第三号(昭一一・一〇・二八)
   地方財政及税制改革        内務省地方局
   燃料国策に就て           商工省鉱山局
   支那は赤化し得るか        外務省情報部
   最近公布の法令          内閣官房総務課

 

支那は赤化し得るか      外務省情報部

一 東亜の安定勢力とは

 国際聯盟が満洲国不承認の決議を採択し、アメリカ合衆国がスチムソン主義取消を宣言しなくても、満洲国の儼然たる実在は最早愛憎を超越したる事実となつてしまつたと同様に、日本の東亜に於ける安定勢力たる地位も、第三国の好むと好まざるとに拘らず、今や現実的事実として確保され、何れの国家、民族、國體乃至はブロックと雖も、濫りに覬覦するを得ない域に達した。云ふ迄もなく、斯かる地位を自負し、その確信を欺かぬ為には、苟くもこれを否定し去らんとする企図ある以上、その相手方の如何を問はず、躊躇なく、これが防衛芟除に必要なる工作を施すべき不断の迫力と用意とを要する。
 斯やうな意味で、日本は共産第三インターナショナルのアジア赤化、就中支那共産運動に対しては、宿命的対抗を余儀なくされる。一月二十一日第六十八回休会明け議会の劈頭広田前外相は
 「支那の今日直面して居りまする困難の最大なるものは、共産主義の運動と思はれます。而して東亜の不安定は、赤化運動の正に乗ずべき点であり、支那の如きは其の辺境地域は勿論、内部の社会組織に於ても甚だしく其の脅威を受けて居りまして、支那に於ける赤化分子の跋扈は想像以上と思はるるのであります。抑々赤化運動の危険は東亜に限らるる訳ではありませぬが、東亜の天地は今日特に其の活動を見て居るやうであります。茲に於て吾人は東亜の安定否世界の安定の為に、此の東亜に於ける赤化運動を防止し、支那を其の危険より免れしむることは単に隣邦支那の為のみならず、各国共通の重大事でなければならぬのであります。之が今回決定致しせしたる方針の第三点でありまして即ち帝国は赤化防止の為に支那と種々の協力を行ひたいと云ふ趣旨であります」と率直に我対支三原則の片鱗を示唆したが、越えて五月六日の第六十九回帝国議会に於ても、有田外相は右広田外相の論旨を確認すると同時に「東亜に於ける赤化勢力の侵入に付きましては、帝国政府は常に細心の注意を払ひつつあるのであります。曩に四川省方面よち陜西省に移動致しました共産軍主力の一部は、最近山西省に侵入し、同方面に於て頻りに活動を続け居るやに伝へられまするのみならず、今後の状勢如何に依つては、更に北上せんとする姿勢を執つて居るやうにも見受けられせすることに付き、帝国政府は深甚なる注意を払つて居るのであります」と声明して帝国政府の支那共産運動に対する不断の関心を閘明したが、特に将来の見透しに関聯して支那共産軍の北上に関し注意を喚起したことは、警告的意義を有するものであり、此の点に関しては既に聯盟支那調査委員リットン卿一行が来朝した当時、我方より警告して置いたところである。

二 支那共産運動の永続性

 興亡隆替なき支那の共産運動の将来に於ける継続性を予測することは殆ど不可能に近い困難を伴ふ。一見支那に於ける共産運動は一九二○年の中国共産党組織に端を発し、コミンテルンの指導によりて育まれたるものの如きも、所謂中国紅軍と称せらるる支那共産軍の実体を解剖しても略々想像せらるる如く、彼等は在来の如き単純な土匪でなく、軍閥でなく、と云つて純然たる共産党軍でもない。寧ろこれら三者の無智、弱点、不平を巧みに握み操りつつある党代表者によつて指導統制せられつつある渾然たる混成軍団たることが判る。一貫せる主義主張によつて死生の巷を彷徨するも敢て悔なしとする奥床しさを蔵してゐる訳でないにしても、其の結成された動機がその混成組織の裏書してゐる如く支那特有の政治的、経済的及社会的欠陥に深く潜在してゐる点は見逃し雖く、単なるコミンテルンの使嗾に基く、偶発的現象でなく、社会各層に於ける欠陥が除去せられざる以上、その越滅を期し難い危険性を包蔵してゐる点は特に留意すべきところであらう。一九二四年一月の国共合作、即ち国民党と共産党との提携以来一九二七年七月の国共分裂は至る約三箇年半の間、支那共産党が合法団体として公然檜舞台に活動し、分裂以来今日に至る迄約十箇年に垂んとするも南京政府の威力を以てして、紅軍竝に彼等が占拠地方に設定する所謂ソヴイエト区域の徹底的掃滅を期し得ないのは何を暗示してゐるのであらうか。
 右国共合策の時代が中国共産運動の最高潮期で、労働運動初め各方面は著しい赤色勢力の伸張発展を見たのであるが、国共分裂後の共産運動は遉(さすが)に衰頽の兆候を萌し、其の後は所謂破壊的暴動主義を振翳して跳染を恣にした張本人、中国共産党中央委員会宣伝部長李立三等に依り勢力挽回を策したるも、之又失敗し、一九三〇年莫斯科コミンテルンより李立三路線の清算を為すべき旨の指令接受後党勢益々下り坂となつた観はあつたが、暴動主義革命を清算した中国共産党は一九三一年満洲事変前後から、江西を中心とし其の武装勢力たる中国紅軍及ソヴイエト区域の組職化に著手し、三一年第一次ソヴイエト全国代表大会開催の結果、同年十一月七日に至り江西省瑞金にソヴイエト区域を統轄する最高機関として中華ソヴイエト共和国臨時政府を樹立し、ソヴイエト政策竝に紅軍の統制強化を講じた結果、漸く頽勢を挽回したが、蒋介石の前後五回に亙る討伐囲勦によつて遂に一九三四年夏秋の交永年占拠した江西省の中央ソヴイエト区域を撤退して所謂西遷運動を開始し、その主力たる朱毛軍数万は同年暮には早くも湖南省南部を横断して貴州省に侵入、翌一九三五年初頭には更に四川省侵入を日標に貴州、四川、雲南省境一帯を攪乱し、五月遂に日的地占拠に成功した。
 全支共産軍の中南支より西方への大移動が果して予定の行動なりや、或は蒋介石の囲勦政策の為にその意に反して余儀なくされたものなりや否やは別として、何れにするも最近一、二年間に於て行はれた彼等の西遷運動には看過を許さざる企図が含まれてゐるやうにも見受けられる。
 蓋し本年上半期に於ける支那共産軍の主力は陝西省北部の毛沢東、劉子丹、徐海東軍約二万乃至三万、西康省東部の朱徳、徐向前及賀龍、肅克軍約五六万との二地域に分れ、数年前各地に散在してゐた割拠主義を一変したが、所謂この西遷が、更に新疆及外蒙方面へ聯絡する所謂国際路線の完成打通を徐々に実現せんとする前提とすれば、最も危惧された本格的赤化工作に著手したものと見るべく、彼等の西北乃至四川集結は戦略上却て優利な地位を獲得せしめたとの自讃を以て必ずしも共産党一流の強弁と否定し去り難いものがある。
 「ソヴイエト区域は今日幸にして蘇聯側と直接地域的に接触し居らざるを以て、今後万一外蒙古トルキスタン或は西伯利方面に於て露国と接壌するに至らんか、支那政府独自の力を以てしては遂に如何ともする能はざるの事態に立ち至り、支那全土の赤化も亦必ずしも絶無と云ふを得ざるべく、四億の人口と無限の富源とを有する赤色支那と世界の六分の一の領土を有するソヴイエトロシアとの提携は、隣邦我国は素より世界全体の一大脅威なるやに思料せられ、旁々支那共産運動に対しては各国何れも細心の注意を払ふ必要あるべし」とは、リツトン調査委員に対して与へられた警告であつた。而も今や支那共産軍は、この最悪の事態を予想せしむる一大脅威たるべき素質を拡充するに相応しい地位と機会を与へられつつあるのである。

三 最近に於ける中国紅軍の動静

 支那共産軍の奥地潜入は彼等の行動明確化を困難ならしめるに至つたが、その概況を鳥瞰するに、本年二月二十日前後陜西省北部にあつた中国紅軍の主力毛沢東、徐海東等約二万の部隊が大挙黄河を渡つて山西省に侵入し、同省の三分の一の広汎なる区域を占領乃至攪乱した事実は尚一般の記憶に新しいところであるが、同軍は五月、山西を引揚げて陜北の旧地盤へ退去したが、何もなく同軍は之を棄てて西進し甘肅、寧夏省境へ移動した。一方西康省に蟠踞してゐた朱徳、徐向前軍及駕籠、肅克軍は相呼応して再び同省を出で、四川省北隅から一部は青海に、一部は甘肅に入り、甘寧辺境の毛沢東軍と合流せんとする態勢を示して来たことは注目を要する。
 更に前記各紅軍の動静を地域的に探求するに
 (イ) 西北方面に在つては、陜北の根拠地を抛棄して六月末甘肅、寧夏省境へ移動した毛沢東、劉子丹及徐海東の各紅軍は其の後も依然同地方に占拠して居るやうに見受けられるが、最近寧夏省塩池、霊武、金積の各県をもその占拠地域に併呑したと伝へられるに至つた。
 他方中央の勦匪軍は六月末紅軍の主要根拠地堡を攻取せる外、漸次陜北各地の収復及び残匪掃蕩に従事しつつあるものの、匪軍は勦匪軍の圧迫を逃れて今後更に北方乃至西方に転ずるやも測られず、一方西康省より北進中の朱徳、徐向前及賀龍、蕭克軍とも合流の形勢に在るを以て、虎狼を駆りて巣窟の険に拠らしむる惧なしとしない。
 (ロ) 西康省方面に於ては六月末、西康省安郷より巴安(賀龍軍)及理化(蕭克軍)へ分進せる賀龍、蕭克軍は遂に胆化附近に於て朱徳、徐向前軍と合流し、一時甘孜、進白地方に英気を養うてゐたが七月中旬甘孜より東進して、大雲山、大金川を越え四川、西康省境を西北に進軍し七月二十五日一旦青海省の白衣寺に達したるも、同地守備の馬歩芳部に撃退せられて包座の西方阿に到つたが、再転して青海省阿什羌河に向つたといふ情報が伝へられた。
 又賀龍、蕭克軍と合流して一時甘孜に停留してゐた朱徳、徐向前軍は七月中旬同地より東南に方向転換を試み、鑪霍の東方から四川省に入り、綏靖屯の北方九把嶺の西方に於て大金川を渡河し、北方授磨を経由、同月二十四日包座に達した。
 両軍は同月二十八日及二十九日松満の攻略を試みたが、孫震軍の守備堅固にして、これを抜くことを得ず、已むなく同月未包座に引返し同地から北進を決行し、甘粛省に侵入し八月十二日より三日間に亙り岷県を攻撃した様であるが、彼等の意図は甘粛省の縦断を狙つてゐるものと推測されてゐる。
 他方勦匪側の陣容及配置の状況を視るに、特に刮目に値するといふ追撃戦もなく、南京政府の対
西南妥協工作進捗の影響をうけたるものか、曩に湖南より追勦入雲中であつた李覚、
樊ッ、甫部及び四川省の北部松満地方に進出しつつあつた胡宗南部は何れも湖南方南へ撤退し、薜岳部も亦最近四川西部から貴州省に移駐したと報道されるなど、寧ろ局部的退嬰が伝へられ、南京政府の紅軍殲滅は前途遼遠の感を除からしむる情勢に在る。

    四 結論

 これを要するに前掲毛沢東、劉子丹及徐海東軍の甘粛、寧夏攻略、賀龍、蕭克軍の青海省侵入及朱徳、徐向前軍の甘粛縦断計画等これを綜合すれば、各紅軍は轡を列べて雁行、外蒙古、乃至新疆方面に於て直接その私淑するソヴィエト聯邦に接近せんと先陣を争ひつつあるが如き陣形を示してゐる。
 彼等がその師事する蘇聯との接触を自由且緊密化することにより生ずることあるべき脅成に関しては既に引例した。事態今日の如き展開を見ざるに先立ち、一九三五年八月七日莫斯料に開催されコミンテルン第七回世界大会に於て中国共産党代表王明が、支那に於ける紅軍及びソヴィエト勢力の伸張に関して試みた演説を想起するも、思半ばに過ぎるものがある。左に彼の強調した点を新たに紹介する。
 「支那共産党の挙国国防政府樹立に関する提案は国内の客観的状況より観て現実性あるのみならず、主観的要素即ち紅軍及びソヴィエトの勢力伸張より観るも現実的なりと云はざるを得ない。
 共産インターナショナル執行委員会第十三回例会後一箇年半の間に支那紅軍は、百万に垂んとする蒋介石の包囲陣を破つて其の主力を江西、福建方面より河北地方に移すことに成功した。其の間三千粁に余る難路を突破し支那の国内戦争史に未だ甘て見ない偉業を樹て、四川に於て紅軍第四軍と合して成都を中心とし、貴州、四川、西康、雲南、甘粛、陜西の各地を一丸とする大ソヴィエト地域を形成することを得た。一方紅軍は苦戦を累ねつつも、益々其の兵力を集め、支那及び諸外国の新聞の報ずるところを見るに現在兵員約五十万を数へ居る趣である。而かも従来勢力分散の弊を有して居た紅軍の主力は現在では地域的に或は集中せられ、或はパルチザン連絡が完全となり基礎愈々堅固となつた。又紅軍の主力は、従来多年間の戦禍に囚り極度に疲弊せる江西及福建の地から軍需兵員の補充に便にして、敵の襲来を防ぎ易い四川、西康、甘粛、陜西の地に集結せられた。斯くて紅軍の勝利に依り支那共産党中央委員会の標榜せる紅軍百万、領民一億の標語も実現の望み濃厚となつた。紅軍及び支那のソヴィエトは軈て支那国民の柱石となり、同軍は今後日本に対する武力抗争竝に護国運動の先鋒となるであらう。他方支那共産党の勢力も近来著しく伸張し、党員約五十万を算するに至つたが、各ソヴィエト地域に於ては労働者のみならず、一般大衆をも味方とするに成功した。支那共産党の発展は毛澤東、項英、張国Z、朱徳等幾多の偉大のなる政治家、武将、国民的英雄等の輩出した事実に徴するも明らかである云々」
 右王明の袴張的言明は額両通り受け容れる訳に行かぬとするも、支那共産運動の全面的動向を卜するに足る資料たるべき要素を多分に含んでゐることは否定し難く、既にその第一歩に踏み出してゐることは前述の通りである。東亜の安定勢力たる地位に在るものが、この共同の敵に対して防衛工作を施すべき当然の義務があることも亦説明を要しないところと云ひ得る。

(完)