第四〇七号(昭一九・八・九)
   人骨弄ぶ敵の本性
   開拓三〇年テニヤン・ロタ
   学童疎開問答(下)

開拓三十年 テニヤン・ロタ

 マリアナ、カロリン方面の戦局は、刻々に急迫し、サイパンを占領した敵は、さらに大宮、テニヤン両島に上陸し、日米の死闘がつゞけられてゐる。テニヤン島ではすでに在留邦人のうち十六歳ぁら四十五歳までの青壮年男子約三千五百名が、決然、義勇隊を結成し、血をもつて皇國に殉じ、身をもつて太平洋の防波堤となつて勇戦奮闘してゐると伝へられる。
 想へば、わが同胞が図南(となん)の雄志を抱いて、サイパン、テニヤン、ロタ等の裏南洋の島々に挺身、不屈の開拓者魂を発揮し、汗と血をもつて営々として開発に当ること約三十年、その努力は皇恩の下、すでに皇土として産業的にも経済的にも自営し得るまでとなり、さらに南への足場として、また本土を護る防波堤として、重要にして強固な位置を築き上げたのであつた。
 開拓の歴史に血の犠牲は珍しくはない。だが三十年の間、南海の孤島にあつて苦闘をつゞけ、無人の島を今日までに拓いてきた人々にとつて、この事実は戦ひとはいへ、あまりにも悲壮な事実ではないか。恐らく血涙滂沱たるものがあらう。否、これは独り幾十万の開拓関係者のみではない。
 引揚げの勧奨にも拘はらず残留を希望し、あくまで踏みとゞまつて己の汗をもつて拓いた島に己の屍を積んで防砦となし、鮮血を濺いで護り抜かうと、決然起って軍と共に戦闘をつゞけてゐる同胞の壮烈な闘魂に対しては、国民一億ひとしく悲憤の拳をふるつて仇敵撃摧を誓はないではゐられないのだ。こゝに現地同胞の敢闘を祈るとともに、開拓の苦闘史を繙いてみよう。

テニヤン島

 この島はサイパン島の西南にある広さ七方里弱、殆んど全部平坦な島であつて、開発当初は、スペイン統治時代の原住民大虐殺によつて無人島と化してゐたのであつた。
 この地に最初の開拓の計画を進めたのは喜多合名会社による椰子経営で、大正五年十一月、同胞四名、サイパン島民の二十名がこの無人島に渡り、まづ野生の椰子を全部伐り倒し、新らしい椰子の実十万顆を取り寄せる一方、山形県から約百名とサイパン、ロタの島民三百名、合計四百名の労力を入れ、全力を挙げて密林の伐採開墾を行つて、まづ七百六十町歩の耕地を作り、椰子苗六万八千顆の植付を完成したのであつた。これが大正七年の十二月であるから、これまでに二ケ年の日子を費してゐるのである。以てその苦心のほども察せられるであらう。
 ところが、この植付けた椰子は八年の六月に入りて干魃に遭ひ、その上、南洋特有の棉吹貝殻虫と呼ばれる猛烈な害虫に襲はれて、まだ抵抗力の弱い椰子の幼樹は一堪りもなく丸妨主の枯木となり、全園枯死の悲運に遭つたのである。この貝殻虫の発生した跡には何を植ゑても襲はれ、成育する見込がないので、七百余町歩の椰下園を全部焼き払つてしまつたのである。折角移住した同胞は、その苦闘むくいられず、空しく全部郷里に引揚げ、こゝに第一回の計画は失敗に帰したのであつた。
 その後、この害虫の猛威の弱るのを待つて蔗糖業を計画したが、これはその頃、サイパンで製糖業を経営してゐた二拓殖会社の糖業か完全に失敗して、窮境に陥り、南洋の糖業は物にならぬとみられてゐた際でもあつたので、棉花栽培をやることに変更された。この事業は大正十年五月から着手された。
 これには最初約五十町歩の土地に棉作を行ひ、サイパンから島民を移して小作制に改め、次第に実績を上げたが、開花期だけに平時の三、四倍の人手が要る棉花は、一切の労力を他から仰がなければならぬテニヤンでは、結局、労力不足によつてこの事業も失敗に終つたのだつた。以後十五年まで、野豚のハム製造等をやつた人もあつたが、開拓としては一歩も進まなかつた。最初この島の開拓に着手してから十年の月日を経て、遂に何等の治績む得ずして経つたのである。この間の苦闘と経費は実に大きかつた。
 この間に糖業をもつてサイパンの開拓に成功しつゝあつた南洋興発会社は、南洋庁の斡旋によつてこの島で製糖業を開くことになり、組織的な調査を進めることとし、大正十四年から測量にかゝり、密林中に見通線をつけ、面積を確め、地図を作り、苗圃(べうぼ)を設けたのであつた。これによつて初めて同島の総面積九千町歩、耕地面積七千町歩といふことが確定され、蔗苗はジャワ、台湾等から優良種を取り寄せて準備を進めた。この周到な開発計画によつて、はじめてこの島の開拓が緒につき、昭和四年末には五百戸の農家をサイパンから移し、昭和五年には沖縄、福島、山形、岩手の諸県の人達を移し、昭和五年の工場完成、製糖開始、鉄道の完成等によつて、遂に開拓と完成し、確かしい治績を挙げたのであつた。
 今、この島に上陸した敵は、このやうやく完成した糖業地を踏みにじらうとし、この島を築き上げた人達の批烈な邀撃をうけてゐるのである。恐らくはこゝにいま流されてゐる血こそは、同島開拓史を飾る最も悲壮な一頁として、栄光に耀く一頁となることであらう。君等に無駄死にはさせないぞ。必ずこの島に再び青々とした甘蔗の波を打たせることを誓はう。

ロタ島

 ロタ島はテニヤンから西南約八十浬にあり、広さは八方里余で、ほゞ中央に高さ五百メートルほどのサバナ山といふ山がある。
 この島の開拓は大正七年、西村拓殖会社によつて手を着けられ、棉作をやるために、山口、朝鮮から五十名の労力を入れて開墾に着子し、大正八年、四十町歩に植付をしたが、大暴風に遭つて全滅となり、甘蔗栽培に変更して三町歩ほどの蔗園を作り、島民にこれを売つて露命をつなぐといふ窮境に陥つた。
 その後大正十三年頃、カストル油、ココア、水稲の栽培をやつた人もあつたが、これも失敗にをはり、開拓の見るべきものがなかづたが、昭和五年十二月になつて、テニヤンの開拓に成功した南洋興発が調査員を流し、糖業地として開拓を進めることになり、昭和十年、操業を開始したが、これは地質の関係で成功をみるに至らなかつた。その後、地下資源の開発と甘蔗を原料とする軍需物資の生産に、南洋の宝庫の一つとなるに至つたが、こゝにも敵はいま巨弾の雨を降らせ、同胞の辛苦の結果を打ち壊さうとしてゐるのである。

 大宮島

 戦前グァム島の名をもつて、敵アメリカの太平洋侵略基地として、国民の脳裡にきざみこまれてゐた。開戦とともに占領され、我が領土となつたことはまだ記憶に新たなところである。島の広さは三十八方里、群島中最大の島である、アメリカは一八九九年の米西戦争により、フィリピンと共にこの島を割譲させ、太平洋制覇の野望を秘めた基地として、緒種の軍事施設をほどこし、駐屯軍を置いてゐた。

 

 

何とも中途半端な終わり方やねえ