第三〇三号(昭一七・七・二九)
   大東亜の農林水畜産業方策     農 林 省
   時局下の河川愛護         内務省国土局
   南方諸地域の教育はどう行はれて来たか 文部省教育調査部
   帝国潜水艦の活躍         大本営海軍報道部
   夏と学生の心身修練        文 部 省
   −告知板−
      拡充された国民健康保険      保 険 院
      衣料切符の有効期間の延長     商 工 省
      塵紙の出廻りについて       商工省繊維局
   トルコを繞る国際情勢

南方諸地域の教育はどう行はれて来たか

 皇軍の武威赫々と南方にかゞや
き、これらの諸地域には、早くも
軍政下たくましい文化工作が始め
られてゐる。
 南方諸民族は、今や相集まつて
東亜の天地に一大共栄圏を築き上
げようとしてゐるが、そのために
は彼等がかゝる大事業の真義を理
解し、これに対する十分な熱意を
持つことが何よりも必要である。
しかもこの理解と熱意は、専ら教
育の力によつてなされるものであ
り、こゝに教育工作が、政治工作
や経済工作に劣らず重要であるこ
とが痛感される。
 ところが、これら諸地域は、こ
れまで欧米の植民地として特殊な
教育が行はれてゐたところであ
る。従つて今後、大東亜建設に即
応する教育工作を始めるに当つて
も、一応これまでの教育事情を調
べてみる必要がある。以下、大体を述
べてみよう。

米国に同化させられたフィリピン

 スペインがフィリピンを領有してゐ
たのは、十六世紀半ばから十九世紀の
終わりまで(我が戦国時代から明治三十年頃
に及ぶ)の三百余年の長きに亘つてゐ
たが、この間、原住民に対する教育はき
はめて低級な状態に止められてゐた。
すなはち原住民の教育は専ら宣教師の
手に委ねられ、教会の教義、宗教問答
が教へられた程度のものであつた。十
九世紀の半ば過ぎになつて、漸く原住
民のための学校教育制度が布かれたが、
それも程度の低い三ヶ年制で、やはり
宗教的な色彩の濃厚なものであつた。
 ところが、米国がフィリピンの統治権
を握ると、さつそく手をつけたのはフィ
リピン人のアメリカ的教育であつた。
これまで欧米諸国の植民地教育には、
同化政策と非同化政策との二種があ
るが、米国のフィリピンにおける方策
は正に前者に属する。スペインはスペ
イン語を原住民に教へることを極度に
避けたが、米国はかへつて英語を学校
教育の用語と定め、また訓練された米
国人教員を教育に当らせるなどの方法
に出た。この同化政策はフィリピン統
治上頗る大きな効果があり、その後、
四十年間、これ等の近代的なアメリカ式
教育を受けた青年達は、広くフィリピ
ン全土で各方面の指導者として活躍し
て来たのである。
 その制度は、初等七年、中等四年、
大学四年乃至六年の三段組織で、初等
は初級四年、上級三年となつてゐた。
このうち初等四ヶ年の学校の七割は、
いはゆる村落学校で、後者の外観な
どは民家と変わりないやうなものが多か
つた。就学率はどうかといふと、学齢
児童の約三六%を占め、しかも中途退
学が多く、初級から上級へ進む者は、
初級を終へた者の凡そ二六%といふ状
態であつた。
 初等学校上級を卒へた大多数の者は
実務につくが、そのうち約二〇%といふ
ごく少数の者が中等学校に進んでゐ
た。中等学校の中には各種の実業学校
も含まれてゐたが、フィリピンが農業
国である関係上、学科は農業が中心と
なつてゐたことは当然といへよう。
 中等学校を卒業後、進んで大学教育
を受ける者は、そのうちの約二〇%で、
大学には官立のフィリピン大学の外に
セント・トーマス大学、マニラ大学等
の私立大学があつたが、各大学を通じ
て、商科・法科等の文科系の学生が多
く、理科系はそれに比すると少かつた。
 「右のやうに、教育機関は一応整備
してゐたやうであるが、フィリピンの
教育は、依然低度に止まつてゐたとみ
なければならない。その理由は、原住
民の生活水準が一般に低いことにあ
つたと考へられる。米国は英語の普及
には熱心であつたが、それと並行して
自国の高度な生産技術を移植すること
には努力が足りなかつたやうである。

原住民には与えず  東インドの教育

 旧蘭領東インドは、十七世紀初頭
(わが慶長年間)、東インド会社が設立さ
れて以来オランダの勢力下に入つた
が、この会社時代は勿論、政府自らが
統治に乗出してからも、長い間、原住
民に対する教育は殆んど顧みられず、
教育は一部の特殊階級の子弟に止め、
一般原住民には、なるべく教育を与へ
ない方針をとつて来た。
 ところが二十世紀に入ると、英米独
等の列強との競争が激化され、これに
対抗するためには、原住民との協力の態
勢がどうしても必要となつて来た
ためオランダは遂に在来の文盲政策を
一擲することになつた。それは一九〇
七年(わが明治四十年)のことで、この
年から東インドにおける新らしい学校
教育が発足したのである。そして短期
間のうちにめざましく発展し、当初僅
か四百校に過ぎなかつた村落学校が、
三十年後には実に一万七千余校といふ
多数に増加した。
 たゞこゝに注意すべきことは、教育
普及の方針を改めたといつたも、オラ
ンダ語は教へず、米国のフィリピンに
おける同化政策とは正反対に、非同化
政策をとつたことである。
 教育機関は初等、中等、高等の三者
に分れてゐたが、一般原住民の教育は
大体初等程度に止まり、若干が中等に
進み、それ以上、上級にゆく者は極めて
稀であつた。原住民に対する初等教育
機関は、三年生の村落学校で、こゝで
は極く初歩的な訓練を行ひ、読・書・算
を教へたが、程度は甚だ低く、算術な
ども加減は教へるが、乗除は教へな
いといふ有様で、オランダ語はもちろ
ん教へなかつた。二教室に二人の教師
で、百名位の児童を収容するものが普
通の村落学校の規模で、就学率は該当
年齢児童の四〇%にしか当らなかつた。
 この村落学校修了者の約三〇%が三
年制の補修学校に通ふやうになつてを
り、こゝを卒へると大部分は実業につ
いてゐた。
 この補修学校の上に、マレー語によ
つて農業、職業家政といつた低度の実
業学校があつたが、これに進む者は極
めて少かつた。
 このほか欧州人子弟、支那人子弟、
原住民の特殊階級子弟のための教育機
関が設けられてゐた。初等教育機関と
しても、前者とは全く別に七年生初等
学校(欧州人学校、蘭支学校、蘭土学校と
呼ばれる)があつて、すべて中等学校と
大学に連絡してゐた。中等学校にはオ
ランダ型中学校、リセー、下級及び上
級中等学校、オランダ語による実業学校
等があり、大学には工科、法科、医科
及び文官養成科大学があつた。これ等
はもちろん欧州式の教育を施し、蘭・
英・独・仏の四カ国語を必修科目として
課してゐるところに特徴がみられた。
 このやうに、東インドの教育は、一
般原住民の子弟にはごく低い水準に止
められてゐたのに対し、欧州人、華僑及
び一部原住民の子弟には、完備した教
育組織が設けられてゐたが、これはオ
ランダの殖民政策の反映にほかなら
ない。

生活改善をねらつたマレーの教育

 マレーの地は、旧シンガポール、ペ
ナン、マラッカを含む海峡植民地、べ
ラ、セランゴールを含むマレー聯邦、
及びそれ以外の地域を含むマレー非聯
邦の三に大別できるが、後の二者にお
ける教育は、大体前者の方針にならつ
て行はれてゐた。
 十八世紀の末(わが江戸時代天明の頃)
英国東インド会社が手をつけたのが英
国人のマレー侵略の最初であつた。
しかしながら、教育が組織的に行はれ
るやうになつたのは、それから百年後
の一八七二年(わが明治五年)以後のこと
で、この年に初めてシンガポールに
督学官が置かれ、学校制度が確立し
た。初等教育は五年で、英国はマレー
人の関心を地方村落に向けさせるやう
な方針をとつた。従つて彼等の日常生
活に必要な知識技能を授け、これによ
つてマレー人の生活改善、生業の開発
に資し得るやう努めたのであつた。
 かくして、マレー人の生活向上に及
ぼした影響は甚だ大きいといはれてゐ
たが、就学状況は極めて悪いやうであつ
た。英国はマレー人の教育には、この
やうに力を入れたが、支那人、インド
人に対しては、学校も私人の経営に任
せ、きはめてまちまちで不完全であつ
た。
 初等学校の卒業者は、中等英語学校に
はいれるやうになつてをり、マレー人
は特に無月謝で就学を奨励されたが、
彼等は一般に英語学校に関心がなかつ
たやうで、結局、英語学校のヨーロッパ
的教育は、マレー人学校に比べると、マ
レー人の生活には余り影響を与へなか
つたといはれてゐる。英語学校にはマ
レー人の無月謝生徒のほかに支那人、
インド人もゐたが、彼等は英語学校の
初等科から入ることになつてゐた。
 中等英語学校は上級、下級に分れて
ゐたが、大半の者は下級だけで卒へ、
少数の者が上級に進み、大学入学資格
を得るために学習を続ける有様であつ
た。最近、中等程度の実業学校も発達
して来たが、これ等の学校には英語学
校の下級課程が卒へた者が入ることに
なつてゐた。大学は昭南島にラッフル
ス大学と医科大学があつた。
 なほマレー人の教育について注目す
べきことは、保健衛生の指導、音楽教
育、映画教育、少年団運動等に力が注
がれてゐた点である。
 以上のやうに、英国のマレーにおけ
る教育は、同化・非同化両政策の中間
をいつたものとみられるが、いづれか
といへば、フィリピンにおける米国の
政策の方に近かつたやうである。

僧院学校が特色のビルマの教育

 イギリスはビルマに対し、初め英国
東インド会社を通じ経済的侵略を行
ひ、後には英国政府が自ら乗出し、遂
にこれを手中に収めた。かくてビルマ
は、一八八五年(わが明治十八年)以来、
久しくインド帝国の一州として統治さ
れて来たが、一九三七年インドから分
離してビルマ総督の管下におかれるこ
とになつた。
 ビルマの教育制度は、一般にインド
に似てをり、大多数の学校はインドと
同様、土語を以て初等教育を授ける土
語学校であつた。
 しかし統計によれば、初等教育段階
の児童のうち約七五%は、第三学年以
下の児童で、就学状況は上級学年に進
むに従つて次第に悪くなつてゐた。
 初等教育におけるビルマの伝統的な
特有の教育機関として僧院学校があつ
た。各村落にはそれぞれ寺院に附属し
た僧院学校が設けられ、教育行政当局
の支配から独立して、読・書・算の初等
教育を行つてゐた。ビルマ人の男子は
宗教上の慣例によつて、必ず剃髪して
一度はこの僧院に入ることになつてゐ
たので、僧院学校の児童数はきはめて
多く、一九三五年には約七万六千人を
数へた。また、この僧院学校の影響で
ビルマは読書能力の率も高く、一九
三四年の調査では全人口の三九%に及
んでゐる。
 次ぎに中学校には英・土語中学校、
英語中学校と土語中学校の三種があつ
たが、第二のものはきはめて少く、第
一のものが多かつた。このほか工学
院、林業学校、獣医学校等の実業教
育機関も設けられてゐたが、全体と
してビルマの実業教育は軽視されてゐ
た。
 ラングーン大学はビルマ唯一の大学
で、医学、法学、理学、教育学の四学
部から成り、修業年限はいづれも四年
であつた。なほ同大学には修業年限二
年の予科が置かれてゐた。
 以上に述べたところでも分るやうに、
英国の対インド教育政策の一面は、初
等教育よりも上級の教育に力を注いだ
といはれるが、その傾向はビルマでも
幾分みられてゐた。

中間政策をとつた 仏印の教育

 仏領インド支那は、元来、安南帝
国、カンボヂャ王国及びラオス王国の
三者が分立してゐたが、一八六一年
(わが文久元年)以後、三十年間にフラ
ンスの領有下に帰した。
 フランスが仏印経営に際し、まづ手
を染めたのは、指導層ないし中間階級
の養成教育で、これはインド支那全土
の征服に先だち宣教師によつて行はれ
てゐたが、フランス領有後も当局の努
力は専らこの面に注がれた。これに対
し庶民教育の方は、伝導会と各地方の
古来の伝統的な教育機関(安南伝来の儒
教と漢字教育を主とする学堂・私塾・カン
ボヂャの寺院学校等)の手に委ねられた。
 庶民教育は、初めは同化主義政策を
とつたが失敗したので、その後はその
民性や生活に即した、いはゆる協同
主義に基づく教育を行つた。その機
関は修業年限三ヶ年で、公立学校の
ほかに村落学校(安南人共住地域)、寺院
学校(カンボヂャとラオス)、山間普及学
校(少数民族)等があつた。これ等は地方
村落の集会所や寺院を利用したもので
あつたが、このやうな努力にもかゝは
らず、就学状況は三〇%ぐらゐで途
中退学者も多数に上る状態であつた。
 この一般民衆を対象とした教育と
は別に、将来、親仏的な上層階級を形
づくるやうな者を対象とする古典教育
があつた。これは小学教育から高等教
育まであり、フランス語を教授用語と
し、フランス的な教科内容によつてゐ
た。
 中等教育を卒へた者はフランス人と
一緒に大学教育を受けることが出来
た。これは現地のハノイ大学と各種の
研究所で行はれたが、フランス本国の
大学に入学する資格も与へられてゐ
た。
 以上の土着民教育のほかに、フラン
ス人子弟の教育機関があつた。これは
初等から高等まで本国と同様の教育を
するといふ建前で設けられてゐた。各
学校とも内容も施設も本国の学校に比
べて少しも遜色がなく、本国の学校
へ転ずるとか、上級学校に進むとかい
ふ場合は何ら不便のないやうにしてゐ
た。
 このやうに、仏印の土着民教育は、
同化と非同化の中間をゆく政策を採つ
てゐたが、指導者層に対する同化政策
は、他の各国とほゞ同様であつた。

義務教育に異彩を放つタイ国の教育

 タイ国は、南方におけるわが頼もし
い盟邦であり、立派な独立国である。
従つて、その教育も自主独往の方針と形
態とを採つてゐることは当然である。
 タイ国は元来、青少年教育を僧侶の
手に委ねて来たので、今日でも初等教
育機関は、寺院内に附設されてゐるもの
が八割を占める情況である。かつては
フランス人または米国人の宣教師の渡
来によつて、キリスト教学校が設立さ
れた時代もあつたが、国王はその範に
ならつて近代的な教育を行ふ学校の開
設に努め、つひに一九二一年(わが大正
十年)には初等教育令を公布し、義務
教育制を布くに至つた。
 中等教育機関としては、普通の中学
校のほかに、工芸・商業・農業・家政学
等の学校がある。
 高等教育としてはバンコクに大学が
ある。これは工・医・歯・薬学・教育等の
諸学部があり、予科修了者に二年乃至
四年の教育を授けてゐる。また別に文
政大学もあり、外交・行政・法律・経済等
の学科がある。そのほか教育省所管外
に陸軍、海軍、憲兵、逓信に関する専
門学校があり、多くは中学校卒業を入
学資格としてゐる。
 以上のやうに、タイ国が義務教育制
を実施し、また各種の教育機関を整備
する等、立憲君主国として着々と独自
の教育政策を実行してゐることは、南
方諸地域中に異彩を放つものである。

大衆を置き去りのインドの教育

 インドは、初め英国東印度会社の経
略に委せられてゐたが、十九世紀半ば
(わが明治維新の直前)いはゆるインド統
治宣言を以て全く英国の手に落ちた。
 土着民に対する教育には、初等、中等
高等の各種があり、初等教育機関は年
限四年または五年で、多くは読・書・算
に過ぎなかつた。一九一八年(大正七年)
以来、各州とも漸次義務制を採用して
きたが、就学率は男子四割、女子一割
に過ぎず、その上、中途退学者の数は
入学者数の約八割の多きに上つた。そ
の理由としては、授業料の徴収、民衆
の貧困、地方財政の窮乏、教員の質的
低劣、父兄の無自覚などが挙げられる。
 中等教育機関である中学校には、英
語中学校と土語中学校があつた。前者
は各三ヶ年の中等科、高等科に分れ、
初等科を附設するものもある。高等科
では、各学科とも英語で教授するのが
普通であるが、土語中学校には、高等
科のあるものはない。
 高等教育機関には、大学と専門学校
があり、大学は十八で、これらは多く
の専門学校によつて構成されてゐる。
入学は大学入学資格試験または中学校
卒業資格試験に合格した者に限られ、
三年または四年在学し、一定の課程を
修了すると、バチエラーの称号を授け
らる。専門学校の方には実業専門と医
学専門学校がある。
 これを要するに、インドにおける英
国の教育施設は、初等教育よりも、高
等、大学教育に力が注がれてゐるが、
これは一般大衆を無智のまゝにして置
き、少数のインド人属吏を養成しよう
とする方策の現はれにほかならない。
       ×      ×
 以上、大東亜圏の一翼を形づくる南
方諸地域の従来の教育につき一通り見
廻つた。これ等の地域にある諸民族と
相携へて新秩序建設の大仕事をなし
遂げようとする時、その盟主である日
本は、彼等の教育文化の指導を今後ど
う行ふべきであらうか。それはまこと
に大きな課題であるが、この問題の解
答は、当然如上の過去及び現在の事実
に即して導き出されて来る筈である。

 文部省教育調査部