国家的精神とは何ぞや


 森戸助教授の筆禍事件以来、国家とか、国家的精神とか云ふ事が頻りに問題に上る。就中無政府主義などを唱へて国家を否認するといふは怪しからぬ事だと云ふやうな非難が強く叫ばるゝやうだが、併し此等の人々は国家とか国家的精神とか云ふ言葉をどう云ふ風に解して居るのであらうか。
 国家と云ふ文字を我々国民の共同生活体と解し、其維持発達の為めに己れを捨てゝ事へることを、国家的精神と解するのなら、例へば森戸君の所謂アナーキズムは国家を否認し、国家的精神を軽蔑するものではない。否、森戸君といはず、日本国民は誰しも此意味の国家に反対するものはなからう。斯う云ふ意味で国家的精神の頽廃を叫ぶものあらば、我々は彼等を目して風声鶴唳に驚くの徒と断定するに憚らない。
 通俗の用語として国家並びに国家的精神と云ふ語が右の如き意味に用ひらるゝこと頗る多きは疑を容れない。けれども最近殊に学問上に於ては段々もつと限られた意味に之を用ふることが多くなつた。即ち我々の共同生活が命令強制の権力によつて統括されて居る方面を国家といひ、共同団体の維持発達の為めに此権力を尊重することを国家的精神と云ふのである。斯う狭く限ると、之と区別する為めに前の広い意味をあらはすには自ら別の言葉を用ふることが必要になる。そこで国家の代りに共同団体若くは社会と云ふ言葉を使ひ、又国家的精神と云ふ代りに社会的奉仕と云ふ言葉を用ふる。斯う用ひねばならぬと云ふ約束が今の所厳しく社会的に極つた訳ではないけれども、少くとも学問上に於て斯く使ひ別けるのが便利であると知られて居るのみならず、よし区別なしに国家とか国家的精神とか云ふ言葉を使ふ場合でも広狭何れの意味なるやを明かにすることが必要である。例へば森戸君の場合についても氏が狭い意味に国家と云ふ字を使つたのを広い意味に取つて之を非難するが如きは我々から見れば甚だ可笑しい事になる。
 広い意味に解するなら、我々は絶対に国家を尊重する。飽くまで国家的精神を高調する。けれども狭い意味に解する時には、国家と云ふものに、其程高い値打を置かない。此等の点は尚他の場合に譲ることとして先には主として国家的精神について述ぶるのであるが、我々は国家を狭い意味に解する当然の結果として之を社会的奉仕と同じ意味には使はない。然らばどう云ふ意味に使ふかと云ふに、権力の尊重、即ち国家の命令に服従すると云ふ意味に使ふ。アナーキズムには此事に反対するものもあるから所謂狭い意味の国家的精神は、或一派のアナーキストの排斥する所であるけれども、すべてのアナーキストが之を排斥するのではない。即ち感情的革命的ならざるアナーキストの理想派は矢張り此狭き意味に於ける国家的精神を尊重するものである。国家の命令として正当に成立したものは兎に角一旦は之に従はねばならぬ、仮令内心不服の点あつても出せといへば税金も出す、入れといへば牢屋にも入る。命令の内容に不服があるからと云つて反抗はしない。兎に角国法の命ぜる所、国権の禁ずる所には柔順に服すべきである。此意味に於て我々は国家的精神を必要とし、又之が涵養を大事だと観る。
 此意味の国家的精神ならば、我々は何等の異議もない、否我々も亦其必要を絶叫するものである。
 処が一部の人、殊に官僚階級の人の間には国家的精神と云ふ言葉の内容に、もう一つ余計なものを附け加へんとする。即ち形式上の国家の命令に従ふと云ふ事の外に命令の内容を為す思想にも盲従せよと云ふ事である。併し之は実は今日の国家が我々に要求する所ではない。今日の国家は我々の共同生活の秩序の為めに兎に角命令には服従せよと請求する。けれども他の一面に於ては、国家が間違つた命令を発しないやうに、換言すれば正しく行動するやうに、監督すべき責任を課して居る。更に他の言葉を以ていへば命令の内容については批評の自由を許してをる。極端にいへば命令には従へ、内容には盲従するなと要求して居るものといつてもいゝ。故に命令の内容についても、国家的精神と云ふ事を云々すべくんば、漫りに盲従しない所になければならない。今日国家的精神を論ずるものが動もすれば、命令に対する服従を要求すると共に、命令の内容に対する自由批判を禁ぜんとするのは大いなる誤りである。
 命令に従ふと云ふ風習は実は内容に心服すると云ふ事と離して成立するものではない。内容に服さなければ自然命令其物にも服さなくなるのは自然の人情である。そこで我々は命令に服従すると云ふ国家的精神を盛んにするには命令の内容をよき物にしなければならない。其為めに自由批判が必要だといふのであるが、所謂官僚階級は此論理を顛倒して、国家的精神を養ふ為めに、命令の内容までも正しきものと盲信せしめんとする。先に重大な無理の存することを気附かない。官僚の善政主義が常に実際の事実に裏切られて行くのは其原因実に茲にある。
 自らを独り正しとし、他をすべて指導すべきものと視るのは官僚通有の謬見である。自ら正しとするは常に自ら正しからんとする態度を失ひ、堕落の第一歩に踏み込むものであるが、それでもまだ心から自らを正しとし居る間はいゝ。やがて彼等の陥る通弊は自らを正しい筈のものとする擬制を固執することである。其の結果自分に失態があつても、失態がないものと強弁し、更に又自らを非とするものを、其れ自身が如何なる道理があるのでもすべて之を悪物扱ひにする。失態の為めに職を退く大臣や又は内閣が、強いて病気の為めとか何とか他に口実を求むることは僕の云ふ迄もなく読者の已に知る通りである。我々が支那朝鮮の問題について官僚軍閥の失態を説く時、常に直接間接に当局の圧迫を感じない事はない。我々は内容に不服だからと云つて命令其物に背く考は毛頭無いが、併し国家の命令をして永く本当の権威あるものたらしめんには、内容其物が正しくなければならないから、そこに国家の為めに許されたる批評の自由に拠りて当局の非違を糺弾するを止めない。国家の命令に背いてならないからとて命令の内容にまで盲従する義務は毛頭無い。

 用語の混乱を避くる為めに我々は国家的精神と云ふ文字を単に国家の命令に従ふと云ふ形式的意味に之を使ひたい。此意味に於て国家的精神を軽んずるものは革命主義の社会主義者並びに無政府主義者即ち彼の直接行動を説く所の一派のみである。其以外に於て理論上之を軽んずるものは無い筈である。只実際上此精神には時に緊弛の変はあらう。而して此精神の弛緩を誘致するものは常に必らず当局が実際の施設を誤つた時に来る。就中国家的精神の内容を不当に拡張して命令の内容にまで盲従せんことを迫るが如きは其誤りの最も大なるものである。若し夫れ国家的精神を社会的奉仕の意に解して徒らに人を罵るが如き幼稚なる考方は、頑迷思想の相当に横行する流石の日本でも、殆んど云ふに足るの勢力を有たないやうになつたのは我々の些か愉快とする所である。

                         〔『中央公論』一九二〇年三月〕