第二二一号(昭一六・一・一)
  事変第五年を迎ふ        内閣総理大臣公爵 近衛 文麿
  大政翼賛運動の進路       大政翼賛会
  大政翼賛会事務局各部局の解説
  支那事変の現況
  事変第四年海軍作戦の回顧
  国際政局回顧と展望(上)     外 務 省
  日泰友好和親条約批准交換
  邦人の海外発展状況(上)     拓務省拓南局
  前線から銃後へ         現地軍報道部提供
  お正月の野戦料理        陸軍糧秣本廠


国際政局回顧と展望(上)

     多事多端の国際政局

 支那事変の第四年、欧州大戦の第二年を迎へた昭和十四
年の国際情勢は、支那事変処理の進行、欧州戦局の発展
により、こゝに世界新秩序建設への発足を見るに至つたの
であるが、一方新秩序を否定し、全体主義諸国に挑戦する
米国政府の動向によつて、事態は頗る深刻且つ重大とな
つた。
 即ち、東亜に於ては、支那新中央政府の成立、日支国交
の調整、日満支三国枢軸の成立、皇軍の仏印駐兵等、支那
事変処理は重大なる発展を示し、また欧州に於ては、ノー
ルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、リュクサン
ブール及びフランスに対するドイツ軍の電撃作戦は、僅
僅三ケ月の間にこれ等の諸国を征服し去り、さらにイタリ
アの参戦によつて戦局は東地中海を中心としてアフリカ、
バルカン及び近東にまで発展をみたが、独伊側の圧倒的攻
撃によつて、忽ちにして欧州大陸より英国の勢力を駆逐
し、こゝに欧、阿、亜三大陸に跨る新秩序建設が企図され
るに至つた。
 こゝに於て、東亜及び欧州に於て同じき新秩序建設の理
想に向つて邁進する日独伊三国は、世界新秩序建設の一大
理想の下に強カな提携協力を行ふこととなり、日独伊三国
同盟の成立をみたのである。
 また米国に於ては、米国建国以来の伝統を破つてルー
ズヴェルト大統領の三選が実現し、予ねてより反全体主義
新秩序否定の政策を強調してゐたルーズヴェルト政府は、
いよ/\新秩序建設阻止に対する積極的行動に出で、蒋介
石抗日政権への援助を強化すると共に、全力を挙げて英国
の対独防戦援助に乗り出したのである。
 かくの如くして、昨年一年間に於ける事態の推移は、支
那事変及び欧州大戦の必然的帰結である世界新秩序建設へ
の発足として、何れも世界歴史に一紀元を劃すべき重大事
件を以て満たされてゐたことを記憶しなければれらない。

     昭和十五年の帝国外交

 日本に於ては一月十六日、阿部内閣に代つて米内内閣の
出現をみたのであるが、欧州大戦に対しては不介入の態度
を堅持し、支那事変処理に向つて邁進するといふ大方針に
は変化はなかつた。
 従つて、支那に於て新中央政権樹立の計画が進行する
や、これに対応して事変処理の方策を進めると共に、一
方欧州に於ける戦局の発展によつて、東亜の事態に影響を
及ぼすが如き情勢の変化に対して深甚の関心を以て事態の
推移を静観したのであつた。
 恰も一月六日、米国のサンフランシスコ港を出発してホ
ノルルを経て母国に向つて航行中の我が郵船会社所属の浅
間丸が、一月二十一日、千葉県野島崎の沖合に於て、英国
巡洋艦によつて停船を命ぜられ、乗船してゐたドイツ人船
客二十一名が不法にも拉致された事件が勃発した。
 よつて帝国政府は翌二十二二日、クレイギー駐日英大使を
通じて英国政府に厳重なる抗議を申入れると共に、在ロン
ドンの重光大使をして英政府と交渉を行つたのであつた
が、二月五日に至り、英国政府としての見解は枉げられない
が、円満解決を希望するが故に拉致せるドイツ人乗客中軍
務に適せずと認められる九人に対して、法律上の権利を留
保して釈放する旨を通告し、二十九日、横浜港外に於て右
ドイツ人の引渡しが行はれ、こゝにこの問題は解決をみた
のであつた。
 次いで、四月に入り、北欧に戦局が拡大し、ドイツ軍のオ
ランダ進入説が伝へられるや、四月十五日、有田外相は蘭
領印度の現状維持に関する帝国政府の意向を声明したので
あつたが、これに対して十六日オランダのクレフェンス外
相は現状を変更せざる旨のオランダ政府の方針を表明した
のであつた。
 かくて、五月十日、いよ/\ドイツ軍のオランダ進駐が
開始されるや、帝国政府は重ねて蘭印の現状維持を期待す
る旨を、独英仏の交戦諸国に申入るると共に、米伊両中立
国に対しても右の申入を通告し、帝国政府の蘭印に対する
関心につき各国の注意を喚起したのであつたが、これに
対して、英国政府は十三日、オランダ政府は十五日、フ
ランス政府は十六日を以て、それ/"\何れも帝国政府の申
入を諒承する旨の回答を与へたのであつた。
 この後、オランダ軍の屈服によつてオランダはドイツの
勢力の下に帰したのであるが、蘭印の現状には変化は来さ
なかつた。かくの如き欧州の新情勢に対応し、帝国として
は東亜新秩序建設をさらに数歩進めて、大東亜共栄圏を確
立すべき必要に迫られるに至り、先づ、蘭印との経済的提
携を強化すべく交渉を開始することとなつたが、恰も七月
二十二日、米内内閣に代つて第二次近衛内閣の成立をみ
るや、新内閣は小林商相を特派使節として蘭印に派遣する
ことに決し、八月二十七日を以て小林特使の任命が発表せ
られ、小林特使は九月十一日蘭印に到着し、十三日より、
蘭印側代表ファン・モーク経済相との間に交渉が開始された
のであつた。

     日独伊三国同盟の成立

 第二次近衛内閣の出現は、外、欧州情勢の急激なる変化
に対応し、内、高度国防国家の建設を促進すべき新体制へ
の発足であつた。よつてこゝに内外の政策に一大転換が行
はれることとなつたのである。
 即ち六月、フランスの降服によつて東亜に於ける情勢
に変化を来すや、帝国政府はこの機会に於て英仏両国に対
し仏領印度支那及び英領ビルマに於ける援蒋ルートの遮
断を断行し、さらに、九月二十三日に至つて仏印に皇軍を
進駐せしめ、支那事変の急速なる解決を企図したのであつ
た。
 なほ、右事変処理の促進、竝びに東亜新秩序への発足と
関連し、こゝに独伊枢軸を中心とする欧州に於ける新秩序
建設の発足との関連を考慮し、日独伊枢軸を強化すること
となり、九月二十七日を以て日独伊三国同盟がベルリンに
於て調印されたのであつた。
 かくて、日独伊三国は、東亜竝びに欧州に於ける新秩序
建設に対して相互にその指導的立場を承認尊重し、且つ相
協力してその達成に邁進することとなつたのである。
 しかも、この三国同盟は、その後、十一月二十日ハンガ
リーが加盟したのを始めとし、二十二日にはルーマニア
が、また、二十三日にはスロヴァキアが相続いてこれに参
加するに及んで、大なる発展を示し、世界新秩序建設の強
力なる推進力たるの威容を備ふるに至つたのである。

      新国民政府の成立を承認

 前年来進められつゝあつた支那に於ける新中央政権樹
立の計画は遂に機熟し、三月十二日の孫文逝世紀念日を卜
し、南京に於て汪牙ハ氏は和平建国を宣言すると共に新政
権樹立を発表した。よつて帝国政府も翌十三日を以て、こ
の新政権を積極的に支持すべき態度を閘明し、かくて新政
府組織の準備は着々と進められ、十九日を以て中央政治会
議組織要綱及び組織条例の発布竝びに議員の任命が発表さ
れ、こゝに中央政府樹立の大綱を決定したのであるが、同
時に日支国交調整方針も併せて確定したのであつた。
 右に基づき中央政治会議は三月二十日より開かれ、中央
政治委員会組織条例を可決し、国民政府主席は、当時重慶
にある林森氏が南京に帰着するまで汪牙ハ氏が代行するこ
と等を決定し、二十二日を以て閉会したが、こゝに新政府
の創立は全く完了し、四月二十六日を以て南京還都の典
礼が盛大に挙行されたのであつた。
 一方、帝国政府に於ても右国民政府側の新政府樹立の進
行と相応じて日支国交調整の準備を進め、四月一日、前首
相阿部大将を特派大使に任命した。よつて阿部大使は四月
二十三日南京に到着し、諸般の準備を整へ七月五日を以
ていよ/\日支国交調整の交渉が開始されたのであつた。
 爾来、交渉は四ケ月に亙つて慎重に進められ、十一月三
十日を以て、阿部、汪両全権の間に日支両国間の基本関係
に関する条約、附属議定書竝びに附属議定書に関する両国
全権間の了解事項が調印され、次いで満洲国代表を加へて
日満華三国の非同宣言が調印され、こゝに日支国交調整の
基本原則、事変処理の根本方針、日満支三国の相互承認が確
定され、満支両国政府が相提携して、我が東亜新秩序建設
に邁進することとなり、大東亜共栄圏確立の基礎が定め
られたのであつた。

        米英の露骨な反日態度

 支那事変処理の進行、東亜新秩序建設への発足が具体化化
するに伴ひ、特に大東亜共栄圏確立が、南進政策の具現と
関連するが故に、米英両国のこれに対する対抗工作も極め
て激烈となり、こゝに日米、日英関係の急激なる悪化と、
露骨なる援蒋政策の強化とが現はれ来つたのである。
 即ち、日米関係に於ては前年七月二十六日に行はれた米
国政府の日米通商航海条約の破棄は、その後、我が方当局の
種々なる努力にも拘らず破棄通告による六ケ月の予告期間
たる一月二十五日に至るも、遂にその解決方策を見出すこ
とが出来ず、こゝに一月二十六日以後、日米間に無条約状
態を現出するに至つたのである。
 しかも、三月七日、ジョージ融資局長官が二千万ドルの追
加借款を重慶政府に対して許容せることを発表したのに
始まり、九月二十二日、皇軍の仏印進駐が発表されるや、
二十五日には輸出入銀行が二千五百万ドルの新借款を発表
したのであつたが、さらに日独伊三国同盟の成立後に於て
は、一層この援蒋的態度を強化しつゝあつたが、日華其本
条約が調印さるるや、十二月一日、一億ドルの大借款供与
を発表したのであつた。
 なほ、右援蒋政策と併行して対日経済圧迫政策に於て
も、日米通商条約の破棄に次いで対日輸出禁止が問題とな
つてゐたのであるが、日独伊同盟が成立するや、遂にこれ
に先だつ二十六日、大統領は屑鉄及び屑鋼の対日輸出禁止
を命じ、十一月十六日を期して実施されたが、その他、一
方英国に対する援助と関連して尨大なる軍備拡張を始め、
太平洋に於ける共同防衛、軍事基地の共同使用等の計画
が進められてゐるものの如くに伝へられてゐる。のみな
らず、十月八日には極東に於ける在留米国人に対して全面
的引揚げを命ずる等、極めて露骨なる反日的態度を示して
ゐることは周知の通りである。
 米国のかくの如き援蒋政策の強化に追随してカナダ、イ
ンド、マレー等の英領各地に於ても銅、錫その他の対日輸
出を禁止し、また、英国政府は十二月十日、米国の一億ド
ル借款と相呼応して一千万ポンドの借款を発表したのであ
る。その他、ビルマ援蒋ルートの遮断についても、七月十
七日、有田外相とクレイギー駐日英大使との協定により三
ケ月間の輸送禁絶を約したのであつたが、その期間の終了
するや、十月十八日を以つてビルマ・ルートを開放し、援
蒋物資の輸送を開始したのであつた。
 かくの如き米英の反日的政策は、今後、支那事変処理の
進行、東亜新秩序建設の発展に伴ひ、さらにまた、欧州に
於ける情勢の変化によつて、いよ/\強化されるものと見
られてゐる。

     ソ聯、仏印、蘭印との関係

 日米関係と竝んで最も重大な日ソ関係は、一昨年九月十
五日のノモソハン停戦協定に引続いて、満蒙の国境劃定、
漁業条約及び通商条約の締結等全面的の国交調整が企図さ
れ、一昨年十二月三十一日を以て漁業暫定協定が調印さ
れたのを始めとし、全面的国境確定紛争防止委員会の設置
も決定し、昨年一月七日よりはノモンハン国境確定会議が
ハルビンに於て開かれたのであつた。また、通商条約につ
いても、我が松島代表が一月五日モスクワに到着し、十日
より会談が開始されたのであつた。
 然るにその後、一月末に至つて日満蒙国境確定医混合委員
会は完全なる諒解に到達せずして打ち切るの已むなきに至
り、また、通商条約交渉も停頓し、こゝに全面的国交調整
も行き悩みの情勢に陥つたので、松島代表は通商条約交渉
を打ち切り、四月十日を以てスウェーデンに赴任すべく出
発したのであつた。
 恰も、その後日独伊三国同盟の成立に伴ひ、再び日ソ国
交調整の機運が動き、近衛新内閣は建川大使を駐ソ大使に
任命し、モスクワに派遣し、日ソ国交調整交渉に当らしめ
ることとなり、建川大使は十月二十三日モスクワに到着し、
十一月上旬より本格的交渉が開始されたのである。
 またフランスとの関係は、フラソス本国政府の降伏後、
仏領印度支那が支那事変の処理、東亜新秩序の建設と密接
なる関係にある事実に鑑み、六月末、仏印援蒋ルートの禁
絶を申入れると共にその実施に関して監視委員を派遣する
こととなり、西原少将を委員長とする我が監視委員は六月
二十九日ハノイに到着したのであつた。
 爾来、仏印との関係調整に関して現地に於て交渉が進め
られつゝあつたが、八月以来交渉は東京に移され、松岡外
相とアンリー駐日仏大使との間に会談が進められた結果、
九月二十二日に至り軍事協定の成立を見、こゝに皇軍の仏
印進駐が行はれるに至つたのであるが、さらに東亜共栄圏
の確立に関連して、帝国と仏印との経済的協力を促進すべ
く、帝国政府は松宮特派使節を派遣することとなり、松宮
使節は十月十一月東京発、バタヴィアに向つたのである。
 その他、六月十二日には日泰友好条約が締結され、泰国
との関係が強化され、また、三月には佐藤元外相を首班と
する訪伊視察団が派遣され日伊親善の強化が行はれ、同じ
く二月にはアルゼンチン経済使節団の来朝があり、続いて
メキシコ及びスペインの経済使節団も来朝し、彼我両国の
経済的提携に資するところがあつた。
                         −  外 務 省 −