、即ち之れが為めである。
 飜つて、我日本に於ける人物の状態は何うである。果して、一人の人物らしき人物があるか。『偉大なる』の尊敬的名称を冠するに足る人物があるか。我等七千万の全国民が、勇躍して、安心して、踉(跟?)随(こんずゐ)するに適当なる人物があるか。我等は、維新以来の人物らしき人物を物色するとき、乃木将軍と西郷南洲の二人を挙げ得るの外、復た一人の人物らしき人物を発見することが出来ない。
 憲法が出来、責任内閣が第一序幕を開いて以来、既に約三分の一世紀を経過して居り、其間幾多の責任内閣が更迭し、幾多の国務大臣が更迭して、内治外交に所謂敏腕なるものを揮ひ、兎にも角にも、三十年近くの年齢を重ね、而も今や大正六年も将に暮色蒼然として居る。然しながら、我等は、其数次(しば/\)更迭して数次国政壇上に現はれた幾多の国務大臣中、未だ曾て一人の偉大なる人物らしき人物たる感じすらせしめられたことが一回も無い。聖旨を奉戴することに遺憾なく、国民の輿望を一身に集中することに遺憾なき、国務大臣らしき国務大臣は、一回も霞ケ関の官邸に足蹟を印したことがない。既に歴代内閣の諸大臣に一人の国務大臣らしき国務大臣有る無し。況んや『偉大なる』の尊称を冠すべき人物をやである。而も人物らしき人物は、廟堂に於て皆無であつた如く、野に於ても西郷乃木二者を除くの外、人物らしき人物は、殆んど全く臭(にほ)ひだもしなかつたのである。
 西郷が新本劈頭に於ける偉大なる人物らしき人物であつたこ亡は、已(すで)に天下に一人の異論者を発見しないが、惜むべし、征韓の議朝に合はずして野に下り、将に風雲を捲いて大いに為すあらんとする肝腎要の秋、郷党薩摩健児の為めに贔屓の引倒しにせられ、唯だ内乱の中心人物たることに余儀なくされたるのみにして他に何等国家的大事業も完成すること能はずしで自刃す。乃木将軍は素より精神的偉大なる人物であり、人格的大人物の第一人者であつて、国政に料理人たる人物でなかつたことは、已に議論の余地がない。
 我が日本が、徳川幕府の専制政治を顛覆して、天皇と国民との直接関係に還元し、而も憲法の発布となり、立憲法治国となり、人材は雲の如く現はれても、其の欲する所適する所に、行くに置くに自由自在となり、已に維新より半世紀、憲法発布より約三十年の時を経て居るにも拘はらず、人材は雲の如くにも煙の如くにも、一向に湧かず現はれず、朝に野に、人物らしき人物欠乏してガラン洞の如し。我日本は、今や新しき日本であり、東洋の日本でなくて世界的日本であるにも拘はらず、其の貧弱なることは、必すしも財力のみでなく、人物らしき人物に於ても、世界無類、絶対唯一の貧乏国であると謂はざるを得ない状態である。
 見よ。清国懲戒の結果獲得したる台湾島は、既に二十有余回の春秋を送迎して居るにも拘はらず、未だ蛮族の始末がつかず、生蕃襲来、勇隘線の被蹂躙、警官人民の被害などの頗る醜(みつともな)き事実が、年々歳々繰返されて居るのは何うである。年々歳々花同じからす、歳々年々台湾の紛事(ごた/\)相同じの感なくんばあらざる為態(ていたらく)は何うである。之れ、我日本が、新日本であり世界的日本であるにも拘はらず、人物に欠乏せる世界随一の人材国た佗ることを立証するものでなくて何である。
 而も我政治家は、自ら称して日本の政治家と言ふに拘はらず、台湾の蕃族始末方法の一条に至りては、曰く帰順蕃人をしての降伏帰順勧告、曰く飛行機威嚇、曰く思ひ出しの姑息的攻撃、曰く勇隘線の警戒、曰く帰順蕃族の優待の外に一歩も出でたことがない。而して是等の政策が予定通りの効果を、幾何の程度に収め得たるかを詮穿すれば、曰く年々歳々前途遼遠の感なくんばあらずであり、全島平定の日夫れ何(いづれ)の時にか来らんと謂はざるを得ないのである。之れ我日本が、一等国であり、文明国であるにも拘はらず、人物らしき人物に於て、世界無類無二の貧乏国であることを証明せる事実でなくて何である。
 殖民地経営が、頗る困雑なる仕事であり、内地経営の如く、自由自在に、オイソレと朝飯前の手間仕事と云ふ訳に行かざることは、欧米先進国がつぶさに経験し来れる苦き事実であり、我新領土台湾が、未だ全く内地同様に平定せざるは不思議でなく、日本政治家の無能でなく、寧ろ当然と云ふペきである。之れ今日の所謂政治家諸君の異口同音に言ふ所の殖民地経営難の声であり、殖民地経営不始末の弁明である。
 然り、由来殖民地経営が甚だ容易ならざる事業であることは嘘でない事実である。英、仏、独、墺、蘭、米の諸国が、往年、或は亜細亜に、或は南米に、或は亜弗利加(あふりか)に、或は南洋に、餓犬(がけん)が腐れ肉を貪(むさぼ)るが如き醜態を意とせず、慾の手の伸せる丈(だ)け伸ばして、到る処に大小の殖民地を貪り取りたるにも拘はらず、其経営の困難なること言語に絶し、多大の努力と莫大の経営費とを投じても猶ほ成績の期待に反すること、十年一日どころの話でなく、実に百年一日の如く、今や、棄てるは惜しいし持てば厄介、大慾の祟りの並大抵ならざるに、尠なからず内心閉口せる有様であり、曾て和蘭(おらんだ)が世界随一の殖民地成金であつたにも拘はらず、今日に於ては、殆んど其大部分を抛棄或は売却して、殖民地成金株を英国に譲り、小ぢんまりとした生活振りに変じたるは、必すしも和蘭が其等の殖民地に対して、サーべル政策を施すこと能はざる程に武力が衰弱したるのみではない。其実、殖民地経営の困難にして、算盤勘定より茶ふも割の合はざることの夥しさに、熟々愛想を尽かしたる結果である。是等の歴然たる事実が儼存して居る以上、我等は、必ずしも、一概に殖民地経営の困難といふことは無能政治家の自家弁護に過ぎないとなすものではない。殖民地経営が如何に困難の事業であり、而も其困難の理由が何であるかについて知らざるものではない。
 怨し乍ら、殖民地経営の困難が世界一般の定評であるといふ理由によりて、日本の政治家が、日本の殖民地経営も御多分に漏れざるものであると称して而も平気で居るのは、我等の甚だ意外とせざるを得ない所である。蓋し、我日本が日本人の日本でなくて、英人の日本か、独逸人の日本か、仏蘭西人の日本か、米国又は和蘭人の日本であり、日本人が所謂日本人でなくて白人的日本人であるか、或は黒人的日本人であつたならば、我等は、日本の政冶家諸君が、殖民地経営難を叫ぶ事情を諒とし、平然たることを諒とし、台湾が二十年一日の如くゴタ/\の絶へざることも諒とするに吝かなるものではない。さりながら、日本は外国人の日本でなくで日本人の日本である。日本人は白人的日本人でなく黒人的日本人でなく、正に混合物(まざりつけ)の無い純粋の大和民族であり、世界に於ける他の一切の民族とは、其民族的拐~気魄に於て、根本的に相異せる独特の長所美点を有する世界唯一無比無類の民族である。現在に於ては世界の凡百(あらゆる)民族に優越せる最優秀の民族とは謂ひ得ないにしても、少くとも将来必ず優越すべき素質を有する民族である。
 而も、此の世界無比無類、唯一無二、絶対最高最優秀の純大和民族を以て国民とする日本帝国の政治家にして、殖民地経営難が世界の定論(ていろん)であると云ふを楯とし、御多分に漏れざるを寧ろ愧(はぢ)とせざるは、抑も何たる無能凡骨の為態(ていたらく)である。欧米人の殖民地経営は願る難事であると云ふを口真似て、日本の殖民地経営の渉々(はか/"\)しからざるを寧ろ当然であると云ふは、抑も何たる無自覚不見識の言分(いひぶん)である。我等は、我政治家諸者が、恐らく、一人として団栗政治家たるを甘受するものにあらざるべきを信ずるもりであり、無能凡骨問題とならざる我楽多(がらくた)政治家を以て呼ばるゝを歓迎する程に不賢明にあらざるを信するものであり、世界最劣等の低能政治家として遇せらるゝを不名誉と心得ざる程に低能政治家にあらざるべきを信するものである。然し乍ら、欧米諸国が殖民地経営に手古摺つて居るが故に、日本の殖民地経営の無能振りを当然であると称して平気で居るは、之れ即ち日本の政治家が日本式政治家を脱線して、欧米政冶家の殖民地経営の無能振りを学ばんとするものであり、又た日本政治家の無能さ加減を遺憾なく天下に曝け出すに等しきものであり、又た如何に國體の世界無比を振り廻し、如何に大和民族を振り廻し、如何に東海君子国を振り廻し、如何に神洲国を振り廻し、如何に世界最強国を振り廻し、如何に神の子孫国を振り廻し、如何に世界無二の富嶽有るを振り廻しても、遂に団栗の御多分に漏れざる無能国に過ぎざるを広告するに等しきものである。我日本が偉大なる人物の出現を要求しつゝあるは、即ち之れが為めである。
 属領統治開発の進展せざることは、必ずしも台湾のみでない。朝鮮の如きも治績微々として一向に挙らず、開発の遅々たること牛歩どころの話でない。猶ほ満蒙の利権地の如き、唯だ利権地と言ふ名のみであつて移民も富源の開拓も更に振はず、実際に於て其利権の閑却せられ居ること、恰かも後裏(くり)に拗り込まれたる破れ木魚の如き有様であり、其宝の持腐れたること恰かも精神病者の貯金と同様である。
 之れ、単に政冶上の一例に過ぎないものであるが、外交に於ても、日本帝国の外交として、真に一分一厘の憾(うらみ)も遺(のこ)さゞる外交らしき外交は、維新以来、未だ曾て、一回も行はれた例がない。新日本の序幕開けて茲に半世紀、年々歳々人同じからざるも、帝国の外交のみは、歳々年々遺憾だらけの外交であり、失敗のみの外交であり、拙劣、遅鈍、頓挫、齟齬、半間、屈辱、有らゆる不名誉、有らゆる縮尻(しくじり)外交の連鎖である。而かも斯くの如き糠釘的与太政策、斯くの如き縮尻外交の連鎖劇は、抑も日本の何事を語るものであるか。曰く、名誉と誇りと偉大と巧妙とを語るものではなくで、日本の不面目と遅鈍との与太加減を完全に語つて遺憾なきものである。換言すれば、日本が新進の一等国であり、世界無比無類の國體の国であり、大和魂の専売特許権を有する特殊の民族であり、武力独逸に比肩する程に強大なる国であるにも狗はらず、朝に野に、一人の人物らしき人物の存在せざることを語るものであり、聖慮を安泰し、国民輿望の中心となり得る人物の零(ゼロ)なることを自白せるものであり、完全なる人物貧弱国であることを広告して居るものである。
 今や、世界は挙げて、国家的一切の一大方向転換を行ふべき時期に逢着して居る。各国は其対内対外政策の根本方針に、根本的或は準根本的変更又は大修正を施すの必要を余儀なくせられて居り、列強は右手に戦ひつゝ左手に国策の改更に熱中して居る。我日本も、所詮、此の世界的潮流に超越し、安閑として桃源洞裡太平楽の夢に耽つて居らるべきでない。越後の小火事(ぼや)を長崎で聞くが如く、何等の痛痒事とせず、超然として済まして居らるべきでない。
 方向を転換したる列国の国家的進路に鑑みて、我日本も亦国家的進路の大転換を行ふの必要があり、改更せられたる列国の対外政策の根本方針に対して、我日本も失敗外交の連鎖劇のフイルムを製作することのみに余念なしであるべきでない。
 而も此の重大なる時期に於て、能く帝国の前途を我等の期待の如く進展せしめ得るものは何人であるか。我日本帝国をして、世界国際の最高の第一線に而も絶対安定的地位に置き、形而上の世界統一征服を完全に遂行し得るものは、果して何人を俟つベきであるか。我等は、如何に好意的に観るも、渺たる一台湾の統治を完全に行ひ得ず、而も二十余年来蛮族の跳梁を根絶すると能はざるが如き、今日の与太政治家に、其資格あるものでありと認むるとは、到底不可能である。少くとも今日までのお手並を拝見した処に拠れば、日本の将来を鵺的日本たらしむることは聞違なくとも、建国の精神を体して、我等の期待を完全に実現せしめ得ることは、到底、絶対に、有り得べきでないことを認めざるを得ないのである。然らば、我等は何人によりて我等の期待を実現せしめ得べしと信ずべきか。曰く、偉人である。偉大なる人物である。人物らしき人物である。属領地の統治問題の如き、朝飯前に遣(や)つてのける底(てい)の人物であり、口弁のみの政冶家でなくて、実際的手腕を有する真に偉大なる人物である。政権争奪を能事とし、政権に有り付かんが為めには、日来(ひごろ)の主義政策を有耶無耶に、不得要領に、不見転(みずてん)的に、猫眼(べうがん)的に、変改転々し、浮気は其日の風次第と云ふが如き変節改論を愧(はぢ)とせざる所謂政党根性の政治家でなく、又政冶を一種の営業或は道楽と心得居る所謂政治屋的政治家でなく、皇室と国家と国民との為めに、心身の一切を捧げて顧みざる犠牲的烈々たる精神によつて行動する、神聖にして偉大なる政冶家である。
 然し、我国家が要求し、我等国民が熱望する所の偉大なる人物は、必ずしも一定の型を備へたるものである必要はない。装飾的物品の注文でなくて生ける人間の注文である。生ける偉大なる人物出現の注文である。随って、其出現したる人物が、豊太閤(ほうたいかふ)的人物であると家康型の人物であるとを問はない。又たナポレオン的人物であるとビスマルク式人物であると将たグラツドストン型の人物であると歴山(アレキサンドル)大王型の人物であるとを問題としない。或は又ワシントン式人物であるにしてもルーテル的人物であるにしても構はない。要するに、絶大なる建国の精神を体し、尊王主義の旗下(きか)に、日本民族の総司令官となり、全世界を蓆捲(せきけん)して、我帝国と日本民族との世界的地位を最高の第一線に確固不動的に置くことの可能なる大手腕を有する人物であれば、其人物の型が異式であると何であるとを問ふものではない。
 今や、世界は絶大なる釜中(ふちう)に投ぜられて煮返(にかへ)されつゝある。而して将さに新たなる型に練り変へられんとしつゝある。一波の動揺は万波動揺の前提であり、万波の動揺は一波のみの不動安定を容さない。世界万波の動揺し変動しつゝある時に際し、日本の一波のみ超然として其結果の決して安泰であるべきでない。出でよ偉人、現はれよ偉人てふ熱烈なる要求の声は、今や全日本民族の声である。日本帝国の声であり、新日本国民の厳粛なる要求の声である。