第四三号(昭一二・八・一一)
 事変第二特集号
 平津地方の掃蕩          陸軍省新聞班
 事変と帝国海軍          海軍省海軍軍事普及部
 在支邦人の保護          外務省情報部
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 国家総動員の構へ         資 源 局
 暴利取締令の改正         商 工 省

平津地方の掃蕩          陸軍省新聞班

一 北平方面の戦闘

 軍は二十八日から、北平周辺の第二十九軍に対し、膺懲戦を開始した。
 先づ北平地方に於ける状況から述べよう。
 萱島部隊は東方から、川岸部隊は南方から、河辺部隊は西方から、南苑の第三十八師に対し攻撃を開始した。我が飛行機は払暁時の猛烈なる大雷雨を冒して出動、午前六時二十分頃南苑を爆撃し、爾後地上部隊の戦闘に協力した。日本軍恐るゝに足らずと平素豪語をしてゐた支那軍も、空中及び地上よりする皇軍の猛撃に敵すべくもなく午前八時三十分頃には早くも北方に退却を開始した。
 河辺部隊は一部を以て南苑の敵を攻撃せしめ、主力は馬村附近に突進して午前十一時南苑東北方地区に進出した萱島部隊と相俟つて、敵の退路を遮断し、南苑に在つた歩兵約四大隊と特科部隊に殲滅的打撃を与へ、第百三十二師長張登禹も戦死するに至り、北平方向に脱出し得た支那兵は纔かに百数十名に過ぎなかつた。川岸部隊は南苑の支那兵を掃蕩し、午後三時完全に之を占拠した。
 豊台を守備すべき任務を以て残置せられた部隊中の騎兵隊は其の警戒部隊として百五里店附近に在つたところ、午後一時蘆溝橋及八宝山方面から優勢なる敵の包囲攻撃を受け苦戦したが、二十八日夕北平南方地区より反転した河辺部隊が到着して此の敵を攻撃し、二十九日午後六時過遂に事変の発生地として、吾人の忘るゝ能はざる蘆溝橋(苑平城)を完全に占拠した。
 同二十八日北平地方に於ては酒井部隊、鈴木部隊は竝列して北平西北地区に向ひ攻撃を開始した。即ち酒井部隊は早くも午前十時三十分沙河鎮の支那軍を撃退し、此の頃我が飛行隊が盛んに爆撃を加へてゐた西苑に向ひ前進した。
 鈴木兵団は午前十一時より一部を以て北苑に対して警戒監視せしめ、主力を以て清河鎭を攻撃し、午後三時頃之を撃破して前進、二十八日夕には円明園(万寿山東側)及西苑の支那軍に対し攻撃を準備した。
 酒井部隊は午後三時頃西苑西方約二里、山地北端の突角附近に達し、西苑方向を偵察してゐたが、鈴木部隊の到著に伴ひ道路の不良に悩まされつゝも二十八日には万寿山西方地区に達し、二十九日午前七時頃主力を以て宝中寺山(西苑西北方約一里)を、一部を以て臥虎山を占拠し、午後所在の敵を撃破して南進、午後四時頃主力を以て黄村(北平西方十四粁)附近に、一部を以て衙門口に進出、鈴木部隊は西苑の支那軍を撃破して午後五時頃八宝山付近北平西側地区に達した。
 翌三十日午後三時頃に至るや、河辺部隊は長辛店及其の西方高地を占拠したが、長辛店前面の敵は遠く南方に退却し、良郷以北には敵を見ざるに至つた。
 又八月一日鈴木部隊は北苑を占領してゐた独立第三十九旅の約三千名の支那兵の武装を解除した。
 北平城内に於ては二十七日午後迄に在留邦人は北平交民巷の公使館区域内に収容せられた。爾後数中隊の支那兵により同区域は全く包囲せられ有線電話は不通となり、外部との交通連絡は全く遮断せられた。
 二十八日夜半に至り宋哲元は後事を張自忠に託し秦徳純、馮治安、陳継淹等を帯同保定に遁走し、場内の第三十七師も亦払暁前城内を脱出、長辛店方向に退却した。
 北平城内にあつた第百三十二師の二箇団は八月二日西直門から城内に撤退し、城内の治安は公安局員約一万二千名で維持せられてゐる。
 
二 天津及塘沽方面の戦闘

 天津附近は二十八日迄は何等不穏の状勢を認めなかつたが、南方にあつた第三十八師の部隊は逐次天津附近に集結し、市内の各要点を占領しつゝあつたが、更に夕刻に至り支那兵の一部が我を夜襲するやの情報もあつたので、厳重警戒中幹家墅(天津西部)駐屯の第三十八師第二百二十八団長の指揮する第二百二十八団及独立第二十六旅第六百七十八団の部隊竝に保安隊の有力なる一部は、二十九日午前一時頃から海光寺兵営、飛行場、大倉農場、停車場、鐘紡工場、糧秣集積所等を襲撃して来た。
 海光寺兵営南方地区、鐘紡工場、糧秣集積所に於ては払暁迄に支那軍を撃退することが出来た。
 飛行場には午前三時より約三、四百の支那兵が夜襲して来たが、我が守備隊の応戦と飛行隊の爆撃に依り、多大の損害を与へて撃退した。唯天津東站停車場は寡兵を以て優勢なる敵歩砲兵の攻撃を受け激戦を交へつゝ三十日に至つた。
 我軍は天津市内に於ては、北平に対せると同様、市民及在留外人に対し戦禍を及ぼすことを極力避けんが為、武力行使をなさない方針であつたが、右の如く支那側が二十八日夜半から市内各所に於て日本軍及我が居留地を攻撃したので軍は自衛上之に応戦せざるを得ず、又天津市内の治安を維持し、居留民を保護する為市内に於ける支那軍の主要占拠地点を爆撃するの已むなき至つたが、此の爆撃は支那軍を震駭せしめ、地上部隊の砲撃と相俟つて、廿九日昼間は支那兵をして積極的行動に出づるを得ざらしめた。
 夜に入り東站停車場に於て二回、海光寺兵営方面に於て数回の夜襲を受けたが、我が勇敢なる将兵は奮戦以て之を撃退した。
 三十日朝来市内は漸次静穏に帰し、切迫してゐた東站停車場の状況も緩和せられ、午後には同地附近の支那兵は撤退を開始した。爾後天津部隊は支那街の掃蕩を実施し、我が飛行隊も引続き支那軍の巣窟たる諸建築物を爆撃したので、支那軍は逐次天津南方へ撤退を開始し、馬廠方面に集結中の様である。天津市内の掃蕩は三十一日殆ど終了した。
 陸軍運輸部塘沽出張所の舟艇二隻は二十八日午後惨事頃大沽附近を航行中、突如該地の支那軍から約四十発の迫撃砲射撃を受け、更に翌二十九日朝塘沽守備隊は大沽方面から支那側の射撃を受けたので、海軍と共に応戦、三十日大沽の支那軍を攻撃し、午後一時三十分同地を占拠した。又午前九時頃溝淵部隊長以下若干名は舟艇に乗じ支那砲艦一隻を鹵獲した。

三 通州反乱事件

 冀東防共自治政府の所在地である通州の治安維持に任じてゐた保安隊中、政府長官殷汝耕の直接部下で彼の最も信頼してゐた教導総隊第二区隊が、第二十九軍の煽動に乗ぜられ支那軍戦勝のデマを盲信し、同総隊の残余及第一第二総隊を誘引し、第二十九軍の敗残兵と共に約三千の兵力を以て二十九日早暁から突然兵変を起した。
 我が通州守備隊は午前三時過ぎ、少くも二千名の保安隊の襲撃を受けたので、各兵舎及倉庫を頑強に守備し、或は一部の出撃を行ひ、四周より営庭に侵入した支那兵を撃退した。
 午前十時頃支那兵は兵営周囲の土堤により砲兵迫撃砲等を増加して其の射撃は愈々熾烈を加へ、我が死傷者続出し、我が有線電信は勿論、兵舎の一部は破壊せられ、無線電信も亦故障を生じ、外部との連絡は全く絶たれるに至つた。
 併し乍ら我が部隊は之に屈することなく、志気愈々旺盛、傭人に至る迄銃をとつて応戦し、寡兵能く之を拒止するを得たのである。
 正午稍々過構内に集積してあつたガソリンに敵の迫撃砲弾命中して火を発し、又第一線に送るべき銃砲弾を積載した自動車にも敵砲弾命中した為、自動車十七両全部焼失して銃砲弾の自爆は約三時間にも亙つたが、之は敵に多大の恐怖を与へた様で、加ふるに午後三時頃我が飛行機の爆撃により反乱軍の攻撃は一時鈍るに至つたが、夜に入つても反乱軍は依然周囲の土堤に拠つて射撃を継続し我が守備隊は之に応戦しつゝ夜を徹した。
 軍司令部に於ては、通州守備隊が冀東保安隊の襲撃を受け苦戦に陥つて居るとの報告を受けたので、直ちに飛行機を以て偵察及爆撃を実施せしむると共に、萱島部隊主力をして増援せしむる如く処置した。
 三十日午前二時三十分頃萱島部隊増援の報は守備隊に伝へられ、士気頓に挙がり、加ふるに午前十一時頃我が飛行隊は再び通州の周囲に対して爆撃を行つたので、兵営四周の敵は逐次退却を始め通州北方地区に集結した。萱島部隊は急行して午後四時二十分通州到著、直ちに市内の掃蕩を行ひ各城門を占領し、爾後該地の治安の恢復維持に任じた。
 一方特務機関は二十九日午前三時頃敵の襲撃を受けたので、細木機関長は叛乱保安隊を鎮撫しようとして冀東政府に赴く途中、政庁前に於て悲壮な戦死を遂げ、特務機関員一同は甲斐少佐の指揮の下に防戦に努めたが、衆寡敵せず其の大部は壮烈な戦死を遂ぐるに至つた。
 我が守備隊の戦死十八名、負傷十九名、特務機関員細木中佐以下戦死九名である。
 通州の居留民は平時内地人約百十名、朝鮮人約百八十名であつて、本事件勃発時は約三百八十名に増加し、市内各所に散在してゐたが、何等不穏の徴候がなかつたので各々自宅にあつた為、叛乱兵の恣(ほしひまゝ)に襲撃する所となつたのは誠に遺憾至極である。
 暴戻なる支那兵は非戦闘員たる我が居留民に対し言語に絶する暴虐を敢てし、其の大部分を城門外に拉致(らつち)して惨殺した。其の残忍なる行為は誠に耳目を掩はしむるものがあり、神人共に恕(ゆる)さざる所である。守備隊に収容せられた居留民の数は八月二日迄に内地人男四十名、女二十名、小児十一名、計七十一名を算し、朝鮮人は男十四名、女二十一名、小児十八名、計五十三名で、収容した屍体数は約百五十名に達し、尚目下鋭意捜索中であり、死者は恐らく百八十名を突破すべく、一部は拉致せられてゐる模様である。
 奈良部隊は三十日午前十時四十分北平西方地区に於て、逃走中の冀東保安隊約三百名を撃破した。敵の遺棄屍体百五十、小銃九十、軽機関銃十一等を鹵獲した。八月二日午前十時頃我が飛行機は燕郊鎮(通州東方約八粁)に集結した叛乱保安隊竝二十九軍敗残兵約二百を爆撃した。

四 彼我の損害

 七月七日から八月三日正午までに於ける我軍の死傷は次の如くである。

区  別

  将  校

 準仕官以下

      計

   戦 死

二四

三四〇

三六四

   戦 傷

五九

八一〇

八六九

     計

八三

一一五〇

一二三三

 之を見るも我軍が如何に勇絶果敢に戦闘したかゞ判る。
 次に本戦闘に於ける支那の損害は詳(つまびらか)でないが、軍司令部よりの報告によれば次の如くであり、尚未調査のものが沢山ある見込である。

屍体発見数

南苑、行宮附近

二五〇〇

(三八師一三二師)

北平西方地区

 一五〇

(冀東保安隊)

武装解除数

北苑

三二〇〇

(独立三九旅)

北平西方地区

四〇〇〇

(一三二師)

通州

一〇〇〇

(保安隊)

捕虜数

南苑、行宮附近

 一〇〇

(三八師、一三二師)

鹵獲兵器数

山砲四門  野砲四門  銃迫撃砲三門  軽迫撃砲八門  機関銃(チエツコ式)二百数十  小銃四、五千  拳銃百数十  青龍刀千五百

五 支那中央部の動向及中央軍の移動

 蒋介石は廿九日夜南京に於て新聞記者に対し「平津地方に於ける第廿九軍の潰滅は予の責任なり。情勢悪化と共に中央軍を北上せしめしも宋が停止を求めし為日本軍に対し組織ある抵抗を不能ならしめたり。日本政府は川越大使に交渉の為南京急行を命ぜるが如きも、十九日予が発表せる最低限度の四ヶ条の要求を承認せざる限り断じて交渉に応ぜず。今や事態は全国的となり国民は挙国一致民族闘争に邁進すべき」旨の声明を発表した。
 中央軍は依然平津津浦両線に依り北上しつゝあり、更に第八十四師は平綏線に依り張家口から南口方向に輸送中であるが、八月三日午前下花園、岔道城、楡林堡、新保安等諸所に於て我が飛行隊は其の軍用列車を襲撃し多大の損害を与へた。
 之を要するに我軍は七月二十八日以来三日間に於て、第二十九軍の大部を殲滅し平津地方の大体の掃蕩を終了した。