第一七四号(昭一五・二・一四)
  海運統制令             逓 信 省
  支那事変に現はれた戦法の種々相   陸軍省情報部
  浅間丸事件の交渉経過        外務省情報部
  南寧方面の殲滅戦          陸軍省情報部
  南支海軍航空部隊の活躍       海軍省海軍軍事普及部
  二千六百年史抄(二)        内閣情報部参与 菊池 寛

南寧方面の破滅戦
隆冤首情報郎
一、批情、地形の枇要
げり▲I川叫ル†・}ねいは▲′
咋年十一月二十四日、わが軍のため撃破され南寧を放
l−はい一叱い
照した敵は、概して南寧東北方地濱に敗温した。】方敵の
′・,▲んいい■ツん小〜・●・,てん●●lチ
埼按部隊は桃林及び途く衡暢方油より輔川され、十二月
しっ11′−▼寸い
刊句より朽び執拗な攻勢的h菊勢を示しっ1あつた.十二月
申句頃には、久しく使用しなかつた戦革部隊、飛行部隊を
も加へて弟力賓に二十ケ師に上るものとなつた。故はl部
柑▲▼ふぜんl▼んねい〃〜,
を以てわが沌寧補給線たる欽率造方面に、主力む以て補寧
しす、んはんメく
周遽忙、相常也輿南目な攻勢を反復した。この方面戦場の
、17か▲′
地形は、械純概ね五、六首米に達する山地荷であつて、改
,−一しく
巾野忙は多大の囚‖苛を伴つた。
ニ、戦牌経過の枇要
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この敵に封しわが軍は各」部の兵カむ以て、大高壌縦及
●−●丁ルー▲ノけん‘いさ
ぴ九塘附近の地の利により敵の大兵を正南に牽制しっ1横
1′つか・,・’くわい
の到るを待ち、わが檜加兵園主力む以て鬱江方南を迂同、
lいけレゆん
永・淳方向より敵の背後に迫り、逸に二月一日以衆、敵主力
・きとたつ‘い
部隊を完仝に包謝する企尉を建成したのである。
▲て1・一セ・’
この間九塘、兇鴇閑附近にあつて奪戦中のわが部陳は、
ぢゆ・フあ・モ▲ぜん
しば〈敵の重園に格つたのであるが、毅然として最後
川“・’l〃
造々の守りを完うしたのである。中村少賂がこの敵の包勤
い・ウぐん
をぶち破つて友軍救筏のため前進の払呟中、十二月二十五日塗
に舵烈なる山戦死を捻げたのもこの時であつた.
lく■わい
敵の背後に注同せるわが部陳は、−月二十入日頃南寧
・lい】じ●ん
東方地隈を出準しこ十九日永淳に進出、ニ月二日夕には
ひん●・,▲でうたろ,み●
眈に賓暢附紀に進出、−方正画九塘方而に行動中のわが官
lhソ一’・。・々
森、早桁、永川、自木、澄田、三木、林等の各部隊は、ニ
月一日敵む九顕
西北方山嶽地沓
▲つJ−く▲ク′、わh
に靡−迫し、迂困
こ一「・}
部陳と呼應して
一んめつ
故に敵蛾滅戦の
態勢む・完成した
のである.この
包園靴内に削此
する敵兵力確普
なるもの十ケ
川h/ヽ山九ん
師、不抑賓なるもの十敷ケ師と判断される.敵は大混乱に
Lク止つれつJんか,∫砂いさだ巾
陥け桝離滅裂、そのl部は漆江、隆山、武鳴方向に宰崩と
打って折充し始めた.
三、本戦闘に於けるZ果
り“′んめい
一月二十入日からこ月九日迄に判明した本戦山闘に於けろ
取果は、次の通り多大であつた.
交仙戦せる敵の兵力・I約九ケ軍三十五ケ師、重砲車大
除、野山砲十大隊、封戦串砲一聯隊
ゐ」モ
敵に輿へたる打撃−敵の遭薬死鰭四萌六千入首、用
・丁ム〓ていほ’−●
取傷推定入萬む下らず、捕虜二千五首
虚柁品卜野山砲二十五、速射砲十六、迫撃砲六十入」
ろく.の‘ヽ
●ヽ●−▲だんとツ
梯弼筒官二十五、克横開銃官十、高射横閥鈍二、柁横川脚
銃五宵四十四、小銑九千六首六十、戦串十九、拓装甲事
六、白動革六十三、サイドカー入
これに封しわが軍の揖客戦死約二官五名、軋傷七官入十五
名であつたt
凹、大本常陸罪報造剖長談
本戦閑に閲し、ニ月三日、大本窟帖軍乾賠部叔は攻の談
シー黎衷した。

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博介石のいはゆる冬季攻勢は、今同の南寧附近の→大決
l‘●●■▼い
取にょり売仝忙最後の止めを刺された。由釆、南寧は敵撼
l,し∫ヽしづかん
給路上の妥術忙普り、その失賂忙よつて玄慶政府は持紳
は小小,。
上及び物質上測り知るべからぎる打撃む蒙つたと北ハに、
じ_’りしん〜Jくわ、い
新巾火政府梯立エ作の進抄と併せて支那固民の和中親道
に一投の油を注いだ結兵となつたのみならず、彼の多季改
・勢は他の方耐に於て至るところ皇軍の撃破する朗となり、
いつナんしっも一},Jはんlん
一寸の失地をも取返し得なかつたので、焦慮煩悶の蒋介石
だ.りくわん
は咋年十二月以釆、幾度か甫寧奪邁のヂマ宜侍を内外に
ほづし◆りこと
教山して局面の糊金に努めたが、逮に悲批なる決意を以て
し▲けり
申央軍その他二十飴ケ師の大兵カむ集結し、支郷軍弟−流の
取略家と稀せられる陳喝自轟寓等に命じて弊「一鰍コこれ
●ん一いdくナl●
だりくbん
が奪遺を画つたのである.
皇軍は南寧を確保すると共に、一部兵力々その東北及び西
はし●りいl●
北方の山地帝忙溌出して敵の誘致灯努めたところ、敵の
●lた,ナく●
主カは南寧東北方九凍附近忙於けるわが兵力の塞きを侮
し■んけんさし▲しっl,
り、唆瞼なる山地忙畑集して−ケ月に亙り執拗なる政率む
朗那した・こゝに於て配卯の掛ガと待ちありしわが主カは、
I‘−●いしり‘}
横到れりと見て東方に】大迂同窪動を起し、疾風の如く
。ん●,
賓陽千地に進出してこの敵の背後に迫り、見事なる包園態野
一一レ止●つ
を完成して繊滅朋打撃を加へたのである。との間九塘附混
川“・,一
のわが部隊は赦十償の大敵の包卑を受け、中村正堆少賂以
小ん一−一ル
下相常多救の死傷者を出しながら敢然として絶えず反弊と
小l●▲▼
くり返し、敢主力む引留めてわが巧妙なる作救の術中忙佑
れた努カは祓に感ずべきものがある.こ1に彼の冬季改弊
はlとlく°ん‘てウウ▲
は、北は包頭より甫は南寧に互少売粛なきまでわが襲槌と
り。
受けて渡え去つた.
包頭西方方面の挿溝戦.
一、一般の状勢
′サトー
包頸方而督備中のわが革は、貴る−月二十日頃以本、
▲■′ヽし’んどl
包頭西方黄河南北地置に丑動中の韓錫候軍、第入十六坤、
げ一んどん小ヽ●Iこく▲tく二▼
⊥馬占山軍、何杜南逓壌除、仲作鼓軍等の敵に封し靖蕩作
ー喝●羞中である.
ニ、戦鞠経渦
わが軍は先づ一月二十−日よりこ十五日に亙り、斉河
墟什叫芹オルドス抄頭⊥カ面
の抒窃戦を賓施した.交
職敵兵力約二千、敵に輿
一8●
へた根客は遭薬死健のみ
でもこ官七十七あつた−
これに引き綾きこ十六日
r汀んふきくy一ん
以舛五原方両倖作確箪繊
抄つ▲Lほく
滅の日的を以て安北、
ち●l・小てん
長牙店のこ方面より行
動を閑始した。北進部朕
は三十】日より五原束北
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方二十粁鳥鎖附泣の敵陣
地に封し故弊を準嘩ニ
月→日これを爽破、欠いで萬和長甫北の線忙ある健陣地と
瀕き、ニ月三日五原に進山した.一方南進部麻最の騎兵
く一▼′ヽ
部隊を騒逐しつ1概して非河に滑ふ地笹を迫牽前進し、二
月二日同輿堂附紀に進椚、門柄膚、石玉山等の敵に大打黎
を輿へ、四日五原に進出した.五原占領後わが軍は、更に
’ん山一▼んげ
西方臨河、曹域に向ひ作戦を拇繊、塵中敵の抵杭を撃破し
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て前進に努め四、五日頃その日的地に達し附紀の確敵碍汲
中である.
〔正彗二月七日ハ鉱二七三)絆憤二方中よ∧行阜現桝竣革tネろは−月制改‡ヽ
下々捗りから六行旦瞼耳しとl●牲r睦宰しの梓りにつ●町正しlす.

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