第四九号(昭一二・九・二二)
 戦局頓に進む          陸軍省新聞班
 勇戦堅塁を抜く         海軍省海軍軍事普及部
 毒瓦斯の防ぎかた         陸軍省新聞班
 長江を遡る−漢ロまで      外務省情報部
 国民精神総動員大演説会に於ける近衛内閣総理大臣演説
 最近公布の法令         内閣官房総務課

毒瓦斯の防ぎかた           陸軍省新聞班

一   はしがき

 「空軍なくして戦争なし」「防空なくして国防なし」とは今次の事変に於て愈々深く我等の心を衝く言
葉となつた。現代に於ける進歩せる飛行機は何時我等の頭上に飛来して爆弾、焼夷弾、或は瓦斯弾を
投下し、又は毒液を雨の如く雨下するかも知れぬ。
 固より之に対しては軍民一致して適切なる防空の手段を講ずるであらうが、各家庭に於ても空
襲を受けた場合之に応ずるだけの用意と覚悟とがなければならぬ。兄は戦場に、弟は工場に、父
は防護団の一員として外に活動する一般家庭の人達のため、主として瓦斯防護対する心得を述べ
よう。

二  空襲に用ひられる瓦斯

 空襲に用ひられる主なる瓦斯は左の通りである。

一 窒息瓦斯

 気体で之を吸ふと呼吸器特に肺を侵し、致死的の障害を与へる。爆弾の中に入れて投下される場
合が多い。例へば「ホスゲン」の如きで之に侵されるとニ、三時間後に症状を発する。

二 糜爛瓦斯

 丁度油の様な液体で、長く残つて居て效力を持続するので持久瓦斯ともいふ。
此の液が著物や皮膚に附くと火傷の様な傷害を起す。尚此の液体の発散する蒸気(気体)を長く呼吸
すれば呼吸器を侵し、目に触れると強い結膜炎となり失明することがある。爆弾に入れて投下し或は
飛行機から雨下して用ひる。例へば「イペリット」「ルイサイト」の如きで、数時間後に傷害を発する。

三 其の他の瓦斯

 煙状となつて眼を刺戟する催涙瓦斯、「くしゃみ」の出る瓦斯、中毒を起す瓦斯等がある。これ等
の瓦斯は空襲には使用せられることが比較的少い。
 以上主なる瓦斯の性質に就て述べたが、瓦斯は防護のやり方が良ければ殆ど傷害を免れることが出来
るもので、敢て恐れるに足らない。然し予期しない場所まで流れ、或は意外に長く残つて居ることが
ある故に油断してはならぬ。又糜爛瓦斯は飲料水等を汚毒することがあるから注意せねばならぬ。
 要するに都市に対する瓦斯空襲は、市民を殺傷するよりも精神的脅成を与へる效果が寧ろ大である。
従つて瓦斯に対する正しい防護施設、規律ある統制訓練が大切であつて、徒に狼狽して混乱に陥つて
はならぬ。

三  個人の防護

一  窒息瓦斯に対しては防毒面があれば完全に防護が出来る。糜爛瓦斯に対しても眼及呼吸器を保護
  することが出来るが、液が皮膚や著物等に滲
  み込むのを防ぐためにはゴム手袋や、ゴム靴
  (高下駄)などが必要である。
    防毒面は信頼の出来る效力確実なものを使
  はねばならぬ。信頼なき防毒面は却つて害を
  なすことがあるから権威ある機関の検査済の
  ものを選ぶがよい。

二  装面(面を被ること)は確実で迅速でなけれ
  ばならぬ。故に予めよく防護団員等に就て之
  が著け方を習つて置くことが必要である。装
  面のとき呼吸を止めること、面が確に顔に密
  著して居るかを点検することは大切なことである。

三  瓦斯は臭気微弱だからとて装面を怠つてはならぬ、又仮令(たとへ)瓦斯を吸うたからとて、或は如何に苦
  痛を感じても面を取つてはならぬ。此の際面を取ると更に甚だしく傷害を受けることになるから十
  分注意せねばならぬ。

四  防毒面を持たないか若は持って居ても破損し真の用をなさないときは、湿した
  手拭(重曹液又はウロトロビン液に湿したるものなれば一層可なり)等を以て鼻及口を覆ひ、水中眼鏡を使用し、
  鼻にて徐(しづ)かに呼吸を行ひながら早く風上、避難所等に避難するがよい。

五  瓦斯は色と嗅(にほひ)で知るが、防毒面を装した場合其の有無を知るには食指を覆面の縁と頬との間に挿
  し込み、口を閉ぢ空気を浅く吸うて臭を検し、食指を覆面より脱し空気を吐き出すのである。

六  糜爛瓦斯は其の傷害症状はすぐ現れないため知らず知らずの間に危害を蒙り易い。故に之を知つ
  たならば速に装面し、其の瓦斯の附いたものは已むを得ない場合はゴム手袋で取扱ふがよい。ゴム
  でも時間が経てば瓦斯はだんだん滲み込むものであるから時々晒粉等で消毒するを要する。高下駄
  は汚毒地を歩くのに便である。然し通つた後はすぐ晒紛で消毒せねばならぬ。

七  皮膚に糜爛瓦斯液の附着した場合には先づ其の部分を綿布、ガーゼ、吸取紙等で軽く押へ液を吸
  ひ取り除き去る。此の際不用意に拭ふときは却て液の附いたところを拡げるから注意を要する。次
  いで除毒粉(過マンガン酸カリ)、石油等を以て繰り返し繰り返し拭つた後、石鹸液や温(ぬる)ま湯を以て洗
  ふのである。
   又晒粉を水にて泥状にしたものを厚く塗り、数分間其の儘にして後温ま湯又は水を以て洗ふこと
  もある。粉状の晒粉を直接使用すれば液と接触して高熱を発し、火傷することがあるから注意せね
  ばならぬ。
   被服に糜爛瓦斯が附き、又附いた疑ある場合には直ちに著換へるか或は其の部分を切り取らねば
  ならぬ。
   晒粉は被服を損傷するけれども火急の場合の消毒のためには致し方ない。眼に傷害を被った場合
  には水、食塩水、二%の重曹水等を以て繰りかへし洗ひ、毒物を除いた後アルカリ性軟膏等を以
  て治療するのが宜しい。瓦斯雨下を受けたなら直ちに屋下に入るか、或はマント、傘、防水布等の
  如き物を以て汚毒を避けた後其の物を棄て、速に汚毒地域を脱れ出で前の要領で直ちに身体の除
  毒、被服の消毒を行はねばならぬ。

四  家庭の防護

一  家庭に於ては多くの場合主人などは不在勝であるから、主婦が確(しつか)りして家族のものを纏めて騒が
  ず、恐れず、慌てず火の元にも気をつけ立派に家庭を守らなければならぬ。又空襲は真夜中に行は
  れることが多いから空襲警報を聞き落さぬ様に注意せねばならぬ。

二  家庭の中には防毒室を準備することが必要である。又防毒蚊帳でも之に代用することが出来る。
  防毒室とは其の家族を集め防護するため密閉した部屋を謂ひ、防毒蚊帳とは同様の目的を以て作つ
  た特別の蚊帳である。
    尚各家庭には少くも一箇の市民用防毒面を備付けて、縦(たと)ひ瓦斯の来襲を受けても装面者が外に出
  て内外の連絡や火災、盗難の防止等に努めねばならぬ。

三  防毒面や防毒蚊帳の大さは之に其の家族全員が避難
  出来て尚多少の余裕のある位がよい。普通一人一畳の
  割合でニ、三時間は身体に影響することがない。

四  防毒室の位置は家屋の構造其の他を考慮して避難す
  るに便で、防毒設備の容易な所で、出来るならば爆弾
  の破片などに対しても安全な一室を選定するがよい。
   此の際出来れば連続した二室を一室は前室とし、瓦
  斯の進入を先づ此の室で制限し、奥の一室に避難する
  様にするが一番よい。
   防毒蚊帳を吊るべき部屋も之と同じ要領を選ぶがよ
  い。

五  防毒室の設備として第一の要件は気密(密閉のこと)である。故に出入のための扉、襖又は障子
  のみを残し、他は紙等以て十分目張りをせねばならぬ。此の際壁と柱との間、閾の下、天井の
  隙間等にも注意する必要がある。
   以上の設備を終つたら青松葉等を燻らせて気密
  の程度を点検して見るがよい。

六  防毒室には室外の状況を見得る如く硝子窓等を
  附けて避難者の不安を減ずる如く設備した方がよ
  い。防毒蚊帳にも之に準じて透明なるセルロイド
  板等で側面に窓を設けた方がよい。

七  室の入口は最小限度の大さとし、出入の際瓦斯の
  這入るのを防ぎ、一旦閉ぢたら完全に気密が保持さ
  れることが大切である。之がため幕布(ゴム布、其の
  他防水布等)を垂れ二枚重ねにすればよく、尚一米
  以上を雑しニ、三箇所に設けられゝば更によろしい。

八  防毒蚊帳は麻絲等を心として之にゴム引布、防
  水紙、障子紙等を蚊帳状に張り合して作るのであ
  る。之を吊つたときは書籍、座蒲団等適宜の物料
  を以て其の下部を押へ隙間を生ぜしめぬ様気を付
  けねばならぬ。

九  警戒警報が発せられたなら速に防護の準備をな
  し、防毒室は入口を除き全部密閉し、防毒面、消毒
  材料を整へる等常に警報及外の様子に注意する。

一〇 空襲警報が発せられたら全員一室に集まり、時
  時家の周囲を巡視し、雨戸及各室の襖、障子を閉ぢ、
  消毒室に入る準備をする。
    夜間は居室及防毒室の外全部消灯する。

一一 瓦斯警報があつたら仮令防毒室或は防毒蚊帳が
   あつても、成るべく雨戸障子、襖等を閉め、防毒室に
   入り、入口を密閉する。一人は防毒面を装し、防毒
   室の外に在つて外と連絡し、火災盗難の予防、瓦斯
   の有無を検すること等に任ずる。

一二 糜爛瓦斯の消毒法は個人の防護でも述べた如く
   汚毒されたものは必ずゴム手袋等で取扱ひ、時々
   ゴム袋は晒粉で消毒することが必要であるが、消
   毒法は防護団員の指導を受けるのが最も安全である。
    汚毒された水は必ずしも色と臭気のみで見わけることが出来ないから、瓦斯が入つたらしい水は
   飲料水として使用しない方が宜しい。

糜爛瓦斯で汚れた物の消毒法
種   類 方             法
拭い取る法 金物や塗料を施した所は数十回綿布等で拭へば概(おほむ)ねよい。
日光に乾す法 家庭では簡便な消毒法で、冬季約五日間、初春、晩秋は約三昼夜、夏期は約八時間でよろしい。
熱を加へる方 焚火、炭火等は簡単に行ひ得る加熱法であるが、皮類などは熱が高過ぎると変質するから注意を要する。
煮る法 簡単なる方法にして消毒所要時間は約十五分を要する。
石油などでとる法 金物に対してはよいが錆の原因となるから消毒後石油で完全に除かねばならぬ。
晒粉に依る法 金物に対しては錆を出し、皮革類に対しては其の質を著しく悪くし且つ褪色せしむるからなるべく実施しないがよい。而し金物は晒粉使用後充分拭ひ錆を防がねばならぬ。被服類に対しては粉状の晒粉を使用するより濃厚なる乳剤として使用する方がよい。此の際之に浸す時間は概ね三十分として消毒後充分水洗を行はねばならぬ。
備考 汚毒部が小なるときは其の部分を剪り取るがよい。


五  外出先の防護

一 外出先で瓦斯に遭遇した場合は慌てゝはならぬ。面を持つて居つたならば確実に被り、く持ち合ぜ
  がなかりたならば個人の防護に迎べた成に手拭等を鼻、口に当て、附近防護団員の指図を受けて避
  難するがよい。
   避難所は道路に沿ひ要所々々に設けられるものである。
   瓦斯は風下に流れるから風向に注意して避難せよ、老人や女子供はよくいたはつてやらなければ
  ならぬ。

二 空襲を受けたとき所用のため外出するのは成るべく避けるがよいが、已むを得ない場合は防毒面
  を携行することを忘れてはならぬ。尚其の外に晒粉包やゴム手袋、ゴム靴、油紙の様な覆になる
  やうなものを持参せば一層安全である。

三 糜爛瓦斯で汚れた所は防護団員に依り立札や縄なとで標示されるから、其処へは這入つてはなら
  ぬ。仮令未だなくとも異様な臭のする液が地面に撒かれてあつたら避けて通ることが必要で、下駄
  やゴム靴で通つてもすぐ通過後晒粉で消毒することが大切である。晒粉がないときは土や砂に十分
  擦り取るのも十分ではないが効き目がある。

四 瓦斯雨下の場合は屋根下に逃れよ。建物などの風下に避けると比較的安全であるが、風下の方か
  
ら巻き上げて毒を被ることがあるから油断してはならぬ。

五 瓦斯に中毒したと思ふ者は激動を避け速に救護班等の手当を受けよ。

六 瓦斯患者の救急

 瓦斯患者に対する救急処置は迅速でなく
てはならぬ。之がため早く毒を除き治療を
することが大切であり、速に救護班や医師
に連絡し指図を受けるがよい。左に指図を
受ける迄の心得を述べる。

一  瓦斯患者は先づ之を新鮮な空気の所
  に救ひ出して速に身体の毒を除き、出
  来得れば著物を著換へ、著物や携帯品
  等には標しをうけて之を他の安全な場
  合に集め、出来るなら直ちに消毒する
  が良い。
   此の際患者の面をとることは身体の除毒後に行ふがよい。

二  瓦斯患者を救ふ者は必ず防毒のため。装面をし、ゴム手袋やゴム靴其の他必要ならゴム服等を
  著ねば危険である。

三  瓦斯患者特に窒息瓦斯に中毒した者は成るべく安静を保たしめ、其の救出に方(あた)りては一見軽症
  者と雖も歩くのを禁じ、担架等を以て運び出し、速に救護班の処置を仰ぐべきである。

四  瓦斯患者は多くは体温下り、重症者になると人事不省となるから安静にすると同時に保温に注
  意し、毛布、湯タンポ等で直接保温に努むる外室内の温度及換気に注意せねばならぬ。

五  糜爛瓦斯に対しては個人の防護で述べたことを注意すれば宜しい。

七  むすび

 之を要するに瓦斯は防護の出来るものである。夫れ自身は恐るべき力を持つて居るのであるが、之
に対する準備を整へ置き、慌てず、確実に以上述べたことを能く守り、防護を実施すれば敢て恐れる
には足らない。
 「備あれば憂なし」各家庭では平素から以上の様な瓦斯防護に対する認識を深くし、其の防護材料設備
を準備し、又訓練を十分にして、一旦敵機の空襲を受けた場合一糸乱れず防護の效果を発揮して、
銃後の護りを固むることが肝要である。