農村生活者の手記
此の窒息から免れたい 加茂健
我々に最早悲惨であると言ふ言葉は適しな
い。
朝四時に起きる。未だ夜が明けない。薄暗
い電燈の下で、萎びた父と母とそして弟と私
と、崩れかゝつた膳に向つて飯を食ふ。固ま
つた冷たい黒い麦飯だ。昨夜の残りなんだ。
病身な父は土人の様に日焼けした顔を歪め
ながら、無遠慮な弟は、餓鬼の様にむしやぶり
食ふ、皆追われて居る者の様な気がして、と
ても落ついて食へない。
食事が終ると父は又腹痛を訴え出した。
父はむつちり屋で終日黙つてゐる、時たま
話すがそれは皆、歪んで行く此の小さな世界
(村)と食へない者の愚痴つぼい欺きだ。
腹痛の唸りが歎息に変つた。
「ちえツ又朝ツぱらから」
俺は家を飛び出す。未だ夜が明けない。棒
と鎌とを持つて、暗まぎれに村から三十町の
坂道を歩いて野山に行く、草を刈りに、牛の
飯料を得なければならぬのだ。夜が明け懸る、
日が照り出すと刈つた草が萎びる、(萎びた
草は牛は食わぬ)だから俺達は日が照り出す
迄に、息もつかずに十五貫の革を刈り取る、
そして担いで又坂道を下つて帰る。家には父
母も弟も最早居ない。野良に出てゐる。総動
員で田ノ草取りだ。
食ひ足りない麦飯腹が早空いて来た、鍋の
蓋を開けて見る、飯は無い、「ちえツ」その
まゝ俺は前の畑にもぐり込んで瓜をもぎ取つ
て噛る、噛りながら歩いて行く。田ノ草取り
にどの田もどの田も黒い田の虫で一杯だ、太
陽は明るい、だのに此の洋々たる青い田の中
にうごめいてゐる黒い虫は、暗い話しで持切
りだ。八月の熱い光を受けて、俺達はこうし
て田の中にもぐり込んだが最後、昼の時間を
知らずお寺の鐘が鳴るまで、田から一歩も出
ない、昼飯の鐘が鳴り出すと、俺達は救われ
た様に、稲の葉ですり切られて、イライラす
る顔を泥手で押え乍ら田からもぐり出る、そ
して道にへたばつて、汗をたらしながら又黒
い麦飯にありつく。こうして日が暮れるまで
働いた。母は夕飯の支度の為に一足先に帰
る。養蚕期から田植時に、田植から手入に、
手入から取込期に、俺達は終日こうして働い
た。
汗みどろになつて、初冬の雪に凍つて、雨
が降つても照つてもだ。盆と正月と村のお祭
以外に俺達に休日は一日もない。
こうした単調で変化のない俺達の生活は、
恐らく何千年の昔から変りは無いだらう、だ
が変つたものがある。変つたものは、飯を節
約しなければならない事と、村に自殺者の産
出と、住み馴れた家を潰ぶして村を去つて行
く村民の殖える事だ.
一ト月も前、俺の家の隣りの山田力三さん
が家財道具を叩き売りして、その明くる日、
泣き喚く娘を引張つて、「南米に行くんだ」、
と言つて出たまゝ未だ沙汰がない。俺達は極
力反対をしたが留める事が出来なかつた。
無理もない、彼の家には、最早五斤の米しか
残つてゐないのだ、金は一銭もない、今年の
春の税金にせがまれて、本年の食料を全部売
つてしまつたんだ。
村では三人の肺病患者と二人の胃腸病者が
青白くやせて寝てゐる。一年も前からの事
だ。けれど全く手の付けられやうが無い、金
が無い、金が。医者を迎えるにも金が一文も
無いのだ。家の屋根は崩れかゝつて、雨の日
は滴が洩る。夏でも湿気で不快だ、だがもう
どんなになつても、只ぢつとして見て居る事
だけしか出来ない。
長い一ケ年の労働で俺の家では、秋の終り
に米十二石を生産する。内六割七分、八石一
斗の米を、地主が地代として搾取する。三石
九斗の収益だ、四人が一年間の労働で。
今年は繭価が暴落してしまつた、俺達の生
命の綱として、最早本職にまでならうとして
ゐた養蚕が、去年の不況でさへふるえ上つた
のだに、鳴呼何とした事だ、今年は半価にガ
タ落ちてしまつた。去年の八十円が今年の四
十六円に暴落してしまつた。
俺達四人の家族が、崩れかゝつた身体をお
互に励ましながら、夜の日も寝ずに(養蚕期
は平均四時間寝る)睡眠不足に悩み、血の出
る様な働きの中に戦ひ取つた尊い代償が、十
六貫……七十三円。七十三円だ。養蚕具と桑
の肥料代を差引いた残り五十二円……それと
秋の終りに売る米一石代、二十五円、計七十
七円、これが俺の家の円から這入り込む収入
の総べてだ。
それだのに、此の税金を納めねばならぬ。
此の肥料代を払わねばならぬ、此の電燈料を
掛けねばならぬ。我々は今、最後の一滴の血
までも吸ひ尽されてゐるのだ。
一、税金
県税 二円八十銭
村税 二十六円
一、肥料代 二十円内外
一、電燈料 十一円
計 五十九円八十銭
差引収入 十七円二十銭
十七円、一ケ月一円三十戒、此れが四人の
家族の生活費だ。一円三十銭と黒い麦飯。
それだのに、村の人達は俺の家の生活を羨
んでゐる。
如何に惨めだとは言へ、都会労働者風景は
まだましだらう。俺達を見よ、人は我等を農
村の青年だと言ふ、数年前までは、我等は貧
しいながら、盆と正月に、新らしい着物と下
駄で、遠い町まで踊りと歌留多に出かけたも
のだ。だが俺達は今着物が無い。下駄もない、
親父の古物なんだ、風呂は月に二回しか入ら
ぬ、石鹸だつてさへ使ふ事を許されない家計
ではないか、俺達の生活の中に、只寝る時間
以外に幸福と言ふ一瞬の時間もない。
地主は、お前達が幸福を頗ふ事は罪だ…
と言ふ様な事をよく言ふ。働いて米を作る、
米を作つて地主に貢ぐ、そして、その残りを
黒くにごして食ふ、そして又働く、毎年同じ
動作を繰り返してゐるのだけれど、俺達は今
や麦飯が芋に変つて来た。家は段々腐つて来
る、過労の為に父は萎びて居る、駄目だ、幾
等働いても苦しくなる許りだ。
都会の諸君達よ……俺達農民は全日本八千
万の民を養つてゐる、だのに俺達は飢えてゐ
るのだ、飢じい、……米の飯が食へないのだ。
麦五合に米五合の黒い飯、一週間に三日は必
ずオミイ(米と麦と野菜を混ぜてドロドロに
煮る分量が殖える)を食ふ。瓜、柿、芋、な
どは俺達の第二次兵糧なんだ。
こんな不合理な事があるものか。こんな矛
盾した世の中を誰が造り出したんだ。俺達は
地主に払わねばならぬ小作米に、税金に、肥
料代に、一ケ年三百六十五日の内三百日は、
搾取さるゝ為に生きてゐるのと少しも変りが
ない。
税金の滞納か? 当然ではないか。
教員の減俸か? 当然過ぎる程当然ではな
いか。俺達、食わずの苦しい生活をしてまで
も、他人の裕富な生活を築き上げねばならぬ
と言ふ法がないだらう。
政府は近時、農村救済をやかましく言ふて
居るとの事だ、だが地主の政府に何が出来る。
農村に金を貸し付けて救済すると言ふ。
そんな事で此の俺達を救ふ事が出来るもの
か、……我等に金を貸し付けて、税金を払へ
と言ふのだらう。小学校教員の減俸を行ふな
と言ふのだらう。
そんなものが何になる、 ――それでなくて
さへ俺達は、借金に悩み続けてゐるのではな
いか、もうこれ以上そんな重荷は負ひ度くな
いのだ。
農村救済、これはブルジョア政府、絶対不
可能事だ。見よ。救済は俺達自身で行ふ。要
は我等のものであるべきものを×[一文字伏字]つて居る彼
等の手から、それを取返すと言ふ事にあるの
だから。
我等の無智な間にも、此の苦境より一路…
…活路へ……とそれに要する力強い意識が既
に無意識的に芽生えて来てゐる事を感じてゐ
るのである。
『中央公論』五年十月号
「凶作」
岩手県・奥中山小学校
尋五 田浦勘七郎
私の家は百姓なのですが、お父さんや
お母さんが毎日ごはんをたくのにどうす
ることも出来ないでたゞ涙を落しながら
ひえばかりのやうにたくので私はかなし
くなります。米やひえが取れないので学
校ヘベんとうをもつて行くのにはづかし
くてもつて行けない時もありますし又去
は栗の実もたくさんなつたのでよかつ
たが今年は栗の実もならないので学用ひ
んもじゆうに貰へないのでほんとうにけ
んやくにけんやくをしてつかつてゐま
す。
父さんや母さんがさうしないとしかる
のでどうかしてお米やおかねを降らせた
いものだと思ひます。
(註、此の地方は栗の実を売つて子供の学用
品にあてゝゐる。)
きよう作
岩手県・奥中山小学校
尋三 坂本トミ
私のうちでは米がとれないといつてさ
わいでゐますのでおもしめし(註、稗を
むしたもの)をたべてゐます、そして米
はわづかづゝ入れておもしめしをたべて
ゐます。
そしておもしめしをたくさんたべてゐ
ます。
そしておもしめしをたくさんおづけ
(註、味噌汁)をかけてたべてゐたらうん
とこえました(註、肥つた)そして米も
なくなつた時はそばもちやあはもちをた
べてゐます。それもなくなつた時はあは
めしをにてたべます。そしてあはめしや
ひえめしをにてくれても、だまつてたべ
たらほめられました。
不作のために
岩手県・二戸郡金田一小学校
尋五 佐藤幸四郎
この間、たんぼの畔道を歩いて一人の
おぢいさんが杖にすがつて心配さうな顔
をして来ました。そこで僕の家へきて食
べ物を下さいと言ひましたので御飯とお
金をやつたらうれしさうな顔をしてなん
べんもなんべんも頭を下げていきまし
た。その後を見て僕もこんなになつたら
どうなるだらうと思ひました。その人が
行つた後でお父さんは「今年のやうな不
作にあんなに困つてゐる人が多いのだ」
と言ひました。ほんとうに悲しいことで
す。
(『文芸春秋』九年十二月号西貞之介「凶作地獄」より抜粋)