第八九号(昭一三・六・二九)
  物資動員と国民生活
  新興蒙彊を語る        陸軍省新聞班
  農村に展開する勤労奉仕運動    農 林 省
  一挙潜山を攻略す        陸軍省新聞班
  長江作戦進展す        海軍省海軍軍事普及部
  広東爆撃の波紋        外務省情報部
  鉄は戦争の原動力
  最近公布の法令        内閣官房総務課
  官庁刊行物だより
  事変特集号予告

 新興農産を語る
                     陸 軍 省新開班
  ∴軒
     l ‡奨前までの蕪古
              山rシ 一− 入 一ン
 雫Hときく七すぐ成育思汗が息ひ出される.彼がオ
ノソ河畔にクリルクイハ曾盟)を催し大汗ハ皇帝)I元の
        つ
 犬組−の位に如き」世界戟一の晋を立てたのは今から
                一い’,l′
 七再三十二年前である.爾後易新僕かに七十年、この
     ▲いtテ   けんt−        パ γ ′
 閉、第二代大栄、第三代喪家と代は撃つたが、.液都、忽
 ′−’一「 フ ’ I ′
 必烈、他烈北」等にまつて遠征また遠征、南方ロシア、
 中央ア打ア、印度、ペルシャ、さら忙進んでョーロ,
              しん小ん
 バをも征服し、仝欺洲を震撼せしめたのである.そし
           】付こ                 ■ヽ●
 て救後に▲畢万忙弐を向け、我が日本の九州に寂んて惨
 敗するに及び遽灯遠征の念を断つに室つたのであe
      川−一_■t
 が、をの舷団はアジア大陸を横断して、釆は日*梅か
 ら粥は∋−ロッ.ハの東北部に適するせに婁能瀬後の大
                        くわ}モい
 帝岡を縫紋し、アジア民族のために史上不滅の光彩と
放つたのである.
 しかしながら、この大帝固は小数の蒙古民族を以て
 くわ▲7はん
康汎な仝領域の統治するとこケに無理があつた.その
                         ぴん′’ん
上礪自の文化と産敷の敬展を持たず、財政叉寮乱し、
        1んだつ          一げんち●I
一円部的にも帝位の葦等が行はれて、さしもの元朝も
日ならずして衰亡の兆む硯はし、支那南方に漢民族の
 ▲ん▲●●1・
明朝が興るや、斉盲民族は忽ち支那本部鹿追はれ、長
        ’ヽ ▲■
城以北の故地に遭つた.そして間もなく元朝崩壊の悲
                      しんも●・’
渾に合しその輝かしき朝廷は失はれ、後清朝の興る
や逢にこれに辟傾し瀧のである.
 ところが、清朝は支那本部の統治上、北方民族が常・
  く▲わ●■ん                     小,●▲フ
 に絢根をなして発た鹿史に鑑み、その政策惰る巧妙周
 到を極め、勇猛果敢な誉民族む全く】骨扱きの形忙し
 てしまつたのである.いまその政策中最も挿著なもの
 と奉げて見よう.

            ●
 −蕪古に狭(ホシヱの制度を設け、王公の敗を埼して小
     ‘ん灯j   小サ一い
  王公に分封し、互に盤刺せしめて全車共同動作を不可
  h耶ならしめた.
   , ▼汁●       tんや●
 〓 刺鳴教を奨鞄してこれに耽潮することによりその偉統
               ●一ひ
  的な勇武進取の拷紳姦痔せしめた.
 三李古人に湛んだ文化を吸収する竣曾を輿へず、教生
  汚に安んぜしめ経済力の襲展を阻止して民族的活動を不
  可能ならしめた.
    一んはん
 四 年班制を執務けて王公を北京に招致し、支那式遊惰の風
    川上■んtr
  に馴致して金銭む浪費せしめ、その堆恵を郵つた.
 しかし、この政簾以上に孝丁口を音質的に崩壊せしめ
        ●●タも      小手●
た原個性、漢人の寮稚開墾である.康照年間頃から始
               けん,●17
まつた漢人の蒙地開墾は乾隆帝以後愈.その救む増
し、その上北窟等に奄つて遊惰に軟り金に癒した王公
は漢人に土地を発つたので漢人の赦は益−多くなり、
内山軍TnHの南部一帯から奉苦人は漸く姿を滑すやうにな
つた.・
−方、ウシヤの東方故兼は十七世紀の初め頃から漸
次清瀬となり、巧清算の北境を侵すので、清朝は
これに備へるため大童の漢人む満蒙に蓮ることを計
‡し、‡行に移らうとした矢先き、勃費した支那革
                          ■一▲ 一一■  、
命による清朝の崩壊とともに頓挫したので、これを憤
       小ん一ん       のるし
合に蒙古民族は敢然立つて民族主義の蜂火を奉げ
               ぐわいはん
  r襲古ほ清朝に蹄順しその外藤となつたが、賓邪の板櫛
 に入つたもので代打い.況んや清朝崩壊の今日「多年の仇
 敵たる漢人の支配下に層する理由はどこにあるJ
と叫んで内外斉竜ともに礪立国家創設に向つて奮起し
たのである.その後十年掛の攣、支は統率を以て経始
し、今次の支那事攣直前に於ては、家古は蕗・滴・支
三ケ圃の支配下に分割され、三宮萬の態雷民族坤満洲
囲の治下に入つた者を除いては、混沌たる政治的、鮭
               川川,く一抄・’
沖的、杜曾的諸情勢の下に彷捜しっ1あつたのであ
 」る.

    ニ内♯新政樺の樹立
”睾の警宴は封の勢ひを学卑属し、察恰
                          ナ† ハ

南方両に進んだ我が軍が八月二十七打張家口に入魂
   ‡つさん         くもいらい
ナるや」察南地域一簡の常仝、宜化、懐雅、赤城、龍
   lん付い                            は}
門、程度、辣鹿、懐安、暢卑蔚の十顆の民衆間に渉
 ‖げい
群として藩政横瀬舵、計漁政府掛立の泉渾が草生し、.
                       ヽ ヽ ヽ ヽ
九月四日鹿に張衆口を中心とする自治政府の成立を見
るに至つた.又九月十三日、皇軍が大同に入城すると、

 山西省北部の大同、暢高、左宰、右玉、
 、いろ       【んけル   ーい!
 平魯、山陰、天釣、洋原、庚霹、露坤、
 快仁、辟州、朔州の十三僻民衆の‥穂意
               ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 に基づき十月十五日晋北自治政府が組
        しん
 繊された.晋といふのは山西省の別名
 で、審秋時代に川ひられた名である.
 丁度七のころ、日常軍が協力して漆
               一丁▲lん
 攻西方に進撃し十月十四日練達、同十
    は・’と・’
 七月包璃を占絹した.この進撃によつ
 て締遽照域に裁つて漢家相民族む挺迫
                        ●
 tてぉた支那節閥は完全に一掃され綬
 嬢省の政治、難所、交池、治毒の萌職
                 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 は民衆の遊山結成しセ治安榔持合の手
 によつて行はれることとなり、十月二
 十入日綬述で開かれた警H大倉に於て
                      ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 三石萌の劫新撰糊代族代衣は蒙古仙聯盟由
  _ ヽ ヽ                     ヽ
 治政府の成北む心几斉し、政府主席に蛋
 ヽ      ヽ ヽ   ▲丁▲・叱い
 王、削主備に袖王む大々椎蔵し、年軋
 む改めて扱者思汗紀元七首ニ二十三年十
                ば▲′●一▲’け▲
 月二十八日とし、・この日を以て防炎協
 ■抄
 和の・日消政府を樹鼓、発火捷設のため
 霧粍き粛−歩む躇み川した.
 かくして柏木た前記三つの自治政府は、利音符失む
 同じうし霧委事項に関しては緊軒な銘制協調によb共
 同日的を建成する必宰があるところから、十一月二十
 〓日察南、晋北、態雷H聯盟の各政府代表が張衆口に
     ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
相合し弊社塀合委員曾を設立したのであぺ
    三 行政組織
 元爽孝丁口民族は遊牧の艮であるが、その自己窄展と
保全む希望する自然性から遊牧集園が生じ、その集周
       灯く ●
 がより良好な牧野む得ようと他の集囲と戦ひ強者は
粥小を衣服して段々強大になつて来た.ところが、清
朝は替苛民族が強大となることを栖瑞に恐れ「旗」と挿
する制度を定めて遊牧銀河の大きなものは分割し、小
 さなものはそのまゝとして、l定地域に固着せしめた
                         し■●t′ヽ
のである.その結果、各遊牧集輿間の争闘は経線し
たが、筆言放の金華的共同動作も全く封ぜられた卜
汁朝はさらに相隣壊するl定地域内の度しむ以て「盟J
ハチゴルガy)を組繊せしめ、三年に】岡づlこ定の場
併に集合、彗の報告むなし将来の方針む協放する制
度む定めた.たとへば錫林郭動盟といふのは十旗の
 王公が錫林郭動河畔で盟合を開いた盟のことである.
                                  ▲−
 そして盟忙盟長をおき盟内の王公を以てこれに充て中
 央部からも官吏を波浪して狭の自治を或る程度押さへ
 て打た.
  華ロの行政組織は以前から極めて簡単であつたが、
 新興替苛に放てもつとめて複雑化む避けてゐる.今蒙
 杜聯合重点曾の組椅を囲示すれば左の逸りである.
















                   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 これと壌一稔明する代りに禁絶聯合委員曾設定に押
 する協定と各政府の組織の大要を紹介しょう.

     耕合葬l●牧先に捕する協定
 第一條 本塀合委員曾は常温聯合委員曾と構し各政
  様に相関聯し一藻琴萌大なる産菜、金融、交洩其
  の一他必要なる京大事項の虚理に帥し各政権の有す
  る機能の一部を委譲せらるゝものとす
 節二條 聯合委員曾は線務重点曾及び産業、.金融、
  交独尊の各専門委員曾より成り各政権より特瀬す
  る委員及び必要なる職員ハを以て構成す
 筋王侯 組秒委員長は聯合重点曾を総理し聯合重点
   ▲曾を代表す
 茹四條 聯合委員倉は日本人最高願間−名、同参識
   及び聯同君干名を澄く.
 茹茄條 聯合委員禽の決諌は絶て関係委月並びに食
  料相聞及び牌係相聞の合議を要するものとす
 筋六億 聯今季只禽の指導銘制に関する命令執行は
   仙即今委只倉の名に放て之を行ふ
  各政樺は共の執行に付之を凍助し若しくは之首容
  易ならしむべき養蹄をュ分措ナるものとす
 瀾七條聯合委員曾に要する経費灯各政権の分梅と
   す
  第八條 聯合重点曾は各政棟の委譲により各政権の
  共有財産を管理し得るものとす
 粛九條 各政碓は合詠む経るに非ざれば委員合を眈
  ▲曾することを得ず
     雑音新雪治政府の組織大群
 第一條 雲脚盟自治政府の主権者を主席となす、主席は
  襲☆大命に於て袈音に於けろ徳望高衰且つ輩古復興連動
  に大なる功労ありたろものを逃伏す
  主席串故により職務を執行し料ざる場合は刷主席之を代
  行す
 琴一朕驚凋盟針治政府は筆H固有の狙土を以て領域と
      ウ’シナ▼ツナ  シ†ンノ ル  ナ† ハ ル  イ イン′’
  し、暫く真布盟、錫林部勒呪、察吟爾盟、巴彦轟拉
      l ′〃.▼●
  盟、伊克昭盟及び厚和市、包朝市を以て統治嗟城とな
  す
 第三條 蕪音聯盟百治政府は共産主義防止、昇族協和を以
  て施政根本方針とし生、衆、教、輿、養、衛の六字を以
  て施政の網領Lす
 第四條 芸盟自治政府の桝尊を空地左上角に紅兼白糀
  列とす
 第五條 苧H聯盟自治政府は成育思汗埠刃を似て年銑と点
  す
                ’▲Tハす ▲【 ■
 第六傭 芸盟自治政府を厚和衰特に罫く
 第七條 撃H聯盟自治政府新鹿の蓋臨州の稚阻ほ均衡の
  原則に基づき別に法律を似て之姦む
 算入鰊 蕪音聯盟自治政府の組織は別に之か貞む
     ♯鶉良治政府の組稚
 第一傭察南自治政府は一審同委員政務を続指し統治に崩し
  {切の斉に任す
 琴一陳 驚軍閥は島嵩委員の行ふ景事故務の執行に舶し
  其協鶉を受く
 革二朕察南自治政府に諸岡拗舶叩として政教義真倉を浸き
  政潮委員若干名を似てえを組轍す
 軒四條 政贅は人格高邁にして徳望あり且政府成立の
  忠義む稚得したる地方紳士中より政府之を任命す
 第五條 窮南自治政府に左の槻湘キ紀く
  穂淋鹿、民主虚、財政虚、保安鹿
     †北自治政府の地籍
 第→傭晋北自治政府ほ晋北地方人民の聴意に堺り之を払
  旅す
 第二嫌晋北自治政府に需帯同一名、最高委員一名及び
 委員二名を硬く、最帯委員は政務を線浬し政府新井各揚
 朔を統耗す、重要政教は蓋同、最高委員及び責の
  協執を経て之を行ふ
 革二倣 晋北自治政府に左の藷をせく
  寡、民政息、財政鳥「公安卓
  第四條 各鳥に頓聞及び席長各一名を置く、鳥長は最高義
  兵の命を受けて各鹿の事務を管理し其の折鹿職員を監督
   す
  第五條 寡は官印の保管、文宰、人事、庶務、経理其他
   政府の秘概に願すろ事項壷ナ
 第六條 民政鹿ほ地方行政、教育、土地、土木、地方産業
   矛び社台帯芋に関する事務を管掌す
 第七怖 財政鹿は租税、公債、金融、官藁及び重要産業
   に関する事項を管掌す
 第入條 公安鹿は響務及び司法に関する事項を管掌す
 第九鰊 寡及び各鹿の組織條令は別に之姦む
    勾 金軌、産業、交池
 昨年十一月、聯合重点合は資本金一千二首萬潮(四
                             ヽ ヽ ヽ ヽ
 分の一沸込)を以て三自治政府共池の斉鈷銀行を作り、
                         ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 金融の安定減滑を第一目棟として蒙起銀行券七敢行、
        く▲¶いし1フ
 極力薗通貨の岡牧をはかり三ケ月間で殆んど回収を経
 った.但し新紙幣は印刷が聞に.合はなかつたので曹満
 洲囲紙幣を利用した.そこで目下蒙纏地域に流劫して
 ゐる紙幣は斉鎧銀行紙幣、日本紙特、朝鮮紙幣、満洲
 殉紙幣で何れも同一倍億で池用してゐる.】方集村、
                      ▼ん〃, 一んヽ,
 中小商工業者の金融棲閑として各地鹿釆の銀就や費茫

を合同して青菜銀行を設立せしめ時制の統一j金融横
 網の二元化にもつとめてゐる.
 沌紫は原始的且つ幼稚であつて家畜が吾人わ生活
 費料の唯一の瀕泉であり、唯】の財産であるといつて
 もよい.徒つて産集中第一位を占めるものは家畜であ
             ,■く が叩
 つて、羊、属、牛、紡舵がその主力を占め、斉故地匪
 に放ける概数、革盲二十萬頭、席lニ十六常朗、牛四十
 六萌頭、騎舵十萬璃といはれてゐる.
 準は華口壌これを肉用、掛那用、皮毛糊専蔑に
 生活の資料を得るを目的とし羊毛は副産物税してゐる
 沖係でその品質は劣等であるが、最近各方面で秤羊の
 改良増殖が計壬されてゐるから速かちずその面目む】
 新することであらう.
  馬は蒙古に放ける交漁横網として重要快くべからぎ
 るもので、各戸で飼育してゐるだけでなく、遊牧地帝
 に放ては多数の放牧馬がゐる.佳良馬の産地として最
 も知られてゐるのは錫林郭勅盟北部の鳥珠穆弘地方
 で、教官頭が群むなして事々として遊んでゐる放牧馬
 群を見ること甘珍らしくない.警馬は日本馬に此し
       もい一−
−掛に鴇鰐燻小、性質温順であ・つてしかも頑強、持久
           ■■く小ん
 力に官み、粗食と酷寒忙耐へ得る特徴があり、支那馬
        」け小く
 にくらべると馬格も造かに良好である.中には有名な
             し■んl▼く
 上栴競馬にも州場して駿足をあらはし、その偶格は
 往々忙して数千憫と糾せられるものもある.
 牛は搾乳及び食榊忙供するほか、物資凝搬に使役さ
 れ、叉蹄舵呈として物資湛澱に使用書れてゐる.
 主叢務物は餓、石淡、盤、歪、石納、軍健等
              ▲fい.ぎ・9一い・’
 で地象滴、綴堵に多く抑俄最−倍数千嘲と日され、
 特に窮靖の鞄桐納税は桃純盈も普宮であカ庶錦の繊分
 合肴泉五〇乃至六〇%の最である.石衆は察南柏臨
 の叫耗承五倍噸、大同方斬は首二十億噸、緻壌方面は
 四倍噸見常といはれ非常に費宮で且つ求質も大同附
 紀のものは世界−といつてよい.横暴のふ耶料衆であ
−々●
 難は藤湖から純取するもので、グプスノールが最も
                         々ヽ
有名である.額潮は革原の砥部に水た湛へたぺので、
 これに続ぐ河川もなければ流はすろ水路もないのが普
菰であ▲る.湖中の抒研に絶えず駄水晶糾する額出口
がありト湖圃に四、轟の誉壷が巌晶してゐる・
稚拙は三月末から九月始めに五つて行はれ、年産塀は
耶柵ではないが、西鳥珠揚払附娃のみで大健二千五官
市庁程度といはれ自給自足に充分である.

 南光は全部漢人忙よつて行はれてゐるといつてよい
くらゐである.元来吾人は家畜によつて衣食住に閑
する必要敷涌してゐたのであつたが、異種族と接萌す
     ひん▲げん
ることが頻繁となるにつれて、これらとの間に交易む
                           は ▲花ん
生じ、同時に琴丁口人の自給自足経済が漸次破綻して交
換粁桝に移つたのである.こんな関係で今でも撃丁口人
の交易は異種族間のみに行はれ、苧H人相互聞に放
ては、殆んど行はれてゐない.粍つて華口の粛糞は常
に封増椚菜で、しかも入るむ立とした受動的な商翠で
あるといへろ.華口人の帝要商品は大根碑茶、砂糖「
梗革あぴ嗅焼革、酒、菓子及び装身具、沸具、馬具、
 Mレー▲フ 」■
什群等で、事襲前の内斉盲に放ては北京、天津、上海
方南の製品が盤倒的便勢む占め、庫良廉傾む以て誇る
 日*製品は蒙盲に放ては虐めて少景であつた.
                d叩・フ■ヽ▲,      付いは●−
 交泡横閲としては、北京、包頭聞入入○粁の京包鉾.
 活が史明施設の唯−のものであつたが、現在で止張家
            小」】 け
 口む基鮎として徳化、簾保、_ヰ定螢、繁昌、多倫、阿
巴嘩の間に定期自動車が充e、やうになつてゐる.しか
 しその他の放行には依然塩距雅は馬、長距灘は騎舵、
 牛串、大事が使はれてゐる.
    五 民情、息俗
         灯くとつlし}●
 蒙盲人は一般に朴柄剛毅であつて、その長上に射す
                   ●■●・’ ●ヽ
る尊敬放びに服従観念の肇尚なことと、計常生活の
 し●与一′     ・たんし●l
 伶武的なことは嘆賞に値するものがある.しかしl
南叉極めて保守的で、風習やh停故に反する進歩や故事
にはすべて反封する傾向がある.ヱのことは内蒙自治
             ●−
の大在動を沌せ起した徳王の如きですら、嘲痴以外の
                             べん
俗人は絶て態叫葛の風習に徒ふべきだといつて不便な#
 げつ
繋む保存せし打て打者一事を以て見てもそのl鴇が革
はれる.
 叉諌古人は儀畜む愛し、乗馬が上手である.そし
て生活や倖戟による原始的民情は我々町本人に割合
                     しんち●・r
親しみ易い鮎がある.元来蒙古は清朝が執つた族
制による分裂政策に原因して同族聞に放てすら共同
動作は困難であり、寧ろ相排斥し合ふ程であるが、一
                     はlフ 小 小▲フ】▼ん
般的には性格頗る朗らかで、輿到れば放歌高吟し、腹
       小 、
 むゆすつて呵々大笑する民族である.か1る明朗な性
                          ひ小
格の華nH民族ではあるが、今日迄の漠民族の賎迫に僻
                      モい▲r しん
 んだためか、一度外部に封すると強烈な狩発心を抱く
 やうになつてゐる.しかし一旦相手む信じたとなると
 最後逓信じ洩す性格の持主であるから、先づ舟ぜしめ、
 然る後はその虐墳を轟切らねやうにせねばならない.
                   ▲こ小
 日*人は現に多くの革丁口人から強い埴れと信叔の念
 を持たれてゐるのであるからこんな鮎は特に注意すべ
 きであらう.
  什琴Tロ人の風俗、習慣等は朗によつて異り、就中家屋
 は生活様式の費化に従つて費化を現はしてゐる.むち
  い,灯くみん     〆●
 純遊牧民の住む「華口包」は挿入と移動するために考案
 されたもので傘のやうな木骨を屋根とし、木製の郵形の
 柵を壁とし、これに毛皮又は耗子(フェルト)を覆うた
 もので、全土を一義の革に積載し得るやうに出来てゐ
 る.そして取崩しから組立までに僅か三十分といふ極
 めて簡便なも・のもある.牛牧牛真の生活をする者は右
               くl_メ▲▼
 と同型で屋根及び周卑を革茸とした固定的な家屋を益
 て、さらにH貴業が生産発となつてゐる地ではだんく
 竜郷式儀虚に牽へられでゐる.
  耗葬地帯では男子十六哉以上、女子十五義以上で鎗
       好いし●く■ん        ■▲●さ
 挿する者多く、戊駒人が締約と瀬結び、結納として
 家畜を貯,、青持と宰んで式と挙げるのであるが、●
 式の方法は節忙より伸一専攻なのがある.

 刑座する時は妊婦む衆人と別の包む作つて入れ、俳
                         一くん●一
節に稔明を捧げて、舵婦は包円の砂上に昇指して沸と
念じつ1助産婦に腹む抱かせて分挽する.産兇は布に
包んで舟のやうな形をした寵又は特に入れて砂を温め
て袋に入れたものむ拘泥部に想いてやるが、虚射な.
 小lいドレ
嬰妃はこの時に死亡し、強健な者が生存するといふ
のであろ.
                 あ l▼
 態俄は一口に云へば柁槻退来で、原野に遭来された
死場は鳥辣の餌食となるが、もし数日後になほ死線が
            ノーんこん
壌つてとれば.その人は書根足らぬ者として、再び嘲嫉
に靖終せしめて禿てる.こんなエ合であるから誓で
は玄公のほかには基を設けない.
    大 察  教
                                ’ ▼
 苧H人のすべての行動は殆んどその宗教たる嘲破故
によつて律せられ、労働するととは嘲味に供養するた
 めであると考へ、時には自己の生命をも嘲味に凝げて
働かも悔いない程の信仰振りむ敬挿する.元来嘲味軟
 といふのは俳軟の一派で、L{経典は地理、樵史、救拳、
           l●山く    む−ん ■y
 軌理、化拳、天文、易拳、教育「倫理、者単に閑する
                       ●・た, 一灯く
 こと進含み、嘲賦は伶であるとともに教育、所樽、卜
 乱専の→切の行事む智者してゐる.そして荷物は件の
 挿生として最も稚力を持つてゐるのである.
 済朝の封労政衆により、苧Hでは男が生れると長男
−人臣衆に現して他は全部嘲味にするので、非生産的
                           ‘ ペ与−
 な嘲瀦の赦のみ著しく増加し、且つ豪洗車淀な寺廟む
       こん,−                              ●■I
 各地に建立させられたため、率丁口人は財的に非常に痕
 げ−                                ▲ ぴ
 乏し、延いてはその進取勇敢だつた気風も女粛忙萎廃
 した.近時華口人布教者中にはその弊審を自発してそ
 の改革を叫ぷ者も多少は川て釆たが、何しろ外華日の
   ●●l」灯・,
 如く狂暴なる窺軟押歴の下忙あつても、なほ嘲暁軟の
 償仰を捨て得恥のが彼等の*性であり、斉盲人と嘲ヰ
 と切り施して考へることは椚衆ないといつて上い.
    七 内耗斬費立の意義
 以上、内禁古の一般を述べたのであるが、最後忙眠
 とその周囲に特じて見る.先づ北方と西方はすつか少
 y堺邦の属領化された外肇丁口忙壊してとトy、ソ研邦の
 赤化エ作はこれを劫じて内葬忙ヽ入らんとしてゐたの
                、一′●い
 である.又南方は塀ソ容共を表明してゐる支郷に凍し
              ▲り一い
 てとり、済朝以黎円家に郎政を施して発たのである.
                    ●●いしん
たど育方だけは皇邁紫土とめざして邁進してゐる浦洲
 珂忙積し、蒙古民族の一部は既にこれに包含されて安
 居輿仙美してゐる.
 かうした四囲の情態の中に卒つでト今次事筆を契故
 に内斉復興運動が完成し、防弗協和の棟と押し立てた・
 新政権の樹立雀れたヱとは、誠に意義深きことといは
 ねばならない.郎ちソ聯邦の極東赤化政簸は今や内
         し†I山い
 斉と云ふ大きな陣碍に直面したのである.彼が北東へ
 の最短通路と考へてゐた外蒙庫倫む経て円蒙張衆口よ
 り北京忙通ずる道路及町新盈れら包頭む経て北京に至
 る道路はすつかり中断され、今次事襲以来一段と密壊
                         I lん
 さを増したソ真の連絡はこの速断により迂遠な道をと
 ることを飴俵なくされたのである.そしてこの防共新
 政府の成立は日滴雨固の赤化に対する強力な障壁の役
 目をなすは勿論、これが健全な蚤達は日下ゾ塀邦の盤
 迫の下に坤吟しっ1むる外蒙艮象を同化し民族主義窪
 動の原野刀よもなり得ることに息ひ至ろ上き、これが
 指導の立場にある我が国の責任は酸に大なるものあ少
 といはねばならない.

      ◇     ◇.

 山鹿する時は妊婦む衆人と別の包む作つて入れ、俳
                         lヽん●●●
前に燈明を捧げて、舵婦は包円の砂上に昇距して梯と
念じつ1助産婦忙眩む抱かせて分挽する.産兄は布に
包んで舟のやうな形むした租又は箱忙入れて砂を温め
て袋忙入れたものむ陶陀部に想いてやるが、虚射な.
 hlいいレ
嬰妃瀬この時に死亡し、強健な者が生存するといふ
 のである.
                 一_ ▲▼
 敷硫は一口に云へば柁牌逮架で、原野に遭棄された
死場は鳥辣の餌食となるが、もし数日後になほ死鰭が
            一んこん
壌つてをれは.その人は者叔足らぬ者として、再び嘲嫉
 に滞絃せしめて禿てる.こんなエ合であるから誓で
 は玉公のほかには基を設けない.
    大 森  敢
                                ’ ▼
 苧H人のすべての行動は殆んどその宗教たる嘲暁軟
 によつて律せられ、労働することは嘲味に供養するた
 めであると考へ、時には自己の生命むも嘲味に凝げて
 潮かも悔いない租の信仰振りを敬挿する.元来嘲味敦
 といふのは俳軟の一流で、什経典は地理卜撼史、敷革、
          l●小く    ,ん●−
 軌理、化拳、天文、易拳、教育」倫理、者単に脾する
                         ▲● ▲た・’ 灯く
γ こと進含み、嘲痢は伶であるとともに教育、斬樽、卜
 一い        くもんし†I
 宏専の→切の行事を管掌してゐる.そして清物は件の
 持生として最も碓カを持つてゐるのである.
 済朝の封斉政衆に上り、華nHでは男が生れると長男
 l人を家に壊して他は全部柳瀬にするので、非生産的
                          ′▼ →●−
 な嘲強の赦のみ著しく増加し、且つ豪肛拳琵な専廟と
       亡ん,I                               ●●,
 各地に建立させられたため、華口人は財的に非常に窮
 げ▲                                 さ ぴ
 乏し」延いてはその進取勇敢だつた気風も次第に萎廃
 した.紀時華口人有散者中にはその弊審む自発してそ
 の改革を叫ぶ者も多少は川て氷たが、何しろ外寧丁ロの
   ●●,灯−
 如く狂暴なる山ポ軟押壁の下忙あつても、なほ嘲暁軟の
 侍仰を捨て得ねのが彼等の本性であり、常吉人と嘲強
 と切り施して考へることは桝木ないといつてよい.
【    七 内耗新政樺樹立の意義

面鵬掛鮒紺
              ▲つ一い
 てとり、済朝以卒円まに照故を施して衆たのである.
                    ’いしん
 たど音方だけは皇濃紫土とめぎして堵渡してゐる満洲
 南忙‥接し、蒙古民族の一部は既にこれ忙包含されて安
 屠草葉してゐる.
 かうした四囲の情態の巾に車つでト今次事筆を契故
 に内蒙復興運動が完成し、防弗協和の兢を押し立てた
新政権の樹立雀れたてとは、誠に意義深きことといは
 ねばならない.郎ちソ聯邦の極東赤化政東は今や内
         し●l山い
斉与苓ふ大きな降碍に直面したのである.彼が北支へ
 の最短洩路と考へてゐた外蒙鹿倫を経て円斉張家口上
 り北京忙通ずる道路及び新浸から包頭を経て北京に至
 る道路はすつかり中断され、今次事挙以来一段と密凍
                        l・lん
 さを増したゾ真の連絡はこの速断により迂遠な道をと
 ることを飴俵なくされたのである.そしてこの防共新
 政府の成立は日満雨靖の赤化に封する強力な障壁の役
 目むなすは勿論、これが健全な教産は目下ゾ聯邦の盤
迫の下に坤吟しっdむる外家康衆を河化し民族主義鶏
働の原動竹之甘なり得ること忙息ひ至ろとき、これが
 指導の立場にある我が国の責任は瀬に大なるものあ少
 といはねばならない.


        ◇       ◇