第六三号(昭一二・一二・二九)
 歳旦祭・元始祭の意義       内 務 省
 時局下の新年奉祝         文 部 省
 電力国策の全貌          逓 信 省
 南京攻略後の粛清         陸軍省新聞班
 燦たる南京入城         海軍省海軍軍事普及部
 人口一億に達す          内閣統計局
 イタリー脱退と連盟        外務省情報部
 最近公布の法令         内閣官房総務課

南京攻略後の粛清         陸軍省新聞班
−北支方石
ヽく川し
山西省太原南方の平造方面の敵は発般来藩攻邪儲附
沈へ進伯の徴があつたが、過日我が騎兵部隙が敵の前
りん
迎和陳ほ繊槌を加へて以粛平静で日下凍鹿的行動の後
を認めない.
大谷衆梢方地濱忙は敵の小部験が虜モ山地脚の緒部
淡川に山M線をしてゐる。
馬占山碍約四千は十九日朝包朗南方六十粁附紀を北
池中で箭も軍八千は〓十粁を楠て1之と相封し我が飛
行隊は常枯軍に協力中である.
▲い
各地方的安の同復に伴ひ民衆鵡動も壊頭しっ1あつ
たが南京隅落と新政穂の掛立とにょり愈そその管行恕\
促進し典牌化するに室つた.共の主なるものは次のや
六ノである.
L石家荘に於ては聯合治安錐持今薮僻の下に各廠
代表、宗軟園健、教音各倉代表、各柿開鴇代表、艮衆
代表等約三千名参塊し新政横樹☆度純及之に封す
る希窒及量軍感謝等に封する決議を行つた.
乳咽確、汐河、耶耶、武安、彰徳に於ては十五日明
朗新政府の樹放を祀し顆下各代表を鶴め新政府を
支持し速に防共安民友邦親睦塵菜開教王活柴土の
連設に渇堆せん事を普つた。
&大名に於ては願下各村代表約二千、臨棒に敢て.
は約千五首、磁館に於ては約三千参集し新政樺鎗
▲▼▲
甘度疏大倉及島軍欺迎大曾を開き勲誠溢る1新政
稚鞄封支持の決議をした。
新政府は十五日苧稼裡に天津潅柑を篠牧しカ強き粛
】歩を躇み出した。
】方山東省方南に於ては暴虞支郊軍はづひに我方と
▲†つ●一
の口約を破棄して、邦人三十年の指据鮭営にか1る教億
の財塵を悉く破壌椋奪或は放火などあらゆる暴虐手段
いレ▲7’ん
によつて慄踊しっ1あり、戦火の賛河以南に及ぷ壕合
支那民衆が蒙るべき危難を考慮して、和半収拾にあら
ゆる努力をして木た我軍は二十三日牛後四時左の如き
天津軍司令部常局談を教表、済甫、青島方面の支郷軍に
封し断乎阿懲の繊槌を下すべき重大決意を表明した・
天津‡司令都♯鳥故
ナン′●‡いlい
育島、済南及膠済治操等山東省内には日木は支群との
間に山東濠付脇粥その他の的定に拳き正営に保箆せらるべ
き耗多樺名を有し、これに伴ひ在留邦人の多年の穿カによ
り野呈げたる欺億に義する箕壷があるのである・今歪
襲の群野Tるや帝囲は山東省に戦火を波及せしめぎる希葛
から邦人の撫引蕗げを決意しもつて事増の筆生を防止する
と共に、韓郵罪に封しては山某省の大都にわたり、汲†島
▲_LTナン′●

15

市長に封しては脊島特別市における邦人の権雀柑窺等の倖
葎方を交渉し、▼丸に封しヰ復葬ほ彼の続制の及ぷ取りまた
“レ●く
洗市長は岡市附近にて日本軍との叢を惹竜せ一ぎる限り、
これを倖渾すべき周答を碍たので、こ▲に常局は一時絶て
を忍んで令邦人か⊥撒退せしめたのである。その後における
甘鳥鞄は特に海革の毒操外に硬き、また山東軍の攻勢に
喋してもこれを賛河以甫に準退するに止め我軍は一兵と牲
も萌河を也えて前湛せしめないやうにこれ姦止する等あ
らゆる鹿碇を紙じ七のであつた.しかるに十一月十七日頃
▲,・71ワ●く
ょり済璃における邦人池留材塵が官態の公諷によつて凍
野せられ、殊に十夏手凋前後には現地支邪人の失業を
供れての髄料、外開側の息雪等にも耳を籍さず官憲の命によ
■レはく
り正親兵をもつて仙河川、博山琴の泉瀬を爆破し、治操各地
の邦人草材庸が蹄革せられ、本月十入日夜より脊島にお
いてほ邦人称驚の幾エ壌地帝が市普局の命令によつて爆

故及故火せられ多欺の邦人繰曹紡撰エ場は鎗に烏有に帝
し、衣いで最近電に菅島市内の邦人汝旬材壷が捻導せられ、
々、ん
彼等の暴虐なる行馬は今後奈建にまで湛康するや汲測すべ
からぎろに至つたのである.安郷側普局の骨倍行血帯たる邦
人の鞍常材鹿稚益等の破牡に封しては、徹底的に府憩を加
へろとともに、これが正普なる挽専の笹を努求するほ勿
輸、これが保詑を捲得することも敢て辞しないのである.
ニ江北方育
揚州城を占糠した花谷部隙に引き頼き鴇子江を渡江
げう
した部験は十六日タその先鋒を以て儀徽及その西北方
四粁背浦椿附近を占嬢し主カは揚州西南方地囁に津し
た.又その→部は十五日夜銀江を出教水上横動忙よ少
十六日午前八時牛六合附妃に奇鶉上睦して之を占捷、
タ割には早くもその西方地富に進出した.六合附近に
轟つた敵は山東軍に属するもののやうである.
儀徴附近に進出した部験は十七日出我以釆水口銀
(聴藤東方十四粁)附近の敵を革破し十入日正牛過ぎ源
麻東方地置に進出、十九日より源漑附近の敵攻宰を閑
始した。常面の敵は第六十三、七十入、首ニ、首三師
≠虜する部抹のやうである。
\我軍の−部は十九日午後四時三十舟砂河集(漁廉
し●
北方十二粁)を占撮し津浦儀を遮断し主力は二十日牛
前十時聯願を占嬢し南方及北方に向ひ敵を迫弊した.
ニ十二日には立山頭(漁耗北方十二粁Y及朱瀧稀を奪
取した.
騎兵験はこ十日張入嶺(聯席北方二十二軒)を占挽し
敵の革験輸準二列革を攻率多大の輯啓と輿へ客革貨且丁
ろくわく\
十車輌を虚種した.
此の方面に作戦した部隊の戟典は次のやうである・
敵の濾繁死健約一千、客革十一輌、易革四輌、迫
革砲四門、柵米l千嘩小変】千俵
先忙揚チ江を渡河した牽琴氷津の拝部験は十入日
主力と以て揚州を各」部を以て仙女銀、俵徽、十二
坪を占壌したがこ十一日は北進して郁伯銀を占操し
た.
三続州方石
南京政略部摩は求を牧め征衣の戦盤と沸つて木る可
き飛揮に傭へて英東を牽つてゐるが、その一部たる蕪
潮を故略した部験は息つく朔もなく毎して杭州方面
に向ひこ十】日牛筆蒔由十舟馨鋸穎(中音甫方約入
粁)附紀に進出した.
ニ十一日タには一部隊を以て孝箸北方に】部険を以
て洩保に達したが、ニ十二日には孝費附沈にある四、
五首の敵を騒逐して南進し午後三時頃斐渓(飴杭西北
方二十粁)津叔椅東北方約四粁の地齢を漁過し依然坑
州に向ひ前進中である.
又上海待壊中の00部除も行動を租してその食頸は
こ十】8牛後二時十分家兇村(湖州南方約二十軒)に進
出した.錬いてこ十二日牛後二時には三稀禁究簾北方

16

四粁)水市鈎ハ莫千山東方十二山野及甫基林(徳清東北
二十粁)を失々通過して杭州包馳の陣を進めつ1あ
る●
l,小一∨
枕州附近の兵力は五偶師を基牟としたもので、域内
には一開以下の兵力しかゐない。その他別動隊愕衣隊
等より成る替察隊宋干がゐる.叉上柏銀衆南高地には
敵兵なく孝費錦附近の敵は西方及東南方に温却中であ
る●
l′しさllワ
杭州の敵軍は大動格を米し戦窓を貸つて施くも銭
櫛江む渡河し、封岸地囁を西南方に向ひ鴻充を開始し
たといはれてゐる.
中支方南戟死者の態海合同慰黎柴は風寒き十入日
牛後二時より南京故官飛行場に於て厳かに執行され
た。飛行壕の中央に建てられた自木の者棟には「中支方
南敬宛者の藤棟」の女字が食き億勅を示す中に悲しく
し●く
も諌まれる。障海軍部隊新然と亜列し「図の銀め」の
てん
嘲帆が堵き渡るや舵顛な条童の玉碑奉粂が執行され\
最後に昇紳の俵があつて同二時牛悲しくも盛なる式を
彗た卜
四南末攻略と欧洲戦に放ける要準攻鴫との比戟
我軍の甫京攻略払常京が安那の首都であろのみなら
ず、南京要塞は洗日作哉計婁に基き民固二十四年(昭
和十年)以来五千革冗(一元は略」周)の鮭費を以て現
代式に檜強せられた竪固なものだけに、仝せ界注自
の下に行はれたが、我軍は首都防衛のため決死的砥
銃をなした康勢な敵に封して僅か四日にして背水の件
し一ん
を布ける赦軍に域滅的打準を輿へて格落せしめたこと
はすでに周知の審であつて、せ界勒史に永く煉然と
坪く金字塔と打ち樹てたものである.
し●、い
欧洲婁塞戟中嬰塞の強度守兵の素質等南京要塞と此
かJ
投的似洩つたものを選んで革ら本防襲哉(本防架線と
は防架の中心或は額心となるものに封するその外倒に
教ける最後の守りの線)の攻準開始以後を左に表とし
て此揆して見よう.・

17

ー般に要塞等の如き防架物によつた敵を攻畢する場
合には攻者は防者の約ニ、三償以上の職カの康勢を必
要とするのが洩念とされてゐるが、南京攻略では直壊
取岡に参加した兵力は却つて守兵が大きい位で表を見
れば鼻軍の威カが如何に優れてゐるかを如音に物藷つ
てゐる。
畠紀二千五盲九十七年も慶史に多彩な頁を印して浄
に碁れんとしてゐる。甫京は格落しセが未だ事襲の捗
宋を骨ぐる射には達してゐない・迎春軋嵐も坑日の滑
滅と断ずるわけにはゆかない.息へば牟凌の月日は作
い∨ん●■′ヽ
戦上より見れば驚くべき迅速なる哉果であつたが、銃
を枕の罪督の弊菅は戟場弟士にとつては決して短きも
のではなかつただらう.皇軍鼻士を途つた家庭の人一
にとつては、その武蓬を所つた月日は決して短き日で
はなかつた管である.本年は内外共に輿隆日本にと♪
しホん
てはまことに多難なる試練であつたが、之は寧ろ光桑
ある飛躍的空菓先成への出頚と見るべきであらう。
長くも天皇睦下に於かせられては事襲蟄生する
ゃ、直ちに葉山より御遺睾遊ばされ日夜御精勘遊ばさ
れると洩れ承つてゐる.九月四日開院式の勅紆に
股ハ帝園臣艮力今日ノ時局岩鑑ミ忠誠公皇革シ和協
〉仏ヲニシ費ヰ以テ朗期ノ日的ヲ達成セムコトヲ掌

と仰せられたことは囲艮の臓裡に探く記し奉つてゐる
ことである。又陸潅軍出征の浄士忙は有難き勅語を賜
はり、首都南京略落をきこし召すや十二月十四日雨幕
傭長官殿下を召され有難き御官菓を賜はつた.叉
皇后陛下には眈に教女に亙つて槻帝義旺義眠を下脇
あらせられ、應召軍人濃族也に衆族扶助の長き息召か
ら御内帝金汝に御仁慈溢る1御歌を下賜遊ばされて
ゐ」る.
朝香官鳩彦王殿下、伏見官博義王段下、閑院官春仁
王敗下には竹の園生の尊き紳身を以て戦場に重畢底持
忙服せられてゐる.
昭和十二年を途らんとするに嘗り辞かに空哉牛裁と
温想して此等教重なる感激忙ひたつては誰か愈J大神

心に副ひ率る可く、我線の強化、銃後の耗曹に仝カと
山山′.8▲一、一l、い▲
轟し一糸軋れぎる靖論によつて枚本塞瀕的解決を期し
けんけん
新しき年を迎へて躇進日本の虜姿を顛現し東寧氷遽の
苧和に邁進を普はない者があらうか.

18

ニ甫末入城
●▲’▼ヽ・ん
得笠久しき甫京攻略憩に成つて、去る十七日堆洋放
大なる南京入城式が睦海婁軍部験に俵つて畢行され
た。此の日天泉晴朗、婁には−鮎の等もなく、恰も今日
の盛俄を鋭挿するかの如き海好の日本晴であつた。午
後一時過、中山門より入城の陸革部隊と相呼慮して、
長符川支那方面舷陳司令長官、大川円上梅海軍特別陸
一打くlT’
戦抹司令官、紀藤粛00戟族司令官は各モ幕僚を鴎へ
ほ小llん
て揃京の衣玄開抱江門より威風堂人入塊し、中山路に
■●ナリ
堵列する海軍部隊の閲兵を行ひ、式場たる団民政府に
向つたのであつた.此の時海革叔峯部‖匪も陸軍舵峯瀦
除と共に陸上部隊の入城と呼應して峯より網隊人城
し、南京上姦に於て昇批なる大分列式を行つたのであ
Lる●
牛後二時過、参列仝軍の囲歌「君ガ代」合唱裡に我
が大日牽沸は圃民政府正門上に高く掲鴇され、次いで
llはい
皇居造秤を行ひ、紘井軍司令曾の頚客で聖帝茶歳を三
唱、費忙産史的盛蝕耶を目出度経了したのである.
何虜谷川支淋方南艦隊司令長官は南京入城式と期し
て内外椚弘者河忙封し左の如き隼明と教衷した.
▲てl一ん
ふ女事襲ほ帝同の不沸大方針に拘らず麦郷側の鵜教により
逸に上海台商に擁大せり、爾来救開住かに首飴日にして今
日皇軍は安郷軍陰を蹄逐し、中葦図曹義肯京を占償せむ・
犀史的入城を確すに至りたるは固より軌掛酔の然らしむる
lと
−壬▼・手
研なろÅ何帝囲陸海軍賂兵が正義に基づく轟安府慈の念
に琴ろ随に海に粁た轟に終始〓耳蹴批二墟となりその作
l「▲
敬キ耳徹せしによる.その間耗多滞兵の職に姪れ木日の事
▲′た
ぴに禽へざるものに恩ひを及ぽす嘩、符として樽た感慨無
丑なるものあり。帝同ほ今日の戦瞼を以て浦足するものに
れ1・lん
非ず.時局の前途はなほ蓮速なり.帝囲軍人ほ東洋永逮の
・’−・lナ▲し
平和の馬研家の線意に鹿へ徹底的出師の目的義成に多九す
lヽ
ろの信念に撚えつゝあり.本事♯襲生似来帝閑は第三岡財
売の保時に封してほ多大の努カを沸ひ、概ねその日的を義
成しっゝありしに、最近に至り米軽、英艦等に封し一帝も不
▲_■’lしん
奉なる寄件の生奄せるを黄心竣墟とす.余は木事件に封
し械心由らなし碍る最事を轟しっ⊥あり.
三支郵軍の情流
▲▼
支邪軍は南京格落後も飽く造長期銃戦を薮抒し我軍
の峯典に備へて新に某地に地下大飛行場を尭成するの
外、軍の改縞を行ひ叉は坊チ江九江附紀と大人的に封
額する等萬埼の準備を轟へてゐると倖へられるが、−

19

部零閥の甥牡となり亡堵の惨状に直面せる支邪艮衆こ
モ粥に同梢に俵するものがある。
小んミ・う
何礁刀米電に依ると、蒋介石は十六8キ後南員大本
脅より触…磁を以て仝閲に向け左の如き租電を敬したと
の黎である。
現砧の紙況が如何に彗化†るとも我々は降伏してはならな
い。我々は何虚までも竜しなければならない.この際敵
に畔服することは閥家の破滅を紹くこと必然であろ.同触
鮒項墳は如何なる碑仰をなナとも我々は全力を車す可き
で、轍々しく炎常してはならぬ.又我々は他囲に依掬すろ
け▲むギ
考へを抱いてはならぬ。余は如上の方針ん品叩く迄竪持する
帝を眈に閉民に脊つてゐろのである●
四脊鹿の情静
帝島方南は邦人引塊後比校的や穏に経過し、真郵側
に委詑した邦人の財産と碓筏も安仝忙維持されて虐つ
たのであるが、十二月十九H上弥方面に達した情報に
依れば、十八8夜形勢は褒如意化し、支郷軍は同地の
ほうじ・}汀う‘さくわいじん
▲邦人紡敏エ場に放火し之を衣駐に一辟せしめると共に、
、い!
同夜釆鞄口は閉錦され市内には戎厳令が布かれた。・伺
廿一日青島教外囲新隈電報は左の如く報じて居る。
エrl亨
守息の各埠項は粂部封錮され、僅かに英開の汽糖が一隻だ
け毎白寄池してゐるに過ぎず、脊島市民の章灘は廿日も挽
血机され、我千の澱灘者は家材と共に血研々息へ地へ向け寒灘を
開始してゐる.之が馬徒来筑十萬を簿つた人口は今や六萬
’●くだつ
位に減少してゐる。十九日夜は8木人商店の椋奪が相菖
行はれた.市常局ほ治安樵持に全カを轟してゐろが替察陵
し′1わん
の箆ほ相山嘗弛庖してゐる。