学問中毒

 所謂日本浪人の巨頭頭山満氏、常に其の子分を訓誡して曰く、『余り学問をすると国家の為めにならぬぞ』。
 此語、所謂浪人式奇矯の奇言として、一笑に附するものあらば、(そ)は此語の深長なる意味を解せざるものであり、此奇矯を衒はんとするが如く観ゆる奇言が、何を教へんとする奇言であるかを理解し得ざる半間(はんま)である。
 我等は、所謂学問を究めんとする世の青年に対して、此の意味深長なる一語を推薦し、其の深長なる意味を深く味(あじは)はんことを勧告せんとするものである。
 今や、世界は学問万能(まんのう)の時代である。科学万能の時代である。即ち科学的学問万能の時代である。猶(より)以上学問せざれば、活(くわつ)社会の表面に立つことも、働くことも、着ることも食うことも不可能の時代である。此の世界の趨勢たる科学的学問万能の潮流に後れを取らざらんが為めに、我日本も、西洋並に年々数百千の所謂教育家なるものを製造し、年々数千万円の教育費を支出して出来得る限りの努力をして居る。国家の為め寔に結構至極の事であり、誠に慶賀の至りに堪へない次第である。
 然し乍ら、一歩退いて科学万能主義を土台として組織されたる現代の所謂教育なるものゝ結果は何うであるかを、実際について検覈(けんかく)するとき、我等は、科学万能主義教育の結果は理想通り至極満足の結果で御座候と曰ふこと能はざるを大なる遺憾とせざるを得ない。語を換へて言へば、精神的方面を殆んど全く閑却したる現代の科学万能主義教育は、国家国民を片輪者(かたわもの)となして而も其れを満足なる結果とする教育であることを、実際の結果によつて断言し得るものであり、畢竟、今日の科学万能主義の学問は、余り深く究むれば其れ丈け国家の為めに利益ならざる人物を製造するものであると言はざるを得ないのである。
 見よ、今日の科学万能主義の学問が生める所のものは何であるかを。
 曰く、無政府主義。曰く、社会主義。曰く、共産主義。曰く、耽溺(デカダン)主義。曰く、黄金万能主義。曰く、刹那主義。曰く、自然主義。曰く、半獣主義。曰く、全獣主義。曰く、原始還元主義。曰く、倫道(りんどう)破壊主義。曰く、極端なる民主主義。曰く、無道徳主義。曰く、本能満足主義。曰く、個人主義。曰く、利己中心主義。曰く、肉慾主義。曰く、弱肉強食主義。曰く、一夫多妻主義。曰く、一婦多夫主義。曰く、雑婚主義。曰く、享楽主義。曰く、一切万事超然主義。曰く、西洋万能主義。曰く、ハイカラ主義。曰く、糊塗主義。曰く、胡麻化主義。是等一切の不健全なる、又危険なる主義思想は、科学万能主義の学問が生めるものでなくて何であるか。
 我日本に於ても、欧米流を学んで科学万能主義の教育方針を採用し、科学万能主義の学問を無闇に煽り立てたる結果、今や、斯くの如き危険の主義思想、病的不健全の主義思想を、公然標榜する者、又た私(ひそ)かに懐抱(くわいはう)する輩(やから)が、天下到る処に到らざるなく蠢動し、善良なる国民の思想を攪乱し、盛んに迷惑せしめつゝある。之れ国家に取りて寔に結構至極の事であり。[ママ]誠に慶賀の至りに堪へざる次第である。
 然しながら、我等は、斯くの如き危険なる主義を産(さん)し思想を生むが故を理由として、科学的学問の全部を排斥せんとするものではない。少くとも蓑虫主義にあらざる今日の日本としては、科学的学問が絶対に必要であることは、勿論であり、科学的学問の一切を排斥するは畢竟日本の世界的発展を中止せんとするに等しきものであるが故に、欧米人をして日本の一切に随喜喝仰せしむる程度に進歩せしむべきは今更言ふ迄もないことであるが、今日の日本人の如く、科学的学問にのみ随喜し、欧米の糟粕を喝仰することのみに急にして、精神上の鍛錬を閑却し去り、国民精神までも欧米式たらしめんとしつゝあるは、我等の断じて採らざる所であり、極力反対せざるを得ない所である。
 活動写真は今や世界を通じての流行全盛である。日本も亦此の世界的流行に与太公たらざらんが為めに、何等の選択も為さず、盲目(めくら)滅法に、お先真暗に、手当り次第にフイルムの輸入を行ひたる結果、今や其の悪フイルムの悪影響は、青少年者に及び、不良少年の頻出となりて、数育当局者の頭痛鉢巻のみでなく、行政上の重大問題となり、警視庁が厳重綿密なる活動写真取締を為すの已むなき次第に至り、今更フイルムの輸入に選択を為さゞりし怠慢を悔ひつゝある次第は、既に天下周知の事実であるが、西洋の科学的学問万能の主義をソツクリ其儘輸入して、何等取捨選択を為さゞりし結果の悪影響は、質と大少の差こそあれ、今や活動写真問題と同様の低気圧を惹起(ひきおこ)し、国家社会の為めに不利益なる学問中毒者の続出甚だしく、仮令危険主義思想を有せず病的主義思想を有しないにしても、珍香も焚かず屁も放(ひ)らざる、所謂毒にもならず薬にもならず、有無全然国家社会と没交渉なる死学者死識者の少なからざるは、其の原因活動フイルム無選択の悪結果と同じく、科学万能主義学問の輸入に対して、取捨選択を為さず、西洋の物質文明に眩惑心酔して、只だ無鉄砲に直輸入して盲目滅法無闇矢鱈に煽り立て、日本は西洋の日本でなくて日本の日本であり、日本の文明は飽くまで日本的であるべき原則を全く忘れたことの一点に存するのである。
 頭山氏が、常に其の子分を訓誡するに用ゆる『余り学問をすると国家の為にならぬぞ』の語は、蓋し此の学問中毒者たる勿れと云ふの意に外ならざるものである。
 由来片輪者の独立生活は他人の同情ない限りは不可能の事である。仮令之れが可能であるにしても、実際は憐むべき生活であり、殆んど無意味の存在であるに過ぎない。国家も亦此理を免がれ得(う)るものでない。基督(きりすと)が喝破せる『人はパンのみにて生くるものにあらず』の一語は、絶対的に人と云ふものの個人的真理であるのみでなく、国家も社会も、人と云ふものによつて組織せられて居る以上、此真理の適用範囲外に超越し得るものでない。即ち国家も社会も物質のみによりて生くるものでない。即ち科学万能の学問のみによりて、国家の有効なる独立存在、進歩発展、向上発達は、到底、絶対に期待し得らるゝものではない。其等一切の根本たるべき精神的修養研鑚を閑却したる科学万能主義は、畢竟国家を隻手隻脚の国家たらしめんとするものであり、其有効なる独立存在を危殆ならしめんとするものである。
 日本は何処までも西洋の日本でなくて日本の日本である。西洋に於ては、国家の為めになると否とは別問題として、科学的学問でさへあれば差閊(さしつかへ)ないか知らねど、日本に於ては国家国民の福利増進を原則とせざる学問は、一切無用である。国家を禍し国民を中毒せしむるが如き学問は、仮令西洋に於て大流行大全盛を極めつゝあるものにしても、我日本に於ては絶対に真平である。
 西洋人の要求する所の学問人物が何であるかは問題とせず。尠くとも我日本が要求し我等日本国民が要求する所のものは、国家を売り国民を売るが如き主義思想を懐抱せしむる学問ではない。又た、珍香も焚かず屁も放り得ざる木像的人物ではない。又た、倫道を破壊し道徳を顛覆するが如き危険思想を有する者でもない。又た、国家の問題よりも自己の問題を重要とする個人主義の人物でもない。其他一切の学問中毒者でもないことは勿論である。我日本帝国が必要とし、我等日本国民が必要として熱烈に欲求する所のものは、国家国民を忘れざることを原則とする学問であり、国家国民を忘れざることを主義思想とする真日本的真人物である。