第一一八号(昭一四・一・一八)
  時局の新たなる段階と国家総動員法の発動  企 画 院 
  国民登録制             厚 生 省
  敵都重慶を反復空襲す       陸軍省情報部
  列国海軍軍備充実の情勢      海軍省海軍軍事普及部
  英伊会談をめぐる欧州政局     外務省情報部
  最近公布の法令          内閣官房総務課
  文部省推薦図書・官庁編纂図書だより

 

 敵都重慶を反復空襲す
                     陸 軍 省 情 報 部



     一 現地の概況

 相袈の條となつた北支郷は概ね零下敷皮で河川は大抵凍
 つてゐる.申立でも零度下ではあるが北支よりは五、六庇
 咳いやうである.南支方南でも零度泣く進も気絶が下るこ
 とも梯にある.
  わが将兵は今や防袈被服に身をかため、鋳造滑線を離れ
 奥地に向つてする大討伐戦に従事してゐる.

     ニ 王鹿の垂山芋

  政和重度に封しわが飛行隊は年末、年始再三在製を敢行
 した.重度は湊口よりの直線飴触七首五十粁、四川の山鹿
 に包まれ天候気象の不良な土地で、冬期は月に僅か一日牛
 しか晴天がないと云はれてゐる.
  十二月二十六日わが田中部隊は、午後一時三十五分重度
上杢に到達したが概要のため爆撃む行はず根扱地に辟遺し
た.内−横は片挙動機不調となつたが巧みに飛行を栂絞し
て触番線着したト
 服部部隊は同日午後二時節宰上姦む進攻、重度上客に挽
      かん伊‡
はれ、額宰の間隙より辛うじて瀬見し得た男鹿東部地区軍
事施設を爆撃し、夕刻仝横無事蹄遺した.
 明けて正月七日、田中、服部、原田各部隊長の指辣する
数十槻は、午後三時頃から相紡後して塞盤上姦に現はれ、密
雲の間隙より敵の軍事施設を爆撃して仝横無事麻潰した.
 叉十日再び重度峯製を反復した.跡ち、服部、野本、柴田、
相澤、位瀬、鈴木、田中、井関、桑原、原田、酒本、古林等の各部
                             h−・’一く
隊は、第五次敵都爆撃のため十日早朝数十墳の鵜巽を連ね
大桐隊群臣以て−路重慶姦製に向つた.この日、断要に朗
ぎされた宅間に重度む確認し正確なる爆撃を敢行、敵軍‡
                     L▼一レ▲lん
施紋に倒し大雄亨を輿へると共に敢の心臓を塞からしめ大

          ’
  咤功裡忙日汲頃仝横無事辟遺した.
   その他一月十l日秋山、田中、大半各部隊長の率ゐる成
                    しか, けんし・,
  察部隊の十教横は長沙西方三富五十粁の文江(河州)飛行場
  女帝興しその十五撥む完全に破壊、その他多大の揖啓を輿
  へで仝概無事に根撮地忙蹄遺した.

      1ニ間錫山軍の討伐
                   −
   十二月二十五日山西粁西南省墳方面に放て今何ほ泰動し
      lんし†く一‘ん
 つ1ある間錫山軍
魂存部隊に封†る討
伐作血戦が開始され
た.数日衆の降雪に
戦場は一両の白銀世
界と化し夜間は袈気
 ■ツんれつ
洩塀烈“将兵の・辛苦は想
像忙故りある.わが
   りん∫ん 小 しん
軍は臨扮、河津のこ
 方向より‥前進を開始
 した.河泳仲人万両よトソ
 北進した仙闘部隊はニ

       , 1ヽん
 十七日朝来鶉門、一紳綿北方高地に放てベトソ製トーチカ陣
 地に披つて頑強に抵抗する敵を力改、十二時三十分、故障地
                      方し∫
 忙爽撃を敢行之を占領した.更に璃門口忙相集する敵む東
 方及び北方から攻撃して午後三時三十分之を奪取した.
 璃門附近に於て交戦した敵は新綿算入師の第「第二珂
 兵力約一千で戦意は強烈であつた.この戦闘に放ける敵の
 務賓死他日撃したもののみでも約四召その他黄河に投身
 した者も多かつた.虚攫品梯閑銑一、栂横網銃四、小銃
 七〇、小銃弾ニニ一〇〇、手相弾七六〇、銃剣四〇、捕虜】
 五、わが揖叢死十一名、魚傷五十九名であつた.
 一方臨扮方南より西進む開始した工藤部隊は、二十七日
             し与 小一汀ん
 午後五時その先頭を以て周家原(滞将来南六軒)に到着、引絞
   は 」打ん
 き郡願に向つて蹄進した.
                  一●,’1フ 小・’n打ん
  わが山瀬飛行部隊は二十七日石接、株願を爆撃すると共
 にこの戦闘忙密凄に協力した.

     四 揚子江津の討伐戦

  十二月中旬わが軍は拍子江右岸蕪湖、安度中間地置の大
 将蕩戦を賓施した.如ち、青陽北方地域の敵を討伐、青陽
 の死▲命を制すると共に大漁、弛州h問の江岸埠頓に蛮動する

 敢を頓l接して鴇子江の交泡を安全ならしめた.本討伐に於
 ける戦兆、敵の遭尭死鴇約二千二宮、わが死傷約四雷名で
 ある●

     五 帝東南方討伐戦

  →月はじめ以来わが南支軍部隊は、廣東南方水流地帯の
 大村伐を管施した.即ち、討伐中の飯田部隊の一部は三日
 未明、陳柑(成東南方的十三粁)の敵ニ、三富を急襲之む渡波
 した.叉他の一部隊は沙潮に撮る約一千の敵を念親して之
               ● ▲甲ん
 を快走せしめた.同夜、夜曙に乗じわが部隊は機動を行ひ
                                                      一一ヽ ● ●一’ュ一 ■Lヽ」L一▲_一_一一r ●l一−● ■● ■ .■L一ヽ一ll
珠江南水道南方地笹を包囲
    ムつけ♪
 し、五日彿暁より包囲鞠む
那縮し敵を中城すべく活動
申である.海軍部隊もこの
戦闘に碑壕に協力しつ1あ
 」る●
 この方南の作戦は六日朝
竣定の如く終了した.敵の
遭粟死健四冨、小銃四千を
内接した.わが線香戦死者二名、戦傷六名である.
 十〓月に放ける北支方面討伐状況毒
                     (大本曹陸軍報道部)
 一、客間は討伐岡欺故富岡中主なる七十飯岡に付き記入す。
   交戦兵カ、苧敵兵力程入萬五千首、敢の故粟死憤一言五
   千、竿虜二首七十一、帝順匪田富五十一、由搾押収兵器−適
   射砲「機槻銑田、軽機牌銃六、自動小銃七、小銃、拳銃、静
   典、手野等多救