第一九号(昭一二・二・二四)
 再開後の議会に於ける税法実の概要 大蔵省主税局
 思想戦より観たる防共              陸軍省新聞班
 シベリアに於ける鉄道建設の躍進    外務省情報部
 停会明議会に於ける国務大臣の演説
  林内閣総理大臣演説
  林外務大臣演説
  結城大蔵大臣演説

 

  思想戦より観たる防共
                      陸軍省新聞班
  一  今日の国防

 現代の戦争は、其の幅に於ても、其の長さに於ても、将又戦争其のものゝ形に於ても、到底過去の戦争とは比較し得ない規模と複雑性とを有することゝなつた、従つて平時に於ける外交戦、思想戦、或は経済戦は戦争の準備とも見られ、又は戦争の継続も考へられ、否文化的の戦争其のものとも言へるのである。且又之等の要素が従来の意味に於ける戦争に於ても重要なる地位を占むるに至つたのは当然である。現代に於ける戦争指導に於ては、戦争目的達成の為外交、思想、経済等各方面の戦力を綜合発揮して、敵国の物質的精神的の戦力を破砕すべく最大の努力をしなければならぬ。故に今日の国防の意義は頗る広範囲であつて、武力国防の外思想国防、経済国防等の必要を生ずるに至つた。従つて国防は現に軍人、軍隊のみの管掌するものでなく、全国民民挙つて之に従事しなければならないものである。
 武力なき侵略乃至は文化的戦争手段たる思想戦は、人の目に映じない所で、而も間断なく継続せらるゝのであつて、誠に厄介且恐るべき戦法と謂ふべく、戦争指導上極めて重大なる価値を有するもの
であり、各国は既に過去に於て体験済みのことである。即ち世界大戦に於て独国は謀略により先づ露国を潰乱せしむると共に仏国軍隊を危地に陥らしめたが、独国自身も亦思想的に崩壊するに至つたことは後述の通りである。

  二  世界大戦間一九一七年に於ける仏国軍隊の危機

 一九一五年九月瑞西チムメルワルドに於て、独、白、其の他中立国の社会主義者が会合し平和主義の決議をした。当時仏国に於ては国民精神堅実であつて単に二、三の極左分子が之に参加したのみで議会に大きな勢力を有つてゐた社会党は之に参加するを拒否した。然るに一九一八年未頃に至るも戦争は継続し、其の終局の見透しがつかず、国民は一般に戦争に倦怠を覚え且は又戦況は一として自国に有利なるもの無きを知るに及んで、革命思想は漸次国内に蔓延するに至り、国内名士の中に於てすら間諜或は反祖国運動者と目せらるゝものを生ずるに至つた。例へばマルビー内相の如きは開戦以来内相として留任して居つたが、一九一七年に及んで左傾主義者を援け、或は左傾新聞に奨励金を交付し、或は国内に於て反戦主義の宣伝を許す等黙過し難きものあり、一九一七年五月十五日、左翼分子は六月を期しストックホルムに第二インターナショナル会議を開催するの決議をなすや仏国社会党は党議として之に参加するの決議をなすに至り、本問題を廻つて之が許可の意向を有する政府と絶対反対を唱へた軍部との間に軋轢を生ずるに至つた。幸にフォッシュ元帥の強硬なる態度により参加するに至らずして喰ひ止めたのであるが、抑々本会議たるや其の討議題目は「非併合、、非賠償主義を以て人民自ら本戦争を終末せん」と云ふに在つて、独国政治家は之等左翼分子を利用して聯合国の結束を破らんとし之に援助を与へて居つたのである。
 仏軍は茲に開戦以来最も重大なる精神的危機の洗礼を受けねばならぬ状態に陥つた。由水仏国兵は其の愛国心の強烈な点に於て特色あるに拘らず前述の如き国内外の左翼分子の暗躍により漸次平和、自由、革命等の思想が第一線将兵の間に蔓延し此の年四月の大攻勢が統帥部の失策により無用の損害を受け、何等成果の見るべきもの無きを宣伝せらるゝや其の愛国心は逆に反抗心となり、上官を誹謗し之が免職を要求するに至つた。当時ニヴェル将軍は左の如き報告を陸軍大臣に出して居る、「軍隊に対する平和主義の宣伝は益々熾烈となるの状あり…、之等の宣伝冊子は主として自由主義団体、…無政府主義団体より出でたるものなり、…之等の書類は戦闘員の攻撃精神を傷け、彼等を麻痺せしめ彼等の勇気を沮喪せしむ」
 一方内地工場より最近戦線に増加せられた兵卒は国内赤化分子の影響により第一線に於て友輩を扇動するものあり、為に四月末より上官の命に従はざるもの、戦線に赴くを拒むもの等続出し、先づ仏国戦場に在りし将兵二旅団が自国革命の余波を受けて団体的に反抗したのを皮切りに此の傾向は最も敏速なる速度を以て伝染病の如く蔓延し到る処の歩兵聯隊に反乱の勃発を見、全軍歩兵聯隊中約三分の二は多少とも動揺を見るに至り、陸相パンルヴェrをして「ソアッソンとパリの間に信頼するに足る
軍隊は僅かに二箇師団に過ぎす」と嘆ぜしむるに至つた。此の仏軍の危機は幸にして独軍統帥部が此の乗ずべき好機の発見が遅かつた為事無きを得、又名将ペタンの人格手腕により崩壊の一歩前に於て辛うじて阻止するを得た。
 ペタンは此の難局に処し積極的に自ら戦線を巡視して精神教育を行ひ、率先躬行将兵一体の実を挙げると共に一方政府に要求して国内主義者団体に対し大弾圧を加へ、克く温情と厳格とを併用して仏国兵の愛国心を鼓舞し累卵の危きを救つたのである。
 若し独軍統帥部にして慧眼克く此の危機を捉へて居つたならば、或は又仏国にしてペタンの如き人物を有しなかつたならば、恐らく一九一八年独軍軍隊の崩壊以前に於て仏軍の崩壊を見たであらうし、世界歴史は形を変じて吾人の眼前に展開せられたであらう。

   三 独国軍隊の精神的崩壊

 指導者により指導せらるゝ独逸民族が強固なる団結を維持することは其の国民性の特徴であつて大戦間克く之を維持して偉大なる力を発揮したけれとも成功の一歩前に於て精神的破産者となり、幾多の軍事的成功に次ぐに未曾有の敗北を以てしたことは実に獅子身中に深く喰ひ入つた赤化分子のバチルスの仕業であつた。
 独国に於ては開戦当時に於て既に存在して居つた社会民主党万国派(独立社会党)は開戦当初に於て戦争に反対を唱へたけれとも、当時勢力は極めて微々たるものであつて問題とするに足らなかつた。社会党の多数派は開戦当初兎に角戦争に賛成はしたけれども強き自信の下に一瀉千里仏国を席捲せんとしつゝあつた独軍の作戦計画の遂行に蹉跌を来たすや漸く其の主張を変じ、一九一五年頃より所謂妥協平和を唱導し始めた。一九一七年以来瑞西を中心として各国社会主義の活動が活発となるや独逸政治家は之を利用して聯合国の結束を破らんとし、之に授助を与へレーニンの如きも独逸政府の護送により露国に帰還したものである。何んぞ知らん、結果は却て自国の民心を乱して飼犬に手を噛まるゝに至らんとは。
 一九一八年の前半は戦場に於ける赫々たる戦捷により国民一般は聊かの動揺をも見ぜず、極左党独り政府に反対を唱へ、一月伯林に労働罷業を企てたけれども、社会党迄も之を否認し、直ちに兵力を以て鎮圧せられた程であつた。併し此の順風に帆を上げた勢であつた情勢も此の年六月の第四次攻勢の結果が予期に反するに及んで鳴りをひそめて居つた赤化分子の活動開始となり、今迄戦勝に陶酔してゐた独国国民の統一も忽ちにして破綻を来たし、八月却て仏軍の攻勢を受くるに及んで其の破綻は落胆恐慌となり、趨く処極端より極端となり底止する所を知らぬ状態に立ち至つた、即ち社会党は従来の戦勝中は黙して政界の雲行きを眺めて居つたけれとも、此の時に至り民衆の疑惑を利用し七月二日には議会に於て戦争開始以来初めて予算案に反対し八月に入るや人民に対する食糧補給の思はしからぬことを攻撃して人民の落胆を助成し、極左党は公然と革命の必要を絶叫するに至つた。赤化分子の活動は更に悪辣を極めて遂には独逸国民精神を崩壊に迄導いたのである。即ち此の頃に至るや各新聞の論調は全く乱れて麻の如く仏国政府の御用新聞の如き観を呈するものあり、街頭にはデマが乱れ飛んで或は「ヒンデンブルグ元帥は自殺した」と伝へ、或は「十八日の戦闘一日で我軍は捕虜十四万を出した」等々と伝へられた。一方に於ては又警察機関の無力化によつて武装せる強盗の横行を見るに至り、九月伯林市内に於て巡査の死傷一ケ月八十名にも上つた。赤化分子は又其の魔手を娯楽方面に伸ばし、不純、淫靡なる娯楽は流行し、国民は其の日其の日を唯享楽に耽溺するに至つた。九月末に至るや国民の恐怖は其の極に達し、新聞は今日迄禁止せられて居つた敵軍公報を堂々と競りて掲載し、戦線に向ふ補充兵は民衆の希望により出発を中止し、或は逃亡兵は到る処に出没して掠奪を恣にし、諸種の会合に於ては革命万歳が三唱せられた。十一月に入つて軍隊、民衆の混合せる暴動は伯林、漢堡、ミュンヘン、スツットガール、プレスラウに爆発し、十一月五日キール軍港に起つた海軍の反乱は漢堡、ブレーメン、リュベックに蔓延して国内到る処兵卒及労働者委員会実権を握り、伯林に於ては三日間の騒動の後遂に革命の成功を見るに至つたのである。
 斯くして世界に誇る団結力を有した独逸国民精神は半狂乱の裡に巨木の倒るゝが如く崩壊するに至つた。

   四 コミンテルンの侵略戦

 「万国の労働者団結せよ」の標語の下に生れたインターナショナルは内部思想抗争によつて瓦解し、次いで第二インターナショナルが生れ、更に第二インターナショナルから第三インターナショナル即ちコミンテルンが分離した。其の分離の主なる原因は欧州大戦に対する第二インターの態度に関する不平である。即ち予て戦争反対を主張しつゝあつた第ニインター加入の各国社会主義者も一度大戦勃発するや各々自国の戦争加入を是認した。斯くして第三インターナショナルは成立しロシヤ革命を成就し、世界革命運動の指導権を握るに至つた。
 第三インターナショナル即ちコミンテルンは一九一九年創立宣言と共に世界赤化革命の根本方針の下に先づ其の行動を未だ世界大戦の創痍癒えず国内政治経済及社会上の不安状態より脱し得ない欧州各国より開始し次いで其の鉾先を東亜に向け、殊に未だ政治経済社会的組織の脆弱なる外蒙、支那本部、満洲、新疆の赤化に主力を傾注したる結果遂に数年を出でずして外蒙は完全に赤化され、新疆亦殆ど其の席捲に委ね、支那に於ては一時は四百を算するソヴィエト区、五十万を算する紅軍組織に成功して其の全国統一事業を阻害し、満洲国には其の社会秩序攪乱部隊たるパルチザン軍十万を擁するに至つた。
 我国とコミンテルンとの関係は、大正十年頃朝鮮人某、支那人某を介し日本の主義者に宣伝費用を支給すとの申入れに対し連絡員を上海に派遣せしを具体的連絡の第一歩とし、之が影響下に暁民共産党組織せられて以来弾圧に抗して執拗なる活動を続けて居つたが、累次の急迫的大検挙により一路衰退の過程を辿りつゝあつた時、満洲事変勃発に伴ふ国民主義の復興によつて更に衰退を加へ、一時壊滅の危機に瀕して断末魔的兇暴性を発揮したる二、三の事件を見たるのみであつて、終ひに日本共産党は中央派、多数派の二派に分裂し、内部抗争激成して四分五裂の状態となり、僅かに生存の余喘を保つに過ぎざる状態となるに至うた。然るに昭和十年七月末開会せられたるコミンテルン第七回大会に於て反戦反ファッショ闘争の為社会民主主義との共同闘争、大衆獲得の為諸合法団体への潜入、各国支部の特殊事情による独自的活動等運動方針の一大変換を行ふや、此の方針は敏感に我国に於ける此の運動に作用し殊に二・二六事件以後の情勢に乗じて頓に活気を呈するに至り、労働組合の全的合同を提唱しつゝ合法的擬態の新戦術を以て巧に党の再建に向ひ執拗なる闘争を実行しつゝあるは注目すべきことである。
 殊に今日吾人の忽せにし得ないのは此の種運動の偽装化及国際化竝に軍民離間に対する積極的攻勢である。元来コミンテルンは全世界六十余箇国に其の支部を設け、極めて緻密なる国際網に依り変通自在、凡ゆる神出鬼没的巧妙手段を用ひ活動を続けつゝあつたが、第七同大会以来此の活動は愈々露骨となり反ファッショ共同戦線の構成竝に強化の為の新指導精神に基き所謂人民戦線等の用語の下に其の運動を巧に擬装し、広汎なる大衆を獲得結合し、究極に於て赤色革命を誘導せんとしてゐる。即ち同会の決議は対独関係に於ては仏国に於ける人民戦線の結成或は西班牙内乱となつて現はれ、又隣邦支那全国に亙つては抗日人民戦線を結成せしめ、或は排日「テロ」行為を続発せしめて日支両国関係を著しく悪化せしめんと努めつゝある現事態に現はるゝ等東西両洋時を同うして公然以夷征夷策を用ひ、各国間の友交関係を阻害することにより世界平和に間隙を生ぜしめんとしてゐる。又昭和十年頃よりは米国方南よりする宣伝路線を開拓し、米国共産党より内地左傾分子宛宣伝印刷物を密送して運動に努めつゝあつたが、昭和十一年に入り依然此の種策動は執拗に継続せられ、殊に二・二六事件勃発後は同事件を利用し日本に於けるファッショの本体は軍部なりと誹謗し之が打倒の為広汎なる人民戦線確立の急務を強制し又は同事件を廻つて殊更に将兵一体の実を傷け軍民離間を策すると共に革命達成の為共産主義者の活動を煽動し、反戦反軍闘争を強調して「世界赤化の運命は東方に於て決す」なるスローガンを如実に実現せんとずる状態である。
 由来我が国民性に於ては徒らに新奇を追はんとするの弱点を有し、世界大戦直後輸入せられた所謂デモクラシー思想の如き最も敏速に我国上下に浸潤し、其の根強さは今日に於ても尚幾多の害毒を流しつゝある。コミンテルンの宣伝により欧州に「人民戦線」なる用語が流行すれば、無批判に直ちに之が流行を見んとし、其の裏面に在るコミンテルンの魔手を閑却して居る様である。斯くして巧妙にカムフラージュしたコミンテルンの策動は種々なる形態に於て侵略の魔手を伸ばしつゝあるのである。

   五 コミンテルンと皇軍

 既に述べた如くコミンテルンが第二インターより分離するに至つた原因は戦争問題であるからコミンテルンは設立の当初から軍事問題を重視して居るのは勿論である。一九一九年のコミンテルン第一回大会に於て軍隊の崩壊なくしては革命成就せずとの鉄則を定め、翌二〇年の第二回大会に於ては軍隊に対する共産主義の積極的且組織的宣伝の必要を力説し、軍隊に対する宣伝を怠るものは革命的義務に対ずる叛逆であるとさへ極論して居る。更に一九二七年の大会に於ては「共産党の戦争に対するスローガンは「戦争を内乱へ転化せよ」でなければならぬ、之が為共産党はブルジョア軍隊の存在を否定するも、党員は之に投ずることを拒否してはならぬ、党員は進んで軍隊に投じ、軍隊の内部崩壊に努力せよ…云々」とて対軍隊の手段を最も露骨に指令して居る。欧州大戦前皇帝に忠なる点に於て世界に誇示し、人亦之を信じたる独露の軍隊や愛国心の強烈なる点に於て特徴のあつた仏国軍隊が前述の如き結果に陥らんとは何人が克く之を予見したであらう。現に今日注意すべきはコミンテルンの新指導方針の下に巧妙なる偽装を以て潜行的に運動し或は右翼運動を利用し、或は二・二六事件を利用して、将兵、軍民離間策動が行はれつゝあることである。精神的威力を以て誇る国軍に対しては固より何者を以てしても微動をも与へ得るものではないが、而も斯る傾向の益々猖獗を極めんとする情勢に於ては之が監視は一日も忽せにすることは出来ない。

   六 思想戦と日独防共協定

 世界大戦に於て外に赫々たる軍事的成功を収めつゝ戦捷の一歩手前に於て思想戦、宣伝戦に敗れた独国は、更にヴェルサイユ条約により徹底的に打ちのめされたが、此の創痍に乗じコミンテルンは堂々伯林に対欧化赤化本部を置き縦横に赤化の魔手を振ひ、独逸に於ては共産革命の機運は爛熟し将に沸騰点に達せんとしつゝあつた。此の時現出したるヒトラー政権は祖国の危急に対する十分なる認識を以て獅子奮迅の大活躍をなし、以て之に徹底的大弾圧を加へ、爆発の前夜に於て阻止するを得た。即ちヒトラーの現出[ママ]は国民に対する警鐘となり、火を発せんとする如き熱烈なる其の意気は遂に独逸民族精神の覚醒に成功して独国国民に向ふべき方向を示し、今や一致せる全国民の完全なる支持を以て、隆々復興独逸を現出するに至つたのである。其の政策の根本が絶対的反共に在ることは、昭和十年五月国会に於けるヒトラーの明瞭峻烈なる態度或は昨年九月ニュールンベルグに於けるナチス党大会に於ける深刻痛烈なるコミンテルン攻撃演説が之を示して余りあるものであつて、一方コミンテルン第七回大会が堂々現時に於けるコミンテルン活動の主たる対象は日本及独逸に在りと宣言したる以上、防共思想戦上類似の立場に立つ日独両国が提携して共同防衛に当り、世界人類の平和幸福の維持増進に貢献せんとするは、正に当然の帰結と謂はなければならない。
 今日の思想戦が国際的となつた事は茲に申す迄もない。従つて既に展開せられつゝある悪辣狡知を極めたコミンテルンの国際的思想侵略に対抗する為、国際的思想提携を以てする所以も亦此処に在るのである。世界各国は過去及現在に於てコミンテルンに悩まされ人類文化国際平和破壊者であるといふ十分なる認識と体験を経て来たのであつて二、三の例を挙げて見れば一九二三年英印革命暴動の指導、一九二五年仏国コミンテルン員ヴォーリン及一九二七年コミンテルン員ラコフスキーの赤化工作の廉による同国退去強制事件、一九二七年英蘇国交断絶の因となつたジノヴィエフの英国赤化革命指令書事件、前述の如き東洋に対する工作等があり、又現在に於ても仏国が独国を怖るゝの余り蘇国と提携するに至つた結果は、仏国軍隊内に迄も赤化思想の侵入を見、共産党機関誌たる巴里ユマニテ紙は広く軍隊内に普及せられ、今やコミンテルンの策動は軍当局の頭痛の種となつて居る様である。斯くの如くコミンテルンが世界に流布しつゝある害毒は真に戦慄すべきものがあり、各国亦其の策動に悩まされつゝある今日、諸外国中日独防共協定に対して恰も奥歯に物がはさまつた様な態度に出て居る国のあるのは何故であらうか、之は現状維持を欲する国々が日独両国の勃興を畏怖し此の提携の裏面には軍事的或は政治的提携が存在するやの憶側を為す為か、或は微妙なる国際関係の動向によるものであらう。
 若し夫れ本協定成立の発表と共に大いに排撃の気勢を上げて「蘇国を脅すものなり」とて盛んに毒舌を振ひつゝある蘇国に至つては語るに落ちるものであつて、嘗て「コミンテルンは蘇政府とは別個のものであつて赤化問題は政府の与り知らざる所」と世界に放送し、逆抗議を為したことを想起すれば余りに手前勝手な言分であると謂はねばならぬ。先方にして若し「政府とコミンテルンは二姓にして実は一身である」と云ふならば我としても協定の内容に更に検討を加へる必要があらう、又蘇聯政府が口を極めて防共協定に対し反対宣伝に之努めて居る事実は本協定の結果彼が亦赤化工作上如何に支障を感じあるやを物語るものと言ふべきであらう。現時見方によつては既に世界大戦は開始せられて居るとは識者の認める所であつて欧州に於ては西班牙内乱と云ふ形態に於て各国の武力戦乃至は思想戦が此処を先途と血みどろの戦を続けて居る。東洋に於ても蘇聯は蘇満国境に戦略展開を完了し、一方支那路線と亜米利加路線方面より盛んに思想的挑戦をなし、武力なき侵略を企図して居る。然るに今尚之等世界的情勢を察せず今日の情勢を楽観してこの問題を単なる打算的経済上の損得のみを以て批判し或は防共問題は国内の警察問題であつて外国と提携するの必要を認めずと論じ、又蘇国側の協定に対する毒舌と同一の論調を以てするに於てはコミンテルンの宣伝に乗ぜられたと称しても過言ではあるまい。吾人は世界の大勢とコミンテルンの実体とを克く把握し、過去に於ける思想戦の実相を認識すると共に我が國體を世界に顕現すべく各国民一致して思想国防に対処しなければならぬ。