第九八号(昭一三・八・三十一)
  事変下の失業とその対策      厚 生 省
  事変と支那共産党        外務省情報部
  支那空軍の断末魔        海軍省海軍軍事普及部
  占領地域の治安状態        陸軍省新聞班
  蘆山山麓の奮戦         陸軍省新聞班
  要衝星子を占領す        海軍省海軍軍事普及部
  蒋政権下の節約運動       外務省情報部
  最近公布の法令         内閣官房総務課
  「週報の友」の発刊
  官庁刊行物だより

 

事変と支那共産党        外務省情報部

 支那事変の蔭に中国共産党ありといはれる。そも/\支那の軍閥、民衆をかくも抗日民族戦線にかり立てたのは何者か。そして今回の事変勃発以来、赤き魔手はいかに執拗に「対日抗戦」を煽動し、そのために暗躍してゐることか。中国共産党--共産軍--国民政府、さらにこれらとコミンテルンとの関係を理解することは、事変の本質を衝く一つの鍵である。以下、主として西安事件以後の支那における共産運動の動向を解説することにしよう。


   抗日民族戦線への発展

 支那における赤化運動は、大正八年七月二十五日のカラハン宣言を以て始まるといはれてゐる。けだし対欧宣伝に失敗したソヴィエト・ロシアは、その失敗を東方において取返さうと、まづ東洋諸国を赤化して、ヨーロッパ資本主義の培養機関ともいふべき東洋の地盤を顛覆し、間接にヨーロッパ諸国に痛撃を与へようとしたのである。そして東洋諸国中、コミンテルン(国際共産党)が最も望みを嘱したのは、すでに或程度の国民運動及び反帝国主義運動の勃興を見てゐた支那であつた。かくして現はれたのがカラハン宣言であり、この宣言において対支不平等条約の撤廃と、旧帝政ロシア時代の権益放棄とを声明し、支那上下の同情を獲得し、それに乗じて赤化の魔手を延べようと企てたのである。
 この計画は図に当つて、カラハン宣言の翌年即ち大正九年には、コミンテルンの支部である中国共産党が成立した。これを最大の武器として、コミンテルンは支那赤化の歩を進めた。即ち、中国共産党を基礎として中国国民党との提携を遂げ、民族革命聯合戦線を完成し、都市労働者、農民を組織した。聯合戦線はその後間もなく破れたが、中国共産党の地下潜行とともに共産軍が生まれ、その遊撃によつてソヴィエト区が簇生し、つひに中華ソヴィエト政府にまで成長した。五回に亘る南京政府の共産軍討伐は、この政府を崩壊せしめ、共産軍を西北支那に追ひ詰めたが、中国共産党は身を飜へして新方針、新戦術を採り、南京政府の討伐の手を緩めさせるために、抗日聯合戦線の名の下に各階層民衆の再組織に進んだ。
 これに対して蒋介石、南京政府、国民党は、初めの間は