第一七号(昭一二・二・一〇)

紀元節制定の由来
紀元節御下賜金に就て
海上戦闘力に就て
暴露された蘇連の並行本部事件
文部省
宮内大臣官房総務課
海軍省海軍軍事普及部
外務省情報部

 

 紀元節制定の由来
                     文 部 省

 皇祖天照大神が皇孫にこの國土を授けたまひ、皇孫降臨したまうてから、御三代の間、日向に於て静かに正しき道を養ひたまうたのであるが、神武天皇に至つて、更に皇都を大和に奠めて、天業を恢弘したまうたのである。爾来我が国運は、天皇御統治の下に益々隆昌に赴いたが、社会の推移と思想の変遷は、図らずも武家政治を将来して、変態の政体を七百年も持続するに至つたのである。然し、江戸時代は於ける文教の隆盛は、遂に古史古典の研究に及ぶに至つて、始めて國體の本源を明徴にし、武家政治の國體に戻れる所以を悟り、こゝに尊皇の思想が勃興して、王政復古の唱道となり、将軍慶喜も亦大義を重んじて、断然大政を朝廷に奉還し、再び國體の正しき姿に立帰つたのである。而もその復古は、神武天皇御創業の王政に復して、皇威を中外に宣揚すべきであるとの論は、夙く岩倉具視の客玉松操等によりて唱へられ、世論遂にこゝに帰趨して、明治維新の大業が成るに至つたのである。されば、慶応三年十二月九日王政復古の大号令を発したまひ、「諸事神武創業之始ニ原キ縉紳武弁堂上地下之無別至当之公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊 叡慮」と仰せ出されたのである。
 それ故、明治の御一新は、全く神武天皇御創業の始に基いて、庶政を革新されたのであるから、この御精神の下に、著々新政の進むに従つて、まづその名義を正し、こゝに我国の紀元を定めらるゝことゝなつた。即ち明治五年十一月、従来の太陰暦を廃して太陽暦を頒行するに当り、太政官布告を以て、神武天皇の御即位を以て紀元と定むる御旨を宣し、その二十五日、吹上御苑内に遙拝所を設けて、神武天皇の御祭典を挙げ、在京の文武百官礼服を著用してこゝに参拝したのである。翌くる六年一月、今迄の五節供を廃止すると共に、新に神武天皇の御即位日を天長節と共に、国家の祝日と定められ、その三月七日に、その御即位当日を紀元節と称する旨を布告せられ、愈々神武天皇御即位の辛酉ノ年正月元日を太陽暦に換算して、二月十一日を以て紀元節を定めて、明治七年の本暦より暦に上すことゝなり、こゝに二月十一日の紀元節が、国家の祝日として、全国民の慶賀するこよなき目出度い日となり、今や四大節の一として大切な記念日となつて居るのである。
 かくて、紀元及紀元節が制定せられてから、皇紀が公けに用ひらるゝ外、民間刊行の史書その他の載籍にも、皇紀を用ひる事が行はれ、又紀元節を期として、種々の行事が挙げられたが、中にも紀元二千五百四十九年明治二十二年二月十一日の紀元節当日、御新造の東京宮城正殿に於て、万古不磨の大典たる欽定大日本帝国憲法の御発布があつた事は、国民の斉しくその聖恩に感激し、永久に忘るべからざる一大盛事である。惟ふに、世界東西国多しと雖も、一国の紀元を第一代の君主の即位に置き、その即位日を紀元節とするが如きものは、何処にも見当らないのである。かくの如きは、実に我国の様な、皇祖天照大神の神勅に基いて、万世一系の天皇が天壌無窮に統治したまふ國體に於てのみ、始めて可能であるので、我が國體の世界に無比なる特色も亦こゝに見られるのである。遡つて考ふるに、神武天皇は、今より二千五百九十七年前の二月十一日、いとも荘厳なる御儀を以て御即位式を橿原ノ官で挙げさせられ、始めて第一代の天皇として天つ日嗣の高御座に即きたまうてから、頗る宏大なる規模を以て、皇祖の天業を恢弘したまうたのであるが、明治維新以来の復古精神は、即ちこの皇祖皇宗肇國の大精神によるのであるから、爾来国運の彌々隆昌にして、今日の如き皇国の大をなした所以も亦こゝに基くのであらねばならぬ。されば、この国家の一大記念日に際しては、国民挙つて宝祚の無窮を祈り奉り、国家の隆盛を祝福すると共に、遠く皇祖皇宗肇國の昔を敬慕して、肇國の大精神を奉体し、古来一貫せる国民精神を発揮し、以て臣民翼賛の誠を致すことを誓はねばならぬ。