第一八一号(昭一五・四・三)
  支那新政府成立す
  支那新政府要人録
  恩給法の改正について        内閣恩給局
  戦時統制物資講座(一二) 農林水産業用資材(下)       農 林 省
  独伊会談をめぐって         外務省情報部
  二千六百年史抄(九)        内閣情報部参与   菊池 ェ

二千六百年史抄(九)        内閣情報部参与   菊池 ェ

 

   吉野時代

 北條氏の滅亡するや、後醍醐天皇は、伯耆より御遷幸の途につかせられ、兵庫迄お迎へ申し上げた楠木正成に、「北條氏を討滅し、今日京都に還幸出来るのは、偏に汝の忠節による」とのお言葉を賜ひ、正成の軍を先導として、京都に入らせられた。正成の光栄歓喜如何ばかりであつたであらう。御還幸の後、記録所を再興し、親しく政をみそまはせ給ひ、雑訴決断所を置いて訴訟を決せしめ給ひ、武者所を設けて武士の進退を掌らしめられた。関白をも置かれなかつたから、事実上の御親政となつたのである。
 が、建武中興の大業が、間もなく敗れ、北條氏に代つて足利氏の興起起を見るに至つたに就いては、次の原因が数へられる。
(一)建武中興に参加した武士の中には、自己の利害関係や、恩賞目当に行動した者が大部分であつたこと、従つて之等の武士は公家勢力の再興を欣ばず、公家と武家とが頗る不和であつたこと。
(二)政治の実権が久しく朝廷を去つてゐたから、公卿は政治の実際に疎く、しかも鎌倉幕府の滅亡と共に、幕府が処理してゐた政務をも朝廷で併せ行はねばならぬこととなり政務が渋滞してしまつたこと。
(三)訴訟の裁決に当つて統一を欠き、恩賞に不満を懐く者も現はれ、新税に対する不平などもあり、人心漸く新政を離れるに至つたこと。
 かうした新政に対する不平不満を利用して、自分の野心を逞しうしたのは、足利尊氏でつた。足利氏は、新田氏と共に、源義家の子義国から出で、その勢ひは兄の家なる新田氏を凌いで、源頼朝の直系が断絶した後は、源氏の統領として、武士階級の輿望を集めてゐたのである。しかも、六波羅を滅して先づ京都に入るや、巧みに私恩を施して人心を収め、北條氏に倣つて政権を私せんとして密かに機会を狙つてゐたのである。
 尊氏の野心を早くも察せられたのは、建武中興に大功労のおはしました護良親王で、打倒尊氏を策せられたが、却つて尊氏の讒に遭ひ、鎌倉に流され幽閉され給ふに至った。
 たま/\北條高時の子時行が信濃に兵を起し、父祖の覇業の地たる鎌倉を奪還せんとして襲来した。相模守として鎌倉に在つた尊氏の弟直義は、敗れて鎌倉を脱出するとき、畏くも護良親王を弑し奉つた。これが、足利氏の慈逆の最初である。
 尊氏は、それを聞くと、勅許を待たずして、関東に下り、時行を逐ふと、そのまゝ鎌倉に止まり、新田義貞を除くことを名として、頻に兵を蒐めた。叛心既に明らかである。
 天皇は、新田義貞をして西より、陸奥守北畠顕家をして東より鎌倉を挟撃せしめ給うた。義貞は、途中尊氏の軍を敗り、足柄箱根に尊
、直義と戦つたが、官軍の一将が俄かに賊軍に応じたため、竹ノ下に大敗して潰走するに至つた。尊氏、直義その後を追うて、西上するや、建武の功臣たる赤松則村など、官軍に叛いて尊氏に応じ、東西から京都に迫つたので、天皇は延元元年正月一日、難を比叡山に避け給うた。が、陸奥の北畠顕家が、尊氏を追うて西上し、義貞、正成、長年等と協力して、尊氏を破つたので、尊氏は弟直義と兵庫から、海を渡つて、九州に奔つた。
 当時九州には、先に建武の中興に忠死し菊池武時の子武敏があり、少貳貞経を誅し、勢威を
振つてゐたので、尊氏を迎へ撃つて、博多の東方なる多々良浜で激戦したが、時利あらず、敗退したため、尊氏の勢力は、九州一円を風靡し、九州の将士争うて之に属した。廷元元年四月、尊氏兄弟は博多を発し、途中、中国四国の兵を併せて海陸より竝び進んで東上した。
 当時、新田義貞は、赤松則村を播磨の白旗城に囲んでゐたが、急を聞いて、朝廷に奏上した。朝廷は、楠木正成に命じて、義貞を援けしめられる事になつた。
 正成が敵を京都に入らしめんとの献策が、藤原清忠のために、遮られたのは、この時の事である。京都は、大兵を擁しては、長く保ちがたき土地であることは、木曾義仲の場合でも分るし、尊氏の最初の京都入りの場合でも分るのだから、正成の献策が容れられたならば、尊氏は再敗地に塗れたかも分らないのである。
 正成、櫻井駅に子正行と訣別し、兵庫に赴きて、義貞と共に賊の大軍と戦ひ、腹背敵を受けて、忠死を遂げた。此処に於て賊軍は京都に入り、名和長年、千種忠顕等の諸将難に死し、天皇は難を比叡山に避け給うた。
 京都に入つた尊氏は、先に北條氏の擁立した量仁(ときひと)親王(光巌院)の御弟豊仁(とよひと)親王を立て、 天皇(光明院)と称し奉つた。次いで、尊氏は、使者を比叡山に遣し、偽り降つて、天皇の御還幸を乞ひ奉り、天皇が還幸あらせられると、花山院に幽し奉つたので、天皇は夜に乗じて、神器を奉じて吉野に行幸あらせられた。延元元年十二月のことである。以後、五十七年間を吉野時代といふ。
 後醍醐天皇は、その後も、新田義貞に勅して、皇太子恆良(つねなが)親王、皇子尊良親王を奉ぜしめて、北陸経営に当らしめ、又陸奥の北畠顕家を西上せしめて、京都の恢復を計り給うたが、顕家は延元三年五月、摂津の石津で戦死し、新田義貞は、延元三年七月藤島の戦ひで戦死した。
 しかも、延元四年後醍醐天皇は、吉野の行宮に崩ぜられたので、南風いよ/\競はず、吉野の朝廷の柱石たる北畠親房の苦心経営を始めとし、楠木正成の遺子正行の奮闘、菊池武敏の弟武光が、征西将軍懐良(かねなが)親王を奉じて一時九州に雄飛するなど、朝廷のために忠誠を尽くす将士も多かつたが、遂に京都を恢復する迄には至らなかつた。
 これより先、足利尊氏は、京都に於て擅に幕府を開き、征東大将軍と称し、子義教、孫義満相次いで政権を握つた。元中九年に至り、義満は使を吉野に遣して、後亀山天皇の還幸を乞ひ奉つたので、天皇はこれを許し給ひ、京都に還幸し給ひ、神器を後小松天皇に授け給うた。
 吉野時代の変乱は、足利尊氏が、後醍醐天皇の御親政に背き、武家政治の復興を計つたことに起因してゐるが、当時武士階級に大義名分を解するもの甚だ少く、多くの武士は利害情実に依つて動き、昨日の宮方は今日の武家方となり、今日の武家方は明日の宮方となるといふやうに、動揺常なく、遂に足利氏をして野心を遂げしむるに至つたのである。
 されば、北畠親房は、吉野の朝廷の中枢にあつて、軍政両方面に肝脳を砕いてゐたが、人心の頽廃を嘆じて、日本の國體を明らかにせんとし、「神皇正統記」を著述し、「大日本は神国なり。天祖始めて基を開き、日神長く統を伝へ給ふ。我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。この故に神国といふなり」と、冒頭第一に、國體の真髄を発揚してゐるし、「凡そ王土に孕まれて、忠を致し命を捨つるは人臣の道なり。必ず之を身の高名と思ふべきにあらず」と喝破して、当時の武士の通弊たる恩賞目当に対して、大鉄槌を下してゐる。「大日本史」「日本外史」の勤皇思想も、「神皇正統記」にその源を発してゐる。「正統記」は実に明治維新の大原動力をなした千古不磨の著述である。生きては、老躯を以て朝廷に尽くし、その二子顕家、顕信を君古に捧げ、死しては、その著述に依つて、皇基を永久に護つてゐる。私は、北晶親房、日本無双の忠臣だと信じてゐる。

(この「ニ千六百年史抄」に限り無断転載を禁ず)