両大政党首領の舌戦      『中央公論』一九一五年一〇月

 段々府県会議員の選挙の近づける為めにや、各政党の領袖は、近頃頻りに南船北馬遊説に力めて居る。之も政戦に言論の重ぜられて来る現象の一つとして誠に喜ぶべき事ではあるが、さて其言論の内容を見るときは、吾人は其の軽薄にして貧弱なるに一驚を喫せざるを得ない。末流の言論は暫く之を度外に措く。今近く行はれたる政友同志両政党総裁の論戦を見んか、吾人は心から彼等に立憲国大政党の主脳者たるの資格ありやを疑はざるを得ない。
 加藤高明男の同志会兵庫支部発会式に於ける八月廿八日の演説の大要は、同二十九日の報知新開に載つて居る。之に対する原敬氏の八月三十日水戸に於ける政友会関東大会の演説は、卅一日の国民新聞に載つて居る。其要領は管々しければ先に之を述べぬが、我々の之に付いて甚だ遺憾に思ふ所は、第一に両者共に反対党の立場を適当に理解して而して後攻撃を加へて居らぬことである。言葉尻を捉へて揚足を取ることは、陣笠政客に於ても厭ふべきことである。苟も大政党の首領たるものは、敵党の立場を善意に解釈し、其上にて堂々と攻撃を加ふるの態度に出でゝ欲しい。然るを何ぞや、例へば加藤男は原氏の日支外交批難を「私憤より割出したる攻撃」なりと誣ゐ、原氏はまた「一も国政上貢献せる所なきに拘らず、是れが成功を放言をして憚らず、其厚顔無恥驚くに堪へたり」などと罵倒して居るが如き、其措辞の卑陋なる、車夫馬丁と何の択ぶ所が無い。斯の如きは、大政党の首領として行く/\は一国宰相の位にも登るべき紳士の言として、其の品格に拘はることなきや否や。併し之れ丈けなら未だいゝ。更に遺憾に堪へないのは、第二に彼等の演説の中身が只敵の攻撃のみにして、何等積極的に自家の大経輪を彷彿せしめぬことである。苟くも大政党首領の堂々と論陣を張るに際して、其千万言を費す所、一に敵党の悪罵に止まりて、何等自家の積極的意見を明かにせずとは、何と浅猿(あさま)しき限りではないか。予は右の新聞記事を読み、図らず去年英国に於ける朝野両党領袖の論戦を想起し、彼我政治家の風格斯くも懸絶せるかに驚いたのである。
 去年三月下旬、愛蘭(アイルランド)自治問題の事に関して陸相シーリー大佐の辞職するや、一時首相のアスキス其後を兼任し、慣例に従ひ、暫く議員を辞し、選挙区フアイフに帰りて再選を求めたことがある。四月上旬の某日、彼は選挙区に於て選挙演説を為せるが、此日反対党は亦同じ時刻をはかり、倫敦ハイドパークに於て幾多の演壇を急造し、多数の領袖を集めて大示威的演説会を開いた。首相アスキスは、田舎の一小都会にて為す演説なるも、彼は此機会を利用して自己の政見を天下に発表せんとの意気込を以て、堂々たる大演舌をやるといふことであつた。そこで保守党も之に対抗して大演説会を催したのである。故に倫敦とフアイフと山河数百里を隔つるも、同日同刻なれば正に好個の立合演説たるの観があつた。而して後に其演説の筆記を読みたるに、敵の政見を攻撃すること実に痛激を極めては居るけれども、而かも互に礼譲を失はず、且攻撃の中に自ら自家の経綸を頗る明白ならしむるものがあつた。凡そ政談演説は斯の如きものでなければならぬ。
 殊に苟くも大政党の首領たるものは、常に如何なる機会にても自家の経綸を発表するを忘れてはならぬ。如何なる場合にても、苟くも機会ありて壇上に立つ以上、自家の経綸を民衆に捺し付けるの熱心が無くてはならぬ。吾人が常に喜んで且力めて政党首領の言論に注意する所以のものは、之に依りて彼等の積極的意見を知ることを得るからである。然るに我国の政党政治家は、徒らに皮肉と漫罵に長じて最も大事な経綸の説得を怠るものである。予は敢て茲に儼然として加藤、原の二君に告ぐ。二君が徒らに低級なる国民の趣味に迎合して軽薄なる小ゼリ合を能事とせば、天下有識の同情は遠からず君等の上を離るゝだらうと。