各地掃匪戦   陸軍省情報部

 中 支 方 面

一 羅田、英山方面

 武漢作戦の間、広済北方羅田(らでん)、英山方面の山間にあつて、
わが軍の鋭鋒を免れ得た廖磊軍に対し討伐中のわが軍は、十
一月十七日羅田、同十九日英山を占領しその根拠地を覆滅
した。敵は第百三十八師、第百四十九師、第百七十師、第
百七十四師、第百五十師その他のものである。

二 無錫方面

 無錫東北方地区に於ける討伐は順調に進捗し、十五日迄
に次のやうな戦果を収めた。敵の遺棄死体五十二、鹵獲小
銃十五。又太湖東南方岸に蟠居して居つた程萬(ていまん)軍約八千名
のものが十五日正式に我に帰順した。

 南 支 方 面

一 東莞方面

 広東東方東莞方面に対する掃蕩戦を開始したわが軍は、
十九日朝、石龍西南峡口澳頭附近に於て迫撃砲及び重機関
銃を有する約一千の敵
を撃破した。続いて板
橋(はんけう)南方地区を占領中の
敵約五百を撃破し午前
九時三十分東莞を占領
した。わが損害戦死三
名、負傷八名である。
敵の損害は目下調査中
であるが相当大なるも
のと思はれる。

二 三水方面

 広東西方三水方面を掃蕩中のわが軍は、十一月二十三日、
大朗渦湖の西側楊梅墟(やうばいきよ)附近に於て約四百の敵を殲滅した。

 

  北 支 方 面

 各部隊はその警備地区内の掃匪戦を実施中である。十一
月六、七日頃より寧武(ねいぶ)附近、北部山東、洪沢湖(徐州方面)
西側地区の討伐が開始された。

− 五台附近

 五台県警備隊は十一月三日五台県東方二十五粁北高洪附
近に於て約五百の敵を奇襲して殆んど之を殲滅した。捕虜
七十、迫撃砲二を鹵獲帰還の途中、四日朝西天和附近に於
て約五千の敵の包囲攻撃を受け、激戦の後包囲圏を突破して
夕刻五台に帰還したが、六日再び西天和に向け出動した。

ニ 寧武附近

 寧武附近に蟠踞する共産軍竝びに傅作義(ふさくぎ)軍を掃蕩するた
め、六、七日わが部隊は代県及び原平鎮より寧武に向つて
出発、龍宮村附近及び陽武附近に於て各々数百の敵を攻撃、
八日軒崗鎮を占領、九日敵を撃破して寧武を占領した。敵
の遺棄死体約百二十、下堡鎮附近に於ては堅固な陣地と占
領中の敵第百十五師に属する約二千を潰乱せしめた。部隊
は六日兌九峪(たいきうよく)に達し引続き附近を掃蕩中である。

ニ 南部山西方面

 嶺溝に在る部隊は嶺溝附近の戦場掃除を実施し、三日及
び四日翼城を出発、掃蕩を実施しつゝ蒙城鎮附近に達し、
更に鉄道東側地区を掃蕩しつゝ六日臨汾(りんふん)附近に達した。
 横嶺関(わうれいくわん)方面に於ては、わが軍の垣曲(えんきよく)
撤退に乗じて敵は再び北上を開始した模様である。
 解県(運城西方)方面に於ては、解県南方山地内にあつた
約四百の敵を攻撃した。敵の遺棄死体約八十、第百七十七
師に属するもののやうである。又、満州方面に於ては五日
蒲州東方趙伊鎮附近に於て約五百の敵を撃滅した。
 この同部隊は六日更に城(へいじやう)北方地区中條山脈中の敵を
掃蕩した。
 臨晋地区の警備隊は、三十日同地東北方十二粁大疑山附
近に於て約三百の匪団を撃滅した。

四 京漢線方面

 保定方面に於ては保定東北蕭迪新城(しゆくてきじやう)に於て約四百の敵を
潰走せしめた。
 東長寿(石家荘北方京漢線上)警備隊は十月三十一日同地北
方八粁に於て約二日の敵を撃滅した。
 平定警備隊は歩兵一中隊を以て昔陽(せきやう)−平定間の糧秣輸
送掩護に任じた帰途、五日宮道口附近に於て約五日の敵と
遭遇し之を東方に撃退温した。敵の遺棄死体六十ニ。
 頭泉(石家荘西方五里正太線上)警備際は四日正午頃及び五

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日朝、同地西南地区に於て約四百の敵と交戦大打撃を与へ
て西南方に之を撃退した。
 石家荘及び正定警備隊は皇協軍と呼応し七日石家荘東方
十五粁附近を討伐した。
 大名東北北門及び彰徳北方辛店附近に於て、二日わが一
部隊は各々兵力不評の敵を攻撃し之を培滅し、武安西方南塵
附近忙放ては、二日約五百の敵を攻撃之を撃温した。
              小ん・たん
 七日午前三時三十分、耶耶北方十粁王化壊守備陳に封し
約三石の赦嗅があつた。交馳四十分忙して之を東方に撃温
した。
 確沖(新婚東方)方面に放ては十月三十日その東方南苑、
抑濁瀦附敗忙鹿つた敵を攻撃して之忙大打撃む輿へた。修
武方而に於ても二日同地南方地囁の討伐を行つた。
五 宋包根方面
 桑岡(北求、鵠衆口中間)附近を将渇中のわが部隊は、三、指
甘約天下の敵駈を撃破した。
 く心・▼小い
 庶粥方南に放ては、十月二十入日約五官の敵を撃破し、
直和方耐に於ては大灘を中心とする地慣の大碍蒲を開始し
四日敵郎む包囲し多大の打撃を輿へた。
大 京洋方面
 厨山西南約ll十粁現育舵附近忙於て、六日わが討伐隊は
                           一_心付。}
五官の敵を況走せしめ、叉畳合方面に放ては七日潔僻替備
除は傑輝北方に放て三宮の敵む決定せしめた。
 天津万両忙放ては、六日より九日に亙り天津南方小姑附
紀の討伐を賓施した。
 賓甥方面に放ては、−日賓加西硝封末節附近に放て約人
吉の放と交哉、その盲二一十五を武装琳険し、又庸官屯管健
保は九日青原西南方に放て約四首の敵を演走せしめた。
七 山東方面
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 臨亀方南に放ては−日商河、臨邑附近を蒋渾、青州方面
に於ては、一日わが揃萌陳は的七首の敵む撃破し、藍柑方
面に放ては二日約二冨五十を撃破した。
 入日以来わが軍は北部山東の意漕を開始した。
∧ 穐州方面
     L▼付ん lい、●
 徐州東南酒席、霹帯附延の石友三軍討伐を開始し、九日
夜椚牒を占領した。
      IIし▼1・小し●さ 〃いこ
 徐州東北方養庄、†庄、文湖、王庄方面に放てもわが拝
謁助は賓施された。
  飛行険の活動
 十−月十五日わが山瀬部隊は再び西安た改革した。昔日
西安忙あつた敵飛行機約八機及び軍事施設を爆破、甚大な
る根昏む輿へ仝橡無事辟潰した。