第七五号(昭一三・三・二三)
  伊太利のファシズム       外務省情報部
  航空機製造事業法案に就いて    逓 信 省
  敵軍空襲の体験 (付)戦況   海軍省海軍軍事普及部
  我が砲火隴海戦を制圧す     陸軍省新聞班
  馬の軍事教練         馬 政 局
  独墺合併成る         外務省情報部
  最近公布の法令        内閣官房総務課

独墺合併成る         外務省情報部

宿望・第三国家の建設

 ドイツ・ナチスの網領の一つであるゲルマン民族の
団結による所謂第三国家の建設は、歴史的、地理的に
見て、何人も首肯出来る要求であつて、ヒットラー総統
はドイツ国外、隣邦国内に居住する一千万ドイツ民族
の保護を以て現代ドイツの責任であると主張して来た
が、今回の独墺合併によつて此の宿窒は.はじめてそ
の一部む達成されたのである。・
‥したん
ヰ阿の濁襖合肝掛穎の直接の事端は、二月十二日、
オースーガア首相シチツ三・ツク氏がヒッ†ヲー線統の
一,一い
紹請忙應じてべルヒチネガ九テγの山茫佑於いてヒ紘
統と合洗した忙初まり、舟を舷車℃事瀞は姦に樽換
した.跡ち同曾談に基づくオースーす7・ナチスの領袖・
7ルツール・ザイス・イソク7ル†氏の内相条保安相就
任によるオーストy7内閣のナチス的改造は、特じて
三月十三日塊閲上民投票を賓施するといふシュシュ王,
入さ
ク首相の隼明となり、次いでこれを速約と見傲すドイ
一て・r
ツ政府の強硬通牒となり、オースーy7・ナチスの政稚
掌塩となり、この新政府が閲円治安雑持のため濁渾来
しんち▲▼・’
援を嬰求したのに應じドイツ圃軍の也境進駐となゆ、
嗅閲政府のサソ・ゼルマソ條約厳棄室岩となり、かく
て三月十二日速にドイツ政府瀬線統令を以てオースt
Vアをドイツに合僻する旨公布した..同日オーストy
7政府はまた憲洩桝見の非常手段忙脾する法律第三條
第二項に基ザいて、濁嘆合慨にい廟する新法律を我布
t〕その第†條・に於いてオースーy7はγイツ固の一
州である旨を規定し、いづれも如持故力を牽生し1セ
こに多年の間頓であつ永猫塊合併掛申よ】′⊥」・1‡現す尊
こととなつたのである」
このオーストy7法律筆」條に拳づき、此の澗塊合
、\
餅については氷る四月十日(臼暇月)を期も三亭歳以
上の男女の自由秘碑投票による人民投常が行はれるこ
ととなつてゐるが、クィーソに釆込んだ七ッ†ヲー搬
耗に封する塊拘民の自勲的欺迎ぶり、也びに臥洲緒娼
が礪壌合併を以て眈成事‡とみなしてゐる情勢に■鑑
み、恵二般投栗に於いて慧罠がタ教皆以て合絆の
事‡を承認するは耗のない斯である.
ドイツは一九三五年三月蹄鳥したザール地方を加へ
て人口六千六首甫、南碑十凡帯−千方哩であるが、之に
ォーストy7の人口六首五十萬、南攣二萬二千方哩で、
雨者ム【併人口七千二首五十嵩、面頼二十一嘗二千方哩、
牧洲有敷の大飼となつた.ヒッ寸アー親就は濁壌飼境
のオーストyア側の小邑プヲナクの生れであるが、今
回州施以埜二十飴年ぷりで此の施鼻と訪れた・ドイツ
尺族がドイツ民族と合して大ドイツを作る玉大な鹿丸

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的事共が、ヒットヲー紙統の科烈な努力忙よつて甘現
したことは誠忙敬服忙たへぬ朗である.こ1に濁喚合
併の由木、鮮綽汝びにその各囲に及ぽtた影響につい
て簡単に僻詮して見よう.
合餅第l歩・巧填協定
●ll■_丁●ハン′▼I
オーストXアは炊洲大戟前、嗅洪南と構し、中駄
の大固であつたが、敗勒の結典一九一九年九月十日の
サソ・ゼルマソ條約忙よつて」圃土の三分の】はナエッ
ヲス。ヴ丁キ7に分割され、他の三分の一は濁斑圃ハ
ソガサー忙合し、オーストり7自身としてはクィーソ
市む中心とする人ロほゞ東京市に等しい粥小閑と化
し、絃済的忙も濁立困難に略り、その後の不景果のた掛
に英俳む中心とする固際聯盟の財政的竣助を受けて宰
うじて存立を保つ有様であつたが、サy・ゼルマソ條
約は第∧十入條に於いて、固際聯盟理書の同意ある
場合の外その璃立は動かすべかちぎるものとして礪
穎ム昇を禁止し、ドイツもまたヴェ・ルサイユ條約第人
▲けん
十條忙於いてオーストXア固の濁立を永認し、且儀に
その♯重を約して合併禁止を承認せし価られたのであ
こた・
かくて一九三一年三月額表された礪塊粥税同盟は、
ム一備の第一歩だとして英俳の反封を招きへ−グの閲際
裁判朗忙おいてサソ・ゼルマy條約蓬反の判決を受け
て取渦を命ぜられたのであつた。併しながら隣邦rイ
ツに於hてナチスの弊力強大となると共に、填固内に
・たいレ●・’
もナチス勢カの操頭を見、一九三四年七月二十五日、
オースtVてナナスの一隊がドルフス首相を首相官
邸に嗅宰して之を曙殺する等の筆事があつたが、シー
シ三ック氏は、・、クヲス大溌領から首相に任ぜられて
同内の混軋を治め、キ甘スt教的、r4ツ民族的就一
軋家たることを以てその後の政治の根本方針と定め
た・此の事奨常時イタ甘−はオトスty7の濁立を支
持す渇ま前から閲軍を琴伊固墳に集中ん、濁伊。封立
はあはや一戟に及ぶかと見えj形勢を展閑しセのであ
つたが、ドイツが右暴動に無粥係計宜し譲歩して叔尊
にお雀まつた.普時ドイツは女だ軍備の管カが十分で
なく、ヴェルサイユ條約の鱗鉾む断ち切れずにゐたの
で、已むなく平和的に事態を虚理することを望んだの
であつたが、英沸はその後イタ眈−を昏分の味方に引
tし
々入れてrイツの進桝を阻止しょうとする政策をとる
に至つた.
併し同年六月二十四日、ヒットづ−のイタX−訪間
によるtットヲー、ムッゾy−エ雨堆のヴェ一lス曾級に
地叩を額した濁伊凍近はその後の囲際情勢進巌と相供
つて次粛に進められ、−九三六年七月に至つて、♭イタ
▲−つ一ん
y−が蔭にたつて斡旋の労を取り、猫嗅協定が椅結さ
れた.
璃塊協定の骨子は常時雨囲政府から磯衣されたコム
ミ.ニ【ケによれば左の如きものであつた.
二)ドイツ政府は一九三五年五月二十一日ヒットラー線
・続の畢明に基づきオーストリア囲の完全な主柏を乗兎
.する.
ハ二)弼襖雨団政府は互に相手囲、内政粥題に封しては直
嬢たると間鉾たるとを開はず一切干渉せぬことを晋的す
る.オーストリア・ナチスに朗する開薙は固内間麺とし
て鹿瑞す.
(≡)オーストりア政府はオーストりア同をゲルマソ民涙
向家とすろ叔本原則に基づく現在の政染を襲吏†ること
なし.但し本麻則の排持は一九三四年三月伊埠洪三観故
府間に稀轍されたロー†鶉売香ハ三開間の友好なろ協カ
を促鍔する親和政架を伸長するため三図間に粥係あるあ
らゆる閃窺につき協執することを的東したもの)及び
!小‥し
】九三六年の同姐知鶉受事(他のこ拘と沌め聯賂するこ
となく、】彗二拭との間に〆三−プ同鹿に関する政瀞的
交渉を開始しないことを約東したもの)に何等彰響を及
ぽ†ことなく又オーストリアの伊洪雨均に封する地杜も
之によつて影響を受くることなし.
(四)掬、埋雨同政府は協調湘係の確立に必要な諸條件を
士施するためそれぐ滴切安歯な手段む考Tる.
右執定書は衣面ドイツがオースtザ7の濁立を隼重
してゐるやうに一見えるが、第三項忙於いてオースtサ
丁固家をゲルマy民朕拘家とする根本度則七認め、
此。鮎において濁喚合併を曙示するもの&雀解せら
小つと・’
れる.之によつて濁嗅間の葛藤が解渦されると共に、
■ツ●lフ小い
オーストサア間顆に紳して礪伊間にむ諒解が成立レ
たものと見られる.果して同年十月にはイタ軒−外相
一ナー
チ7ノ伯がベルりソを訪閑してベルVyトローマ棺
一▼くl▼∫,▼ヽ
軸はいょ〈輩同となつた.今同の礪塊合併について
利曹閑係最も帝接なイクy−がローマーベルずy梶
びゾー・,
軸を守つて微動だもせず、ヒットヲー馳統がムッゾX−
11首相に親書を迭つてイタ甘−の好意を感謝したの
も、その枚本は右の猫塊協定成立昔時以衆の礪伊間の
諜解が基礎になつてゐると息はれる.そして今困の
礪塊合併窪動の口火を切つたべルヒ一丁スガルチソにお
・けちと,トヲー搬洗とシュシ一三ック首相との合鼓の中

21

心締題も、此の濁塊協定間項にあつたのである.
斗火線となつた圃民投幕
如ち同曾談後黎衣されたコソミ三ケにょれば、同
l▼▲「ぐ}
合淡の目的は右礪塊協定の賓施に際し邁遇した閑難を
一揃するにあり、雨囲は右協定の趣旨に従ひその友好
●ん人つ
緊碑な抑係が「ドイツ民族の謄史及び兆同利溢に合致
するやう互に確立されることを保詑する稽砥を直ちに
執るべきこと」を決定したものである.そしで此のコ
t■ヽ
ソミニーケに示された稽魁の一つとしてこ月十五日前
の政的氾人にして塊拘内にある者−多くのオース十
たいし●
V7・ナチス耗貞1の大赦がシュシニーック首相にょ
つて行はれ、l一月十六日のシュシ三ック内開の改造と
なつたのである.イソクアルト新内相が従来と輿なり、
集曾、宜侍、結址の取稀に任ずる替察事扮む食ねるこ
ととなつたことは、オーストyア・ナチス畔螢の強化と
して同方面から欺迎されると共に、組圃戦線、ハップ
ふくへ●
スプルグ王朝復辟淡、カtyック鴬に封して大打堰を
輿へた.ニ月十九日、オーストV7政府は「ベルヒテ
Hし一こん
スガルテソ曾談の結兵、オースト甘7・ナチスは爾今憲
法む食重する隈り組囲我線その他の組擁に於いて他の
塊圃民囲健と同株合津的に清動すをことを得」と弊明
し、rルフス噂殺事件以後∵組固俄線の一耗政治や進
んで釆たオースー川7団内に於いてナナス洋の同碓
を認めると共に「ドイツ政府は嗅飼内政にドイツ・ナ
チスの閑輿を禁ずる稽碇を執ることとなづた.之む
以てオーストサ7の執るペき稽澄は打切る」と隼明し
た.
′、・’11フ
朗で此の政欒から政界肘界各方面に動格を生じたの
●ユ丁・’
でシュシュエック首相は人心の好租を明らか忙するため
固民投秦に間ふこととし、三月九日イソスプルックに

おける組埼勒線大合忙於いて米る十三日を期し「喚嫡
が自由、礪立、祀曾的、ドイツ民族的、キyスt軟的
統一開衆たることむ欲するや香や、叉や和、昇働故
びに組圃愛及び代族愛に自発する一切のものの同横灯
梵成するや香やにつき紙抒的に費成叉は反封を投裏
すべし」と布合した.然るに首相は此の投票者賛格を
二十四磯以上の者と定め、青年ナチス演貝の投票横を
認めず、従つてオーストV7・ナチス側に不満が爆
教し、ドイツ政府はまたシュシュニック首相の速約を
●−1フだん
糾弼し、オーストyア周内に政蟹が鹿額してイyク7
ルト氏が政横を捏り、治安枇持のために礪軍を招き入
れたので、礪軍は僚略者と呼ばれることなくして圃境
を墟えて嘆固内に壌駐し、ミクヲス大耗領及びa1シュ
モん
ヱック首相は、ドイツ民族同志の流血の惨を防止する
■ツ
ため、濁軍に封する抵統を舵賛したので、苧和裡にr
イツは上鐘の如くオーストV7をその一州とすること・
が出来たのであつた.
堆敏なドイツ外交
然らは何故にヒットラー組統が此の時期を仙澤んで濁
塊合併を断行し、又それに成功したかといへば、ソ聯
邦、フヲyスが内政上の不安から封外的に教首する飴
裕なしと見てとつた鮎もあらうが、その主たる原凶の
一つは英圃。外交政策の樽換であらう.如ち英囲にお
いては徒米ヴェルサイユ條約及び閲際塀盟中心の集輿
的苧和保陣確制の確立に重鮎をおき、右間奄及び曹ド
へんくわん
イツ領棺民地遭還間蜃につきドイツと封立し、エチ甘
ビ7間頓、地中淳間穎忙つきイタず−と封立し、英固
が狗伊梶軸との封立をいかに虚理するか箆日されてゐ
たところ、咋年未の英濁、英沸曾談忙つどき本年に室
りいょ〈外交政策モ‥称換して濁伊との封立度和と抑
ることとし、イーヂy外相はこ月二十日鮮職して柑確
相ハyフ丁ツクス卿が之忙代少、先づ英伊甘鼓が開始
されるに室つた.

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此の英閑のイタy−接近の珊後には、イクX−を利
を以てさそひ、礪伊梶軸を舶化させょうといふ政策が
合まれてゐると軌察する者もあり、それと閥聯して日
*にも帥係が深い鮎があるが、ドイツは此の英団の外
′−▼くて小一い
交樽換の逆手をとつて一気呵成忙中敗への進mの第
−歩としてオーストV7間項を解決したのである.英
図の意照を知るイタ町−もまた英帥の倒誘た温けてド
イツに封†る背骨に廠じなかつた。ために英仰曾談は
頓挫の気配となつたが、濁伊栴軸は竪く保たれた.
ヒットヲー線統の増を見るに敏な外交手椀がこゝにも
澄稗されてゐる.之がために英団においてはやゝ封凋
反感がその調亜にはなほ桝間を婆†るであらう.攻に
礪壌合肝が敗洲.に及ぽした最も蔑な影響として申欧
諸固に封する開係を見よう.
敗洲政局への彩響
炊洲大戦後ポーヲソド及び三小協商団は、フヲソス
との協調に傾いてゐたのであつたが、礪伊勢力の樽頭
と鶉に、ポーヲソド及び小協商固中のルーマエ7、ユー
ゴースヲヴィアの二麟及びプルガyヤは、漸攻rィツに
凄近して米た.ローマ鵠忠書金加圃であるハソガy−
も親雅的となつた.小協商団中唯丁の反濁的の団は、フ
l一}一じ−●
ヲソス及びゾ塀邦と相瓦複助條約を結んでゐるチェッ
ヲス。ヴ丁キ了固である.チェッヲ円には三首萬人の
ドイツ民侯を稚し、ヒッtチーのゲルマy民族圃家の
理想からいへば次の目械がチェッコとなをのは自然で
ある.かくて瀾嗅合併以釆チェaコは自掛の存立に非常
”い・∫▲
な脅成を感じてゐるが、外交上の盟邦である抑ゾの後
凛に多くを桝待しえない桝にその偶みは一昏強められ
てゐる.
之につきチェルコ内の新聞.は、少救民艶閑穎は周内
間顎であつて、外固の干渉を許さぬと論じてゐる.
欺洲のや和緋持については、兵固は濁、伊が聯盟鑑
復好の意なしと見て、濁、伊と協調するためチェ・yバ
レソ首相は聯盟中心政策に見切りをつけた旨を尊明
し、新情勢に卸した英沸濁伊の四蠣協定締紛に向つて
準備をす1めて碑たと見えるが、憫塊合餅により中欣
に勢力を著しく碗大したドイツを見ては、英図も改め
て固内典論に同ひ、第二段の箭を碑じなければならな
いでむらう.
■ヽ■ツ一
ドイツ外交政策の成功の反面には革抑外交の青慮が
〃小い=
うかゞはれ、此の櫛かカ小かなる打開策がエ夫せられ
るかは注目され滝研である.